光が差した道
その後も私と本条は闇の住人の気配を警戒しながら、スマートフォンのライトで抵抗を続けた。
ここまで連続して使用したことがなく、バッテリーの消耗が気がかりだった。
一時間程度経過したところで十分の一ほど減少しており、あと数時間は点灯を続けられるという計算になる。
同じ姿勢でいることは肩や手首に負担がかかるが、光を下に向けすぎると闇の気配がここぞとばかりに近づこうとする。
分かりやすい音を立てたり、声を発したりすることはなくとも、形容しがたい存在感とざわめきのようなものが耳に届き、私たちを見逃すつもりはないと判断した。
「……本条さん」
「どうしました?」
「木下さんが助けに来ることはないですか?」
望みが薄いことは分かっていたが、前向きな話が聞きたかった。
「ここは普通に来れないっぽいので、キノには難しいと思います」
「そうですか」
本条が気休めを言うはずがないと分かっていたが、今だけは希望が持てるようなことを言ってほしかった。
もはや、怒りや不満に割くような気力はなく、そんなものかと納得する自分がいた。
「ああでも、そろそろな気はしてるんですけど」
「……そろそろ?」
本条は何かを示唆しているものの、それが何であるかは分からなかった。
以前、大事なことを聞いた気がするが、記憶を掘り起こすのもだるかった。
スマートフォンを掴む手は維持したまま、これまでの人生を思い返す。
いいことばかりではなかったとしても、そこそこ充実した人生のような気がする。
死の間際に走馬灯が見えるらしいが、今際の際を実感した時に一生を思い返すという理由もあるのではないか。
もしも、思い残すがあるとすれば薄暗い倉庫みたいなところで、犯罪者と同じような死に様を晒すことは避けたいということだった。
暗闇の中にいると時間の感覚が分からなくなる。
木村に同情する気持ちはないが、この状況で一人というのは耐えがたいはずだ。
自分も同じ状況に置かれているため、浅はかな人間にふさわしい末路などと切り捨てることはできなかった。
本条に声をかける余裕もなく無言のままで座っていると、どこか遠くの方で音が聞こえた気がした。
何かの破裂音のようで、閉鎖されているはずのこの場所に届いている。
「――たぶん、来ましたよ」
本条の声には戸惑いがにじんでおり、何をたずねるべきか分からなかった。
私は段ボールの上に腰を下ろしたまま、様子を見守ることにした。
次第に音は大きくなり、それが太鼓のような音だということが分かった。
ポン、ポンと一定のリズムで鳴っている。
大太鼓よりも繊細な響きがあり、小太鼓を叩いているようだ。
本条も確信が持てたわけではないようで、 固唾を呑んで見守っている。
闇の住人も音の気配に反応して、ざわめきが大きくなっていた。
次第にしっかりと聞こえるようになり、太鼓の音はエレベーターの方から響いているように感じられた。
続いて、この空間を吹き抜ける風のように笛の音が届いた。
遮るものがあっても貫通してしまいそうな高い音だった。
予想不可能な状況に目を見張る。
これから何が起きようというのか。
期待と不安が入り混じり、形容しがたい感情が湧き上がるのだった。
――そうだ、この音楽は聞き覚えがある。
祭事に居合わせた経験はわずかだが、おぼろげに思い出すことができる。
太鼓と笛の組み合わせは神楽を想起させるような音色だった。
やがてエレベーターのドアの向こうに演奏者たちの気配が感じられた後、ドアの周りの空間が淡く発光を始めた。
その光は徐々に範囲を広げて、こちら側と向こう側にまっすぐな道が延びていく。
光の道ができた後、エレベーター側の空間から一人、また一人と歩いてきた。
ある者は小太鼓を、またある者は横笛を携えている。
白装束に烏帽子といった装いで、顔が窺い知れないように額の辺りから目隠しの布が垂れている。
総勢で十人ぐらいといったところか。
演奏していたのは彼らで間違いないようだ。
光はさらに長さを増して、私たちの近くまで延びてきた。
呆然と眺めるばかりで、「ああ、目の前にきた」と間の抜けたようなことを思うだけだった。
演奏していた者たちは手前で止まって、その間を縫うように小柄な老女が歩いてきた。
