第一話 過ぎ去った春嵐

 ひばりがカバンに手帳を見つけたのは、一時間目が終わったときのことだった。レジュメを片付けようとカバンを開けると、見知らぬ手帳が入っていたのだ。手に取ったら、一ページ目に「次の空きコマに、体育館裏まで来てください」と書かれていた。ふと、さっきの授業の前、カバンを講義室に残して、お手洗いに立ったのを思い出す。そのとき入れたのなら、「次の空きコマ」は今からの時間帯だ。ひばりはカバンを手に講義室を出た。

 七月が中旬に入ってから梅雨が明け、建物の外はカラッと晴れていた。キャンパスを早足で歩き、体育館裏へ向かう。すると、そこでは紺色のつば付き帽をかぶり、茶色の髪をウルフカットにした女学生が、スマホをいじりながら待っていた。

「あの、もしかしてあなたが、手帳で私を呼び出した方でしょうか?」

 すかさず、その女学生はスマホをしまい、「ひばり、久しぶりだね!」と大声を出した。しかし、ひばりは彼女のことを知らない。すると、彼女は身体の前で手を横に振った。

「あ、やっぱり今のはなんでもない。人違いというか、なんというか……」

「人違いなら、私はこの辺で失礼します」

 ひばりが背を向けた途端、強引に腕を引かれ、ふたりは向かい合った。驚くひばりを無視し、彼女は顔を赤くしながら頭を下げた。

「私、ずっと前からあなたのことが好きでした。もしよければ付き合ってください!」

「えーっと、私……⁉」

 突然のできごとに、ひばりはまた戸惑って警戒したが、目の前の彼女は真剣な表情で返答を待っている。ここで逃げ出すのも違うと思い、ひばりは冷静になって返した。

「ありがとうございます。だけど、私はまだあなたの名前も学年も知らないので、まずは仲良くなることから始めたいです」

 すると、彼女は被っていた帽子を外した。

「自己紹介が遅れました。私の名前は蒼谷あおたに美咲みさき。朱村さんと同じ一年生。もし仲良くしてくれるのなら、お互いタメ口で下の名前で呼び合いたいんだけど、どうでしょうか?」

「いいよ。この後、一緒にお昼食べない?」

「もちろん! 学生食堂に行こう」

 スキップをしながら長財布を出す美咲。彼女は少し話してみた感じだと、活発で親しみやすい子のような気がした。

 食堂は、まだ昼休み前なだけあって空いていた。入り口の券売機で食券を買い、厨房のお兄さんに手渡す。受け渡し口で待っていると、お兄さんがたらこパスタとカレーライスとモンブランを持ってきてくれた。ふたりはお盆に皿を乗せ、食事スペースへ歩いた。

 食事スペースにある向かい合わせのテーブル席に座る。美咲が帽子をテーブルに置いたのがきっかけで、ひばりは改めて、彼女の服装を見直した。上の服は大きめの英語のロゴが入った白いパーカーで、下はスカートではなくて青いジーパンを履いていた。

 そう言えば、他人の服装なんて気にするのはいつぶりだろうか。思い返してみると、ひばりは大学に入ってから、他の誰かと昼食をとるのすら、初めてのことだった。

「ひばりは普段から、あまり友達と一緒に食べたりはしないのかな?」

「そうなの。高校時代から友達が少なかったから、美咲が話し掛けてくれて嬉しかった」

「私はある意味、逆かもな。昔から友達は多いんだけど、肝心の親友が増えずに、知り合い程度の友達ばかり増えてくんだよね」

 人懐っこそうな美咲ならではの悩みだ。彼女は眉をひそめながらカレーをすくった。

「それにしても私たちは、大変な高校時代だったよね。今でもマスクしてる人いるし」

「コロナのこと?」

「そう。学校行事が潰れてくのが辛かったから、やっと収束してよかったよ。大学では毎日をもっと楽しんで、コロナ禍で邪魔されたときのぶんも、取り返さないとね」

 ひばりが話し終えたとき、スプーンが皿に当たり、カレーが美咲の服に飛び散った。

「やばっ! ティッシュ持ってる?」

「ティッシュじゃ落ちないよ。お手洗いに行って濡らしてきな」

 美咲は慌てて食堂隅のお手洗いへと走っていった。ひとりになった途端、ひばりは我に返って辺りを見回した。

 ひばりたちが在籍しているここは神無かんな学園大学。特筆できる偏差値でもないし、キャンパスも広くない。しかし、青春をやり直したい一心で受験したひばりにとって、この環境は魅力的だった。大学は人生の夏休みらしいが、それならコロナは春嵐とでもいったところだろうか。春の気候変動は、ひばりたちの生活に容赦なく襲い掛かり、たくさんの人の人生を狂わせて、無責任に去っていった。

 ふと、「お待たせ」と声がして振り向くと、美咲がハンカチを片手に立っていた。美咲はゆっくりと向かいの席に座り、慎重にスプーンを手に取った。


 ひばりたちは昼食を済ませると、三時間目の授業がある講義室へ向かった。席に座ったとき、隣の通路から「おはよ」と挨拶が聞こえる。声のしたほうを向くと、顔見知りの男子学生が、こちらに手を振っていた。

