恋するだとか好きだとか
伊東ミヤコ
第1話 それほど人生は甘くない
————— やっぱり、失敗した。大学の入学式で、真っ黒なスーツにノーメイクなんて。鏡やガラスに映った自分の姿が目に入るたび、後悔の気持ちが押し寄せる。
周りの女の子の、血色よく
こんな地味なわたしに手が届くわけがない、分不相応な人を好きになってしまって、ずっと片想いし続けていた、三年間の高校生活。わたしは、彼を作ることなんか考えもしないで、ひたすら勉強に打ち込んできた。
でも、できることなら、大学でこそは、自分に合った人を見つけられたら……なんて、淡い期待も抱いている。だって、人並みに憧れるもん。男の子と出かけたりとか、もっと他のことだって。それくらい、望んでみてもいいよね?
そんなことを考えながら、空いている席に着いて、式が始まるのを待っていたんだけれど。
「…………」
気がついたら、大きく息をついていた。そうは言っても、これからの四年間、通学に家から二時間以上の時間をかけて、こんなに遠いところで人見くんのいない生活を送るんだって。
もっとも、もともと、いなかったのと同じかな。だって、人見くんとは、あいさつをまともに交わしたことすら……と、そのとき。
「嘘……!」
隣の席の顔を確認して、思わず声を上げていた。
「何?」
「いえ、あの」
いぶかしげな表情で、わたしの方に顔を向けた、その男の子。間違えようがない。どうして? どうして、
「何? いったい」
「えっと……わたし、人見くんと同じ高校で」
震える声で、人見くんに事情を説明する。
「あの、わたしは、
だんだんと状況が把握できていく。そう、人見くんと同じ大学だったんだ……!
「人見くんとは、三年のとき、隣のクラスだったの」
やっぱり、格好いいよね。清潔感のある黒髪に、細身の黒いスーツがすごくよく似合ってる。また、人見
「気味が悪い」
「えっ?」
今、何て?
「顔も見たことないし。知らない人間に話しかけられんの、気味が悪い」
心底迷惑そうな、冷ややかな目。
「その、そうじゃなくて……!」
まさか、そんなふうに言われるなんて。でも。
「顔を合わせたことなら、あるんだよ?」
ずっと、好きだったんだもん。ここは、ちゃんと勇気を出さなきゃいけないところ。
「いつか、わたしが運んでたプリントを廊下にぶちまけちゃったときがあって」
冷たい視線に怖じけづきつつも、わたしは続ける。
「そのとき、人見くんも拾うのを手伝ってくれたの」
あれは、高校に入学したばかりの頃だったっけ。何気なく、目の前に落ちた一枚を拾って、差し出してくれただけだけれど。その直後から、気がつくと、わたしは人見くんの姿を目で追うようになっていたの。
目立つ人だから、いろいろな噂も耳に入ってきた。いい話は聞いたことがなくて、女の子を手ひどくふるというのが特に有名だった。でも、そんなことは関係なかったんだ。だって、そもそも、わたしには別世界の人だし……。
「覚えてないけど」
「あ、そうだよね」
わたしのことなんか、記憶にないに決まってるのに。恥ずかしくなって、謝ろうとしたところで、ため息とともに人見くんが吐き出したセリフ。
「なおさら、ゾッとする。拾わなきゃよかった」
「はい……?」
さすがに、自分の耳を疑う。何? それ。わたしの三年間、全否定?
「わ、わたしだって」
どもりながらも、人見くんの目を見据えた。
「べつに、好きで覚えてたわけじゃないもん。人見くんなんて、大嫌い……!」
と、気づいたら。
「あ」
大きな声を上げていたわたしに、周りの視線が集まってる!
「最悪」
ピクリとも表情を変えないで、前を向いてつぶやく、人見くん。ここまでひどい人だったなんて。好きだったのに。ずっと、ずっと、好きだったのに……!