「――小僧。うちの代理店でも始めるつもりか」
状況にそぐわない上機嫌な声が聞こえた。
私は声の主を見やり、雪影がやってきたことに気づいた。
以前と同じ白い作務衣姿で、余裕が感じられる佇まいである。
「それもいいですね。まあ、中抜きはしてませんけど」
雪影は落合さんの家で会った時と同じく、超然としたオーラを放っていた。
気軽に話せるような雰囲気ではないのだが、本条は怯むことなく応じている。
「にしてもまあ、厄介なもんを相手にしたな。さすがに骨が折れたぞ」
雪影は右肩に左手を添えてグルグルと回した。
「ここに来れなくなるのって、悪魔が原因です?」
「悪魔? よう分からん。どこのバカがやったか知らんが、あの世につながりかけとったぞ」
雪影はすごいことを言っているのだが、天気の話でもするような気軽さだった。
二人の会話を見守っていると、横を向いた雪影がこちらに焦点を合わせた。
「んー? お前は見覚えがあるな」
「……先日、脇坂さんに協力してもらった時にお会いした者です」
雪影は思い出そうとするような素振りを見せた後、ああそういえばとつぶやいた。
「またお前か。このたわけと付き合うのもほどほどにな。命がいくつあっても足りんぞ」
雪影が指した「たわけ」とは本条のことだろう。
私はどう返すべきか分からず、戸惑いながらもうなずいてみせた。
「何か変ですね。貴女から気遣う言葉が出るなんて」
「ケンカ売っとるのか?」
「んん、やっぱり機嫌がいい」
雪影は言葉ほど本気ではなく、売り言葉に買い言葉程度の反応だった。
「おおっ、そうだ! ご機嫌な雪影様は死にかけの若僧二人を気前よく連れて帰ろうと思っとったが、気が変わった。依頼内容はホテルの異変を解決することだけで、救助は含まれておらんかったな」
じゃあ、帰ろっかなというノリで雪影は振り返ろうとした。
そこで本条が老女に向けて言い放った。
「――五千万円。墓場まで持っていけませんよ」
「たくもう、食えんやつだ。今回の慰労も兼ねて、弟子たちとハワイ旅行に行くつもりだっつうのに。わしは帰るから好きにせい」
雪影は本条に向き直り、うんざりした様子で言った。
彼女の話しぶりから、弟子たちというのは和楽器を手にした人たちを指すようだ。
「ふーん、やっぱり。それぐらい出さないと動かなかったか。誘導しちゃってすいませんね。ああ、あと、お土産はマカダミアナッツのチョコレートで」
「……今回はひと儲けしたからな。土産ぐらい送ってやるわ」
雪影はそれだけ言って、踵を返した。
弟子たちに先んじて、エレベーターの方に歩いていく。
「次にいつ会えるのか分からないので、見送ってきます」
本条は段ボールの上から立ち上がり、雪影の後を追うように歩いていった。
「……失礼します。あの方は何者ですか?」
本条の背中を目で追っていると弟子の一人が話しかけてきた。
少し驚いたが、相手の声がいかにも普通で拍子抜けした。
目隠しで顔は見えないものの、声の調子から二十代の青年と思われる。
「本条さんは……ベンチャー企業の創業者で、動画配信が趣味で……あとは怖いもの知らずな人です」
「ふむふむ、怖いもの知らずと」
青年は共感を示すような反応を返した後、エレベーターの方を指さした。
「雪影様は『助けてやらん』と気まぐれに話されましたが、これ以降は使えるので、あそこから帰ってください」
「あ、ありがとうございます」
メンテナンスが終わったので、普通に使えますみたいな調子だった。
この青年もそうだが、超常現象に明るい人たちは大したことがないように言うことが多い気がする。
「――おーい、帰るよー」
弟子たちは今から帰るところのようで、ほとんどがエレベーターに乗っていた。
中から顔を覗かせた一人――おそらく若い女性――が青年に呼びかけている。
「仲間が呼んでいるので、では」
青年は颯爽とこの場から離れていった。
遠ざかる背中を見送った後、大きく息を吐いた。
木村の遺体がそのままであることに変わりはないとしても、先ほどまでのイヤな空気はなくなっている。
またも雪影の力を借りることになったが、無事に帰れそうなことに心の底から安堵した。
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