23 1914年10月6日(1) ロンドン

 火曜日の午前中は、プリースト診療所の一週間で一番患者が少ない日だ。

 今日は特に、内科が休診のため朝から患者の姿はない。

 しかし、待合室では十人ほどの人が外科の診察室の様子を窺っている。

「みなさん、なにをしているんですか?」

 どうせ暇だろうから朝一番にウェインの抜糸をやる、とバートランドが言ったため、ミリセントは兄に付き添って二階から下りてきたのだが、明らかに患者ではない人々で待合室は溢れていた。

「この人たち、グレイ先生のお見舞いと言いますか、先生の怪我の具合を聞きに来ているんですよ」

 看護婦のエムズワースが苦笑いを浮かべて答える。

「あたしたちの健康は、グレイ先生次第だからね。先生には早く怪我を治してもらって、あたしたちを診て欲しいんだよ」

 待合室の椅子に杖を突いた格好で座る七十代とおぼしき老婆がミリセントに告げる。

「グレイ先生が元気だったら、オレらも安心して暮らせるけど、先生に診てもらえないとなると急に不安になって頭が痛くなったり胸が苦しくなったりするんだ」

 老婆の隣に座った壮年の男が憂鬱そうな表情で告げる。

 プリースト診療所にはダニエル・プリースト所長という内科医がいることを、彼らはすっかり忘れているらしい。もし覚えていたとしても、プリースト診療所で頼れる医師はウェイン・グレイの他にはいないと思っているのかもしれない。

「あんたら、用もないのにこんなところにたむろってどうしようってんだ」

 待合室に集まった人の数に、バートランドが呆れ返る。

「ファラディ先生。グレイ先生の怪我を早く治してくださいよ」

「あぁ? 俺の適切な治療の甲斐あって、傷は順調に治りつつあるぞ? かなり深く刺されていたわりには、そこそこ治りは早いんだぞ? いまから抜糸するんだからな。なのになんで全快するまでに時間がかかるのが俺のせいみたいになっているんだ!?」

 心外だ、と叫びながらバートランドはウェインとミリセントを診察室に入れる。

 治療を手伝うため、エムズワースも入ってきた。

「医者ってのは治療をして病気や怪我を治して当たり前に思われているよな? 治せなかったら医者の腕が悪いからだ、みたいに思われているよな?」

 ぶつぶつとぼやきながらバートランドはウェインの抜糸を始める。

「ファラディ先生がすぐ患者さんたちを叱るのがいけないんじゃないんですかね」

 消毒した鋏を差し出したり包帯やガーゼを準備したりしながら、エムズワースが指摘する。

「アルコールを摂取すると怪我の治りが悪くなるから一週間は酒を飲むなと注意したのに飲んでいたり、激しく身体を動かすと傷が開くからできるだけ安静にしているようにと言っても派手に喧嘩をして傷口を広げるような連中だぞ? どう考えても治らないのは俺のせいじゃない」

 バートランドの口からはひたすら愚痴がこぼれていたが、手は正確に素早く傷口を縫った糸を抜いていく。

「その点、ウェインは患者の手本だな。昨日と一昨日と、おとなしく部屋で寝てたし、薬もきちんと飲んでいるし、酒は飲まないし煙草も吸わないから傷の治りが早いんだ。まったく、運ばれてきたときは出血が酷いし傷は深いし、俺の腕の良し悪しに関係なく助けられないんじゃないかとかなり焦ったけどな」

「え? そうだったの!? そんな風には見えなかったけど」

 傷口を縫った糸を切って抜いて消毒する様子をそばで見ていたミリセントは驚いて目を丸くする。

「内心はやばいと思っても、治療中に顔や言葉に出さないのが医者たるものだ」

「ファラディ先生は治療に集中している間はほとんど無表情だし、その無表情がちょっと怖いし、患者さんが化膿止めや痛み止めの薬を飲んでなかったりすると説教し出すから、患者さんたちに誤解されているんですよね。反対にグレイ先生はいつも穏やかな口調で患者さんたちと接しているから、患者さんたちは先生方を比較してしまうんでしょうね」

「なるほど」

 ミリセントは兄の腹の傷口を凝視して治り具合を確認しながら頷いた。

「グレイ先生の場合、優しく患者さんに話しかけていますけど、先生の言う通りにおとなしくしていないと治るものも治らないみたいな圧を感じる患者さんも多いみたいです」

「いや、僕は、患者さんに圧をかけるような診察はしていませんよ」

 診察台の上に横になったウェインは、天井を見つめながらやんわりと反論する。

 どうやら看護婦であるエムズワースの認識と医師ふたりの認識には、大きなずれが存在しているらしい。

「先生方にそのつもりがなくても、病気や怪我で弱っている患者さんはそんな風に感じてしまうんですよ。おふたりは滅多に病気も怪我もしないですから、そういう患者さんたちの機微がわからないんでしょうね」