「どうして、教えてくれなかったの?」
待ち合わせしたカフェに、同じ高校だった友達の純ちゃんが現れると、涙ながらに訴えた。
「優貴の驚く顔が見たくて」
「驚くとか、そういう問題じゃないよ」
悪びれるどころか、むしろ楽しそうな純ちゃん。
「よかったじゃん。憧れの “人見くん”と話せて」
「……もう、憧れてなんかないけど」
わたしの淡い恋心は、あの数分間で破れたの。
「まあまあ。まだ子供なんだよ、人見なんて」
人見くんとは高校だけでなく中学も同じだったという純ちゃんは、そんなふうに笑う。たしかに、会わなきゃよかった、口なんかきかなきゃよかった、もう大嫌いって、頭では思ってる。でも、実際には、そこまで割り切れるわけがなくて……。
「純ちゃんは、仲良かったよね。人見くんと」
「ええ? やめてよ」
嫌そうに、純ちゃんは顔をしかめるけれど。
「人見くんって、純ちゃんとだけは普通にしゃべるでしょ?」
高校のとき、すごくうらやましいと思ってたんだ。
「女だと思われてないからね」
「純ちゃん、綺麗なのに」
「もっと言って」
「もう、純ちゃんは……」
ショートカットがよく似合う背の高い純ちゃんは、中性的な不思議な魅力があって、男の子からも女の子からも憧れられるような存在だった。
何かと目立つ純ちゃんと、地味なわたしが友達になったのは不思議な気もするけれど、わたしといると心地がいいと、純ちゃんは言ってくれる。そんな純ちゃんは、この春からは近くの短大生。
「それにしても、優貴の顔も覚えてないなんて、やっぱり変わってるよ」
「うん……」
あれだけ、純ちゃんと一緒にいたのに。よっぽど、存在感がなかったんだろうなあ。
「まあ、応援するよ?」
そこで時計を見て、純ちゃんが立ち上がった。
「応援って……あ、バイト?」
純ちゃんは、いつも慌ただしい。
「そ。飲み屋の方のね。稼いでくる」
「待って、純ちゃん」
「ん?」
わたしが呼び止めるのをわかっていたかのように、純ちゃんが振り向く。
「あの……例の人とは、まだ会ってるの?」
「会ってるよ。別れる理由もないし」
わたしの質問に、少し不自然な笑顔で純ちゃんが答える。
「そう……」
純ちゃんは、いわゆる不倫というものをしている。相手は前のバイト先の店長らしいんだけれど、歳もだいぶ離れていて、わたしたちくらいの歳の子供までいる人。どうして……と、口から出そうになるのを抑えた。
「幸せな家庭で育った優貴には、理解できないよね。わたしがやってることなんて」
いつも、最後は寂しそうに笑う、純ちゃん。お父さんを早くに亡くして、お母さんと二人きりで暮らしてきた純ちゃんの大変さは、わたしの想像をはるかに上回っているはず。
「じゃあね、優貴」
「……うん。気をつけてね」
わたしの髪をくしゃっとつかんでから、純ちゃんが急ぎ足で店を出ていく。たしかに、過保護気味な家庭で、わたしはぬくぬくと育てられてきた。でもね、純ちゃん。大好きな純ちゃんに、そんなことを言われたら、わたしも寂しい気持ちになるよ。
休みをはさんで、通常の登校日の一日目の今日は、ほぼ全員黒一色だった入学式から一変。サークルの新勧が始まり、大学中が浮き足立ったムード。
そんな雰囲気の中、特に興味のあるサークルもないわたしは、人見くんと会わないか、嫌な緊張感でいっぱいなだけ。やっぱり、子供っぽいなんていう理由では片付けられないもん。
気味が悪いとか、ゾッとするだとか、いくら何でも傷つくよ。同じ大学じゃなければ、よかったのに。そうすれば、人見くんのことは、高校生活の甘酸っぱい思い出として、なつかしく思い返せる日が来たはずで……と、そこで。
「人見くん……!」
たくさんの生徒でごった返している構内で、友達らしき男の子と話をしている人見くんの姿をとらえて、とっさに声が出てしまった。
思ったとおり、わたしに気がついた人見くんは、迷惑そうな表情。それもほんの一瞬で、すぐわたしなんか見なかったかのような空気に戻ったけれど……だって、しょうがないじゃない。
人見くん、目立つんだもん。見ようとしなくたって、そこにいるだけで、目についちゃうんだから。しかも、ちらりと見えた、一緒にいた同じく新入生っぽい人も、相当目を引く感じで ————— 。
「ねえ」
気がつくと、わたしの目の前に、人見くんとしゃべっていた男の子本人。
「えっ? えっと、わたし、ですか?」
遠目でも、わたしとは世界の違う人なのはわかったけれど、こうして近くで見ると、さらに肌で感じる。
すっきりと整った顔立ちで、背も長身の人見くんよりもさらに高いくらいだし、自然に茶色がかった髪は、女の子みたいに綺麗。このわたしが、こんな人に話しかけられてるなんて……!