 彼の名前は亀川かめかわげん。ひばりと同じバイト先に勤める同級生だ。低めの身長と下がった目尻からも想像できるように、圧のない穏やかな性格をしている。挨拶だけして、少し離れた席に腰掛ける亀川くん。すると、美咲がひそひそ声で尋ねてきた。

「今の子、ひばりの彼氏?」

「違うよ。バイト先が同じ友達。私たち、カフェに勤めていて、出勤日が被ってるの」

 美咲に説明したところで、先生がドアを開けて入ってきた。「出席登録するぞ」とスクリーンに番号を映す。後ろのほうの学生たちが静かになったのを確認し、先生は講義室の外にいる誰かに手招きした。

「今日はゲストスピーカーを招いたので、『大人とは』というテーマでお話しいただく」

 すると、ご年配の男性が講義室に入ってきた。彼は壇上に上がると、先生のパソコンをいじってパワーポイントを立ち上げた。

「こんにちは。みんなはまだ大学一年生だから、理解できない部分も多いと思うけど、最後まで聞いてくれると嬉しいです」

 それから彼はスライドを動かしながら、理想的な大学での過ごし方や、大人になるとはどういうことかについて話した。熱意のある方で、授業の終盤になると、「ここ大切だからよく聞いてね」と強調しながら語った。

「君たちはまだ若いです。若いのは素晴らしいことで、その先、何十年も未来があるし、自由に自分の生き方を選ぶことができます」

 ここまで話したところで、唐突に美咲がひばりの服の袖を引っ張った。驚いて見ると、彼女は真っ青な顔をしていた。

「ごめん。体調悪くなったから抜けるね」

「大丈夫? 心配だからついていくよ」

 ふたりは静かに席を立つと、入り口近くに立つ先生に会釈して、教室を出ていった。

 お昼を食べた食堂に着く頃には、美咲の顔は普通の色に戻っていた。神無学園大学の食堂は、昼食以外の時間は休憩所になり、雑談や課題のために使われる。ひばりは窓際のテーブル席を選び、向かいに美咲を座らせた。

「どう? 少しは落ち着いた?」

「うん。さっきは急に抜け出してごめん」

「何があったの?」

「あの人の話に疑問を感じたの。もし明日死んだら、それが一生だから、若いから未来があるという考え方はおかしいと思ってさ」

「美咲の言う通りだよ。なんでも括って評価する風潮はよくないよね。実は私も、自分がマイノリティだなと感じることがあってね」

「もしかして、オタク?」

「よくわかったね。まあ、オタクといっても、私より詳しい人はたくさんいるから、自分から名乗るのはよくないけど……」

 ひばりはそう言いながら、カバンからスマホとワイヤレスイヤホンを出して、美咲に渡した。アプリの再生ボタンを押すと、イントロが終わった辺りで、美咲が尋ねてきた。

「このボーカル、人っぽくないけど、何?」

「初音ミク。ボカロという機械の声」

 そう、今から十数年前に、ニコニコ動画を中心に、ボーカロイドが大流行した。ボーカロイドは、主に声優さんたちの声をもとにした機械の声を持っていて、初音ミクが水色ツインテールの髪型をしているように、それぞれのキャラクターが個性的な姿をしている。

 美咲は表情をコロコロ変えながら、ひばりの流した曲を味わった。曲が終わると、美咲は満足そうにイヤホンを返した。

「ひばりはボーカロイドのオタクなんだね」

「ちょっと違う。今はボカロを使ってるだけで、『ミクさん・ラブ』ってタイプではない」

「使ってるだけで?」

 美咲が首をかしげる。さりげなく明かすつもりだったのに、逆に惹きつけてしまったようだ。ひばりは隠していたことを話した。

「自慢になっちゃったけど、私は創作オタクなの。今流したのは私が作った曲。作詞作曲の他に、パソコンのソフトで各楽器を打ち込んで、後ろの音楽の部分も作ってる」

「じゃあ、私の自慢も喋らせて? 私、歌が得意で、友達とカラオケ行くたびに褒められるの。だから、私たちでユニット組んで、次はひばりの曲を、私に歌わせてよ?」

 こちらに片手を差し出す美咲。試すような茶色の眼差しが、真っすぐと見据えてくる。ひばりは出された手を握り返した。

「私、初音ミクは好きだけど、いずれは自分で歌ったり、他の人に歌ってもらったりしたいと思ってた。だから、私も美咲と作品を作りたい。あと、せっかくなら大学内でイラストレーターと動画クリエイターも集めて、創作サークルとして活動してみない?」

「面白そうだけど、クリエイターは個性的な人が多いし、気の合う人が見つかるかな」

「美咲、友達は多いけど親友が増えないって話してたね。だったら、サークル活動は克服するチャンスだと思う。活動仲間で、誰か心当たりのある人はいる?」

「動画クリエイターがいるけど、子どもっぽい人でね。でも、創作してる人って限られてくるし、帰ったらLINE送ってみるね」

 美咲の朗らかな声が、食堂に響き渡る。窓の外には柔らかい木漏れ日が差し込んでいた。

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