第10話
緞帳は既に上げられている。実際はこの教室に緞帳は存在しないが、気分的に上がっているのだ。
使っていない教室から持ってきた二つ分の広さ教壇の上に立ち、あたしは静かに深呼吸する。
今は、演劇のリハーサルとして舞台が本番さながらに整えられ、あたしも衣装を着ている。他の演者も全員そうだ。
この舞台の上では、あたしは『ジョバンニ』だ。そして藤ちゃんは『カムパネルラ』、ジョバンニの友達だ。この舞台の上でのみ、あたし達は友達を演じられる。
ここが、あたし達が本当の友人としてのよすがを繋ぐチャンスだ。
舞台の左右端には机で仕切りが作られていて、更にカーテンのような大きな布がかけられている。ここが演者や裏方役の待機室となる。教室後方には照明役。舞台袖には音響。非常時に備えて待機している人間に、教室外での受付や広報。他はほとんどが演者だ。
今は本番ではないので狭い客席には裏方担当の人間と、舞台をその目で見て評価をする必要のあるゆとしかいない。
舞台上にはあたし達だけ。あたしは藤ちゃんと、『カムパネルラ』と、相対する。ただ演じるだけなのに、変に緊張した。
なんとか記憶を脳から引っ張り出し、つっかえながらも台詞を読み上げていく。自分でもあまりにひどい棒読みだと思った。けれどもこの場で大事なのはあくまで本番の流れを確認すること。藤ちゃんや他の演者も時折台詞に詰まっているし、音響や照明も時々シーンを止めて確認している。ゆとも度々助言を求められてあっちに行ったりこっちに行ったり。
そんなわちゃわちゃなリハーサルも、数時間かけてようやくクライマックスに辿り着く。あたしは一旦舞台袖に引き、水のペットボトルを空っぽにする。
次のシーンは、カムパネルラとの別れのシーン。
川のせせらぎの効果音が聞こえる。鈴虫の羽音。記憶の中の、少し湿った森の匂いが想起される。
エキストラが、川に見立てた地面を覗き込む仕草をしていた。カムパネルラはザネリを助けて川に落ちている。
あくまで、そう見立てているだけだ。実際のカムパネルラは、カムパネルラ役の藤ちゃんは、舞台の袖でその光景を見つめていた。どこか自嘲的に微笑みながら。何か、諦めているかのような顔つきで。
あたしは居ても立っても居られなかった。本来の動きを無視して、あたしは舞台袖の藤ちゃんの手首を強く握る。今までのリハーサルではなかった動きに、その場にいた全員が一瞬呆気に取られていた。
「ジョバンニ」
藤ちゃんが咎めるように言う。眉を顰めて。
「藤ちゃん」
あたしが反論するように呼ぶ。
「カムパネルラだよ」
一瞬、何が言いたいのかわからないとばかりに藤ちゃんの眉が思いっきり寄せられた。あたしは続ける。あたしの言葉が藤ちゃんに届きますように、と切に願いながら。
「あたしにとって、藤ちゃんはカムパネルラだよ」
藤ちゃんは目を瞠り、そしてすぐに細めた。瞳に諦念が浮かんでいる。あたしの言葉は、まだ届いていない。
「沈んじゃえば良いって思ってるの? わたしが、一人で」
「そう捉えるか。違うよ」
あたしにとってカムパネルラは、川に沈んだ哀れな友人、だけではない。
「君となら、本当の幸いを探しにどこまででも行けるって意味だよ」
藤ちゃんの腕を引いて、表舞台に躍り出る。ポカンとアホ面を晒すエキストラの表情が酷く滑稽で、あたしは思わず破顔した。
「君となら、一緒に南十字に言っても良いって意味だよ」
その言葉が意味するところを理解できないほど、藤ちゃんはカムパネルラを知らない訳がない。その証明のように、藤ちゃんの瞳が大きく開かれて、「うそ、」と譫言のような言葉が漏れ落ちた。
「嘘じゃないよ」
あたしは彼女の掌を強く握って、顔を真っ直ぐに見合わせる。
「藤ちゃんとなら、一緒に川に沈めるよ」
それでも彼女は信じられないのか、疑わしい目を向けてくる。
言葉だけじゃ足りない。それはもうわかってる。淵神にも示された通りだ。
だから、あたしは行動で示す。
「一緒に沈んでも、良いんだよ」
あたしはそう言って、藤ちゃんの手を強く握って。
観客側にくるりと背を向け、藤ちゃんと一緒に舞台から落ちた。
「……ばか」
騒然とする教室の中であたしに抱きつきながら、藤ちゃんは囁く。あたしの肩に顔を埋めてくぐもっている声は、鼻声と判別がつかなかった。
「ばかはそっちだよ」
頭に鈍痛が走る。肋骨も痛い。大した高さはないとはいえ、壇上からノーガードで落ちたのだ。打ち付けた後頭部が痛むのは当然だ。藤ちゃんの体重をそのまま受け止めた胴体の痛みは、予想外だったけど。
「骨とか、大丈夫なの?」
「わかんなーい。けどすっごい痛い」
「大丈夫じゃないんじゃん。なんでこんなことしたの。脳震盪とか起こしたら最悪だよ」
あたしは微笑む。確かに、それは考えなかったわけではない。こんなことをして頭をぶつけて、何か一大事があったら大ごとだ。その可能性が浮かばないほど、あたしは馬鹿ではなかった。
けれど。
「言ったじゃん。藤ちゃんとなら死ねるよって」
これは証明だった。
君となら怪我も負えるって。君と一緒に傷を負うのなら、それも悪くないって。あたしがそう思ってるんだって、藤ちゃんに思わせるための。
「これで信じてくれた?」
藤ちゃんはようやく、顔を上げた。水の膜が張った目が、真っ直ぐにあたしに落とされる。
「ばか。本当に、ばか」
諦めようと思ったのに。
藤ちゃんは言いながら、またあたしの肩に顔を埋めて、見えないようにする。けれど、確かにあたしは見た。藤ちゃんの瞳が安堵に細められ、温かい涙が溢れるところを。
「これじゃ、諦められないじゃん。離したくなくなるじゃん。離せなくなるじゃん、こんな、重いの……」
あたしは藤ちゃんの頭を軽く撫でて、そして言った。彼女の頭上の文字が薄くなるのを、横目に見ながら。
「離さなくていいよ」
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