「うん。この前、玲に『大嫌い』って言った子でしょ?」
「いえ、あの……」
どぎまぎしながら、あいまいに返す。どうしよう? 人見くんの友達なんだろうし、嫌味のひとつでも言われちゃうのかな。ただでさえ痛手を負ってるのに、さらなる追い討ちをかけられちゃうのかと、うつむいていたら。
「何かの縁だから、これからよろしくね」
「はい?」
予想外な言葉に、目を見開いて、顔を上げた。
「
「行くよ、今」
近づいてくるようすもない、イライラした口調の人見くんに、セイと呼ばれた男の子。
「整だよ。
「は、はい」
何も考えられず、ただこくこくとうなずくと、ふっと一柳くんは笑って、また何か言いかけたんだけれど。
「整」
「わかったよ」
再び急かされ、「じゃあ」と笑顔を残して、人見くんと人混みの中に消えていった。
「…………」
まだ、心臓がドキドキしてる。一柳くんの背中が完全に見えなくなると、そっと息をついた。大学というところには、あんな人もいるんだ。ずっと考えていた人見くんのことさえ、一瞬頭から飛んでいた。
オリエンテーションが終わった、広い講堂の中を見渡してみる。やっぱり、人見くんと一柳くんの姿は見えない。安心したような、がっかりしているような、複雑な心境のわたし。
もちろん、さっきの一柳くんの言葉が社交辞令ということくらい、ちゃんとわかってはいるんだけれど。それに、この広い構内に、この生徒数だもん。出くわすことも、そうないはず。
どっちにしても、わたしのことなんて、人見くんにも一柳くんにも忘れられて終わりかな……。
「ねえねえ。決めた? サークル」
突然、隣に座っていた女の子に話しかけられた。
「ううん。わたしは、まだなんだけど……決まった?」
緊張しながらも、わたしも聞き返してみる。おしゃれで大人っぽい女の子たちと馴じめない不安があっただけに、こんなふうに普通に話しかけてもらえるのは、すごくうれしい。
「うーん……決めたは決めたんだけど、ちょっと入りにくいんだよね。一人だと」
「そうなの?」
そんなふうには見えないのに。嫌味でなく、そう思う。綺麗に巻かれた髪も、今っぽくおしゃれな服もよく似合う可愛い女の子で、コミュ力も高そうだから。わたしはといえば、純ちゃんに反対されたこともあって、今日もほぼノーメイクだし。
「ねえ。名前は?」
「佐野 優貴、です」
思わず、敬語になってしまう。そして、気がついたときには。
「ふうん、優貴ね。つき合って。こっち」
「あ、ちょっと……!」
その子の名前もわからないまま、強引に手を引っ張られていた。
「はい、優貴も名前書いて」
連れてこられた先は、学食の奥の席の一角。なんだか、ひねたムードを醸し出している先輩たちに、ちらりと見られた。
「いいでしょ? 心細いから、お願い」
「放送研究会……?」
差し出されたノートの表紙を確認してみると、読みにくい字で、そう書いてある。
「要するに、DJイベントをやるサークルだよ。ね? お願い。名前だけでいいから。優貴の都合のいいときだけ、つき合って」
「……それなら」
そういったサークルとは、もっとも縁がない生活を送ってきたけれど。このわたしを頼って、こんな困った顔で懇願されてしまったら……と、とりあえずノートを開いたら。
「あ」
新しいページに書かれていた、ふたつの名前が目に入った。人見くんと、一柳くん。いちばん上に、はっきりと鉛筆で記されてる……!
