アンブローシア・レシピ
紫藤市
1 1793年1月21日 パリ
その日、曇り空で覆われたパリの町は朝から騒々しかった。
昨日までとは違う空気が、町中に漂っていた。
サン・タントワーヌ通りでもそれは同じだった。
「国王の首が落とされたそうだ!」
パンを買いに出かけていた
「今日だったか」
「早く扉を閉めてくれ。外の冷気が入ってくる」
木曜日が慌てて部屋の扉を閉めると、真冬の冷え切った外気は遮断された。
部屋に
「ようやくこの霊薬が完成したというのに」
「昨日の時点でほぼ完成したも同然だったんだろう? なら、名無しで試したりせず、さっさと依頼人に渡してしまえばよかったんだ」
「依頼人はすでに昨年のうちに死刑が執行されている」
「あぁ、革命家の連中お得意の即席裁判ってやつか。依頼を受けたときに前金をほんの少しでも受け取っておいて正解だったな」
金曜日は低い声で呟いた。
共同住宅の半地下であるこの部屋は、室内の音が外に漏れにくい構造になっている。とはいえ、どこで誰が聞き耳を立てているかはわからない。
大家には「自分たちは家族だ」と伝えてあるが、かなり怪しまれていることは皆が認識していた。家族を自称する四人は、容姿がまったく異なる十代から二十代に見える青年ばかりだ。
「本当にほんの少しだったけどな。材料費の半分もまかなえなかったぞ」
木曜日が顔をしかめる。
この国が王政だろうが共和政だろうが彼らには関係ないが、共和政支持者という厄介な連中に目を付けられるのは困るため、長らく付き合いがあった貴族との接触は控えるようになった。結果、これまで資金援助してくれていた貴族たちと疎遠になり、研究費どころか日々の生活費も厳しくなってしまった。
「さすがに首が落ちてしまうと、この霊薬も効かないだろうな」
茶色の薬瓶を指でつつきながら金曜日が残念そうにうなだれると、水曜日が頷く。
「無理だな。この霊薬は生きている者を不老不死にするのであって、死んだ者を生き返らせることはできない。生きている間に飲ませるのが最低条件だ。死者を復活させるなんて真似は、我々錬金術師の範疇ではない。賢者の石があったとしても、無理だろう」
木曜日も同意を示す。
「錬金術師『オルダス・マイン』の主たる研究である不老不死の霊薬は、ほぼ完成している。霊薬の処方箋も書き上げた。となると、あとはこれを高値で買ってくれる新たな客を探すだけだ」
水曜日が難しい顔をしながら宣言する。
「国王に飲ませる不死の霊薬を作って欲しいって依頼だったから、パリに
依頼人がすでに死んでいても、国王が自分たちの言い値で霊薬を買い取ってくれるのであればと彼らは考えていた。国王の首さえ繋がっていればどうにかなるはずだったが、それも今朝までの話だ。
「
金曜日が力なく呟く。
錬金術師『オルダス・マイン』はひとりではない。
『オルダス・マイン』は錬金術師の工房の名前だ。この工房に所属する錬金術師たちは常に七人おり、それぞれ年長者から日曜日、月曜日、とラテン語の曜日を名乗った。欠員が出ると補充し、次の欠員が出るとまた新たな者を補充するという形で工房は研究を続けてきた。そのため、『オルダス・マイン』を名乗る錬金術師が百年以上存在しているとして、すでに『オルダス・マイン』は不老不死を得ているとの噂も一部の錬金術師の間ではまことしやかに流れていた。
しかし現在、『オルダス・マイン』工房に所属する錬金術師は四名のみだ。日曜日から火曜日までは空席だが、欠員は補充していない。近年、錬金術が廃れてきて有能な人材が見つからないことや、後援者である各国の王侯貴族の資金援助が著しく減ったことなどの理由が挙げられる。
錬金術師『オルダス・マイン』の工房では不老不死の霊薬を長らく研究していたが、ようやく臨床試験で満足できる結果が出た矢先に起きたのが、フランスでの革命だった。
「王妃に売るってのはどうだ? もしくは王太子に。まだタンプル塔に入れられているんだろう?」
「買ってくれるかどうかもわからないのに、警備が厳しいタンプル塔に潜入するのは面倒だ。それに、誰がタンプル塔へ行くんだ?」
「
金曜日が提案すると、水曜日は首を横に振った。