「僕は、先日大怪我をしたばかりなんですけどね」

 ウェインは自分がいま現在外科の患者であることを主張したが、エムズワースは反論を無視して処置が終わった患部をガーゼと包帯で覆った。

「あと一週間は化膿止めを飲むこと。傷口が痛いときは我慢せずに痛み止めを飲むこと。いまのところ、傷口が痛むことはあるか?」

 手を洗いながらバートランドがウェインに尋ねる。

「身体を動かすと傷口が引き攣って痛むくらいだよ」

「なら、そのまま経過観察とする。傷口が開くようなことがあればすぐに言え。治りが早そうだから、糸が組織に癒着して取りづらくなる前にと思って抜いたが、中がどのくらい治っているかは見えないからなんとも言えない」

「なによ、それ」

 ミリセントは文句を言ったが、ウェインが「まぁそうだろうね」と言い、エムズワースも同意するように頷いた。

 バートランドは軽く肩をすくめると説明を続ける。

「あとは自分の治癒力に期待して今週中はおとなしく過ごすこと。しっかり食べて寝る生活をしていれば、それなりに体力はあるんだし、順調に治るだろう」

「ご丁寧にどうもありがとう、ファラディ先生」

 ウェインが軽い口調で礼を言うと、バートランドは「はいはい」と適当に受け流した。

 ミリセントは診察台から起き上がった兄にシャツとカーディガンを差し出す。

「エムズワースさん。外科の患者は他にいるのか?」

 待合室にいる人々はウェインの怪我が順調に治りつつあると聞いて喜んでいる人々ばかりだ。

「今日はまだいません」

「あ、そう。じゃあ、しばらく休憩するから」

 患者がいないと聞いた途端、バートランドは白衣のポケットから煙草を取り出す。

「グレイ先生。内科はいつから再開しますか?」

 誰もが気にしていることを代表してエムズワースが尋ねた。

「そうですね。一応、来週の月曜日からで予定しておきましょうか。僕は、今週いっぱいは休ませてもらいますよ。所長が戻られたら、その日から所長に内科をお願いできるでしょうが、まぁ、どうでしょうね」

 シャツを羽織りながらウェインが苦笑いを浮かべる。

「わかりました。では、張り紙にもそのように書いておきますね」

 診察室の外では「来週からだって」「良かった」と口々に話している声が響いている。どうやら廊下から聞き耳を立てていたらしい。この様子だと、プリーストが急いで戻ってきて内科の診察を再開しても、やってくる患者は少なそうだ。

「じゃあ、僕は主治医の指示に従って部屋に戻って休ませてもらいますよ」

 まださすがに体力が戻ったとは言えない状態らしく、ゆっくりとした動作でウェインは診察台から下りてスリッパを履く。

「ウェイン、ひとりで歩ける? 肩を貸そうか?」

 ミリセントが尋ねながら診察室の扉を開けたときだった。

「おはようございます。デイリー・メールのジョン・スミスです」

 3日前、襲われたウェインに事情を聞きに来た警察官と入れ替わるようにしてやってきた記者が、廊下で待ち伏せていた。

「グレイ先生の怪我の具合はどうですか? ご自身で歩いていらっしゃるってことは、かなり治ってきたのでしょうか」

 壁に手を当てながらもひとりで立つウェインを観察しながら早口でジョン・スミスは尋ねる。

「どのようなご用件でしょうか? 事件については警察から音沙汰がないので犯人が捕まったかどうかも知らないのですが、記者さんは兄の取材にいらしたんですか?」

 新聞記者というのは暇なのか、と思いながらミリセントは相手を睨む。

「それとも、記者さんは犯人が捕まったかどうかをご存じですか?」

「いやぁ、警察からはまだなんの発表もないので、犯人は捕まっていないんじゃないでしょうか。捜査をしているかどうかも怪しいですけどね」

 へらへらと笑いながらジョン・スミスは答える。

「実は僕、刑事事件の記事を書いたのは今回が初めてなんです」

 ミリセントの態度に気分を害した様子は見せず、ジョン・スミスはまくし立てた。

「普段は文化面の記事を書いているんですけど、いずれは社会面を担当できるようになりたいと思っているので、グレイ先生の事件をもうすこし取材させて欲しいなって思って押しかけました! ということで、すこしでいいのでお話をお伺いできますか?」

「はぁ?」

 ミリセントが顔をしかめた直後、ウェインが答えた。

「構いませんよ」

「ウェイン!」

 ミリセントは目くじらを立てたが、兄は珍しく妹を無視した。

「すこしだけ、でよければ」

「はい! では、よろしくお願いします!」

 ジョン・スミスは診察室に響き渡るような声で返事をする。

 椅子に座って煙草を吸っていたバートランドが「ここは診察室だ」と言ったので、ウェインが「二階へいらしてください」と告げる。

 仕方なく、ミリセントは兄と一緒に新聞記者を二階に案内することにした。

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