「あのね、
同時に、この女の子の千鶴ちゃんという名前も、ノートから判明した。
「うん? 何?」
「ごめんなさい。わたし、やっぱり」
気持ち悪い、ゾッとする、最悪。そこまで言われた人見くんと同じサークルに入るなんて、さすがにできない。
「あ。また会った」
そのとき、頭の上の方から、聞き覚えのある心地のいい声。この声は……と、振り返って見上げると、思ったとおり。
「一柳くん!」
「名字まで覚えてくれてたんだ? 整でいいのに」
「あ、うん」
一気に、心臓の鼓動が早くなった。人見くんのことで頭がいっぱいだったはずなのに、今日会ったばかりの一柳くんに、こんなに気持ちが動揺するなんて。
「整くんっていうの? わたし、優貴の友達で、千鶴」
「千鶴ちゃん、ね。よろしく」
まるで待ち構えていたみたいに、一柳くんの左腕に手を絡めた千鶴ちゃんをやんわりとあしらって、一柳くんがわたしを見た。
「で、優貴ちゃんか。優貴ちゃんも入るの? ここ」
「わたしは……」
一柳くんの横にいる人見くんの迷惑そうな視線が、何とも居心地悪い。でも。
「はい、優貴ちゃん」
「……ありがとう」
一柳くんに鉛筆を渡された瞬間、勝手に手が動いていた。千鶴ちゃんの名前の下に、わたしの名前を加える。
「改めて、よろしくね。優貴ちゃん」
「えっと、こちらこそ」
ふわりと髪に触れられて、顔まで熱くなっていく。
「次、二棟の教室だよ。優貴、行こう」
そこで、急かすように、千鶴ちゃんに手を引かれた。
「やっぱり、あの人たちと知り合いだったんだ? どういうつながり?」
学食を出るなり、感心した表情で聞いてくる、千鶴ちゃん。
「つながりなんて、特に。人見くんと高校が同じだったっていうだけだよ」
「ああ、あのしゃべらなかった方の」
「そう……」
そうだった。つい、勢いで入部してしまったけれど、人見くんにどう思われたことか。まあ、それは、しょうがないんだけれど。
「じゃあさ、決めた。整くんは優貴に譲る。考えたんだけど、整くんは優貴の方が脈ありそうじゃん。そのかわり、わたしと人見くんがうまくいくように協力してよ」
「えっ? 千鶴ちゃん?」
いったい、何を言ってるの? 脈があるなんて、そんなわけないし……!
「優貴誘って、よかったー。わたし、あのどっちかと絶対つき合いたいと思ったんだよね」
「や、だからね」
わたしだって、誰かとつき合ったりすることに憧れも抱いてるけれど、よりによって、相手が一柳くんだなんて。ありえなすぎる。
「大丈夫だよ、優貴。ああいう人がね、意外と優貴みたいな子に惹かれるんだから」
「そんなわけ……あ」
そこで、サークル席に履修の手引きを置いてきてしまったことに気づいた。
「ごめん、忘れ物しちゃった。千鶴ちゃん、先行っててくれる?」
「席、取っとくね」
「ありがとう」
けっこう、抜けてるんだよなあ、わたしって。早足で、今歩いてきた道を引き返す。
それにしても、あのサークル、わたしにも優しく声をかけてくれた一柳くん以外、苦手な雰囲気の人ばかりだった。一人であいさつする勇気もないし、そっと荷物だけ取って、すぐに引き返そうと思っていたんだけれど。
「整ってさ、ああいう子が好みなの?」
「え? ああいう子って?」
先輩たちと、一柳くんの話し声。やめておけばいいのに、反射的に立ち止まって、ようすをうかがってしまう。
「さっき、整がかまってあげてたじゃん。なんか、ゆるふわパーマが浮いてた子」
わたしのことだ。数人の先輩が、嫌な感じで笑ってる。思わず、自分の髪を両手で押さえて、祈るような気持ちでいたら。
「ああ、たしかに」
どうでもいいように少し笑って、そう言った、一柳くんの声。
「でも、ノートとか見せてもらえそうだし」
「ひどいヤツ。あの子、絶対そんなふうに思ってないよ」
「一柳くん、格好いいー、優しいーって」
今度は、おかしそうに、周りが騒ぎ立ててる。ひどい。もちろん、千鶴ちゃんに言われたことなんか、本気にしていない。それでも、あんなに優しく笑ってくれたのに。
いたたまれなくなって、この場から逃げ出そうとしたとき、一柳くんの隣に座っていた人見くんが、何気なく後ろを振り返り、わたしと視線が合った。
「な……」
信じられない。今、鼻で笑った? 幸い、次の話題で盛り上がっている一柳くんと先輩たちは、わたしの存在に気づきもしない。目的の資料を手に取ると、すぐに学食を飛び出した。
大嫌い。千鶴ちゃんの待つ教室に向かって走りながら、何度も心の中でくり返す。人見くんも、一柳くんも、先輩もみんな、大嫌い。こんな大学、入らなければよかった……!
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