マドンナの日記
輝美
1 老いた物書き
青年は、同じ電車に乗り合わせた誰よりも__例えば扉の前で顔を合わせてクスクスと笑っている恋人たちよりも、自分が幸福な人間だと確信していた。
当然だ。これから、心の底から崇拝する作家に会えるのだから。
あと少し。
長年思い煩わせてきた熱を届けるには、あと5つ駅を通り過ぎ、二十五分ほどバスに揺られ、一五〇メートル歩くだけだ__彼の推理が正しければ。
電車は、颯爽と郊外を突き進む。
*
森山は、愛用の万年筆を置き、鼻筋から滑り落ちてきた分厚いメガネを押し上げた。秋の陽光が部屋に差し込み、手元を照らしてくれる。
ベランダにあるハーブとコスモスの鉢植えは三日前に済ませたというのに、全身の筋肉の疲労はいまだに抜けていない。
それでも、えいやと気合いを入れ、すっかり冷めてしまった白湯で口内の粘り気を流し、執筆中によれてしまった灰色のカーディガンの形を整え、自分の書いたものを頭からゆっくりと読み直した。
約三千字の文章を三十分で読み終えると、パソコンを立ち上げ、いつものように小説投稿サイトを開いた。
彼の個人ページには、これまでに投稿してきた作品の一覧と、閲覧者の総数、好評価、コメントの総数が表示されている。その数字が一週間前からたいして変化していないことに、安堵の息をこぼした。
そして、サイトのヘッダーにある「小説投稿」をクリックし、表示された画面に原稿を打ち込んでいく。
『十一月一日
先日、植物園に出かけた際に購入したコスモスとハーブ四種を、ついに植えた。
こうなったのも、植物園の帰りに寄った喫茶店で、あの子が美味しいハーブティーを飲んでしまったせいだ。でも、結局は僕が植物の世話をすることになるだろう(あの子が喜んでくれるなら、僕は構わない)。
僕たちは、狭いベランダに身を寄せ合い、何時間も植物と格闘した。
花屋の店員は、「苗を鉢に並べて、上から土を優しくかけてあげてください。最後に、お水をたっぷりかけるんですよ。あ、ビニールポットは外してあげてくださいねぇ」と簡単に言っていたけど、植物素人からすればさっぱりだ。
あの子のチョイスで購入した二つの植木鉢は、あまりにもお上品なので、やはりこの家には似合わない。植木鉢たちも、まさかこんな寂れたアパートの窮屈なベランダに並べられるとは思っていなかっただろう。
日が暮れても進展のない僕を見かねたのか、とっくにコスモスの植え付けを終えていたあの子は、僕の手伝いをしてくれた。
綺麗にケアされている肌を汚しながら、黙々とハーブに土を被せる姿を見ていると、これは僕も何かしなくてはいけないと奮い立った。でなければ、不機嫌になったあの子に詰め寄られ、気まずい夕食を取る羽目になる。
僕は、唯一の特技である美味しいコーヒーを入れるため、急いでお湯を沸かし、コーヒーミルで豆をゴリゴリと挽き始めた。
ゴリゴリ、ゴリゴリ。 あの子の背中から機嫌を伺いながら、ゴリゴリ、ゴリゴリ……。
そして僕は、あの子が作業を終えてテーブルについたタイミングで、最高の状態のカフェラテを提供することに成功した!
すかさず、あの子の働きへの感謝と、手際の良さの賞賛、君に美味しいハーブティーを淹れられるよう、(あくまでも僕が)お世話を頑張る旨を伝えると、あの子は、実に嬉しそうに微笑んでくれた!
どうやら、僕の特技はコーヒーだけではなかったみたいだ。
(中略)
夕食を食べながら、次のお出かけ会議をする。あの子は、意外にもまた園芸植物園に行きたいと言った。どうやら、あの子の中で植物ブームが到来してしまったみたいだ。
僕はもちろん了承したけど、胸の内で、このブームが早く過ぎ去ってくれるように祈った。でないと、植物園に行くたびに我