「どんくさい奴に行かせて潜入に失敗したらどうするんだ。我々の面倒事が増えるだけだぞ」
部屋の隅で実験器具の片付けをしている土曜日に目をやりながら水曜日が告げる。
土曜日は、かつて
ぼんやりと顔を上げて三人の会話に耳を傾け始めた土曜日を見た金曜日は、軽く肩をすくめた。
「確かに、革命政府にこの霊薬を奪われたら目も当てられない」
「革命家を名乗ってる連中は吝嗇だからな。お貴族様はそれなりに言い値を払ってくれるが、革命政府は没収という名目で強奪するのが得意技だそうだ」
「こういう知識や技術に対してそれ相応の報酬を出すという概念が、ブルジョアジーにあればいいんだけどな」
「ブルジョワジーが技術に対して正当な報酬を払うかどうか以前に、この国で錬金術師を名乗るとカリオストロ伯爵のような詐欺師扱いをされるだけだ。まったく、あの山師のせいで正真正銘の錬金術師がどれだけ迷惑を
木曜日が指摘すると、金曜日は黙り込んだ。
「それより、イングランドでこの霊薬を売り込むってのはどうだ?」
木曜日が提案すると、水曜日は「ふむ」と声を上げた。
「国王のジョージ三世は信心深い国教徒という話だ。不死など神への冒涜だと言い出すんじゃないのか?」
金曜日は眉をひそめたが、木曜日は首を振った。
「別に相手は国王じゃなくてもいいだろ。イングランドにも貴族や、裕福な商人がたくさんいるんだ」
「オスマンやロシアはどうだ? 羽振りの良い奴も多そうじゃないか」
「あの辺りは他の錬金術師の工房がたくさんあって、私たちが商売できる余地はほとんどない。他の錬金術師に目を付けられたら、我々の研究成果を奪われることだってありえる」
仲間をたしなめるような口調で水曜日が告げる。
「
「あぁ……そうだったな」
木曜日はうなだれ、金曜日は顔をしかめた。
世間ではあまり知られていないが、錬金術師の工房は世界各地にたくさん存在している。『錬金術』という名を出さずに活動している研究者も多い。英国が発祥とされるフリーメーソンと呼ばれる団体の中には、錬金術の研究をしている組織もある。
「そんな辛気くさい顔をするなよ。ま、依頼人と投薬予定者が死んだ以上、私たちはいつまでもこんなところにいる必要はないってことだ。そもそも、私たちがルイ十六世のために霊薬を作っていたことを政府に知られたら、私たちまで王党派として逮捕されかねない。イングランドでもプロイセンでもオーストリアでもいいから、物騒なパリからはおさらばすることにしよう」
場の空気を変えるように、木曜日が明るい声を上げる。
「プロイセンやオーストリアはこの国との戦争の真っ最中だ。途中で戦場を突っ切る羽目になりかねない。どうせ行くならやはりイングランドが一番安全なんじゃないか?」
昨年、フランスの革命政府はオーストリアに宣戦布告したが、その戦火は現在プロイセンやネーデルランドにも広がっている。大英帝国も参戦しているが、カレー海峡を挟んでいるためいまのところ戦場にはなっていない。
「じゃ、決まりだな。さっさと荷物をまとめてパリを出て行くことにしよう」
金曜日が声を上げると、水曜日と木曜日が頷いた。
「土曜日! 聞いたな? 引っ越しだ」
部屋の隅でぼんやりしている土曜日に、木曜日が声を掛ける。
土曜日は唇を引き結んだまま、黙って頷いた。
「しかし、我々が連れ立って移動するのは危険だ」
難しい顔で水曜日が声を発する。
「どこで政府の犬が見ているかわかったもんじゃないし、余計な詮索をされるのも御免だ。引っ越しも亡命も連中からすれば同じようなものだろうしな。まず、荷物は分担して持ち出すことにしよう。霊薬の完成品は私が手提げ金庫に入れて運ぶ。霊薬の材料は形見函に入れて木曜日が運び、霊薬を入れた手提げ金庫の鍵は金曜日に預ける。処方箋は祈祷書に隠して土曜日が持つ。それで、皆でロンドンで落ち合うことにしよう」
「なるほど」
木曜日と金曜日が同意して頷く。
誰かひとりが霊薬に関するすべてを持っていては、何者かに奪われた際になにも残らない。もしくは、ひとりがすべてを持ち逃げして霊薬で儲けようとすることも考えられる。
水曜日は工房の年長者として、霊薬の研究のすべてを預かるという形にすることもできたが、敢えてしなかった。他の三人が裏切らないという確証がなかったからだ。特に木曜日と金曜日は優秀な錬金術師だが、悪知恵も働く。その点、土曜日は愚鈍だが人を陥れる性格ではない。霊薬の処方箋を持たせるにはうってつけだと水曜日は判断した。
「ここからカレーの港に移動して、船に乗ってイングランドに到着するのもそれぞれずらすことにしよう。ロンドンに着いたら……そうだな。毎週日曜日の午後2時に、ウェストミンスター寺院の前で待っているというのはどうかな。毎日寺院の前に立っていると目立つが、毎週日曜日だけなら礼拝のために来ているように見えるだろう?」
水曜日の提案に、木曜日と金曜日は首を縦に振った。
「悪くない」
土曜日も遅れて頷く。
ウェストミンスター寺院であればロンドンを流れるテムズ川の河畔であり、常に人が多く集まる場所だから、外国人が集まっていても目立たないと思われた。この場にいた四人は誰一人としてイングランドの土を踏んだことはなかったが、有名な場所であればたどり着きやすいし集まりやすい。
「なら、合い言葉を決めよう」
金曜日の提案に、水曜日と木曜日が首をかしげる。
「合い言葉?」
「ロンドンで会った際に風采が変わっていたら、お互いがわからないかもしれないだろう?」
「風采ねぇ。それ以上太るつもりか?」
小太りの金曜日の体格を見ながら木曜日がからかう。
四人の中では金曜日が一番背が低く太っている。
「次に会ったときは私がげっそり痩せていて、三人とも私がわからないかもしれないじゃないか」
「確かに、カレー海峡を泳いで渡ればあんたでも痩せられるだろうな」
「私が泳げるように見えるか?」
「いや、まったく見えない。その体型では、海で浮くよりも沈む方が早いかもしれないな」
金曜日と木曜日の軽口を聞き流した水曜日が、「合い言葉だが」と二人の会話に割って入った。
「『
「『アンブロワジィ』?」
木曜日と金曜日が口を揃える。
土曜日も小さく口を動かして復唱した。
「アンブロワジィとは
「なるほど。不老不死の霊薬の名前が『アンブロワジィ』か」
水曜日の提案に三人は納得する。
「となると、土曜日が運ぶ霊薬の処方箋は『
金曜日が言うと、土曜日は軽く目を見開いた。
「ただの『霊薬』と呼ぶよりも、『アンブロワジィ』と名前が付いている方が自分たちの研究の成果らしくて良いな」
「確かに」
金曜日と木曜日が口々に言うと、土曜日も頷いた。
「では、合い言葉は『アンブロワジィ・ルセット』……いや、ロンドンでの合い言葉だから英語で『アンブローシア・レシピ』にしよう」
水曜日が決定すると、三人は一様に「アンブローシア・レシピ」と呟く。
「ひとまず、いま手元にある金を四等分しよう。これをロンドンまでの旅費にするんだ。足りなかったら、あとは自分でなんとか工面してくれ。いまからこの工房の片付けをしよう。土曜日には名無したちの処分を任せる」
水曜日の指示に、土曜日は唇を噛んだ。
この工房で『名無し』と呼ぶ存在は、研究の被験者だ。
『オルダス・マイン』の工房では、不老不死の霊薬の投薬実験を最初は鼠や猫などの動物でおこなっていたが、臨床試験用に孤児を集めていた。パリには革命の混乱の中で孤児があふれており、衣食住を提供すると言えば簡単に子供を集められた。
孤児たちを『名無し』と呼ぶのは、ひとりひとりに名前があると個人に対して情が湧いてしまう恐れがあるからだ。これは工房内での慣習だったが、他の錬金術師の工房でも似たようなことが行われていると先達たちから聞いていた。ただ、『オルダス・マイン』の工房は現在のところ他の錬金術師たちとの交流がなく、余所の実情は確認していない。水曜日たちは「『名無し』は人体実験に使って良いもの」という共通の認識を、先達たちから植え付けられていた。
「処分だ。この意味は、わかるな?」
作業机を指で叩きながら水曜日が土曜日に言い聞かせる。
土曜日は眉をひそめたが、黙って頷いた。
「よし。では、速やかに作業を始めよう」
水曜日の号令で、三人はおのおのの仕事に取りかかった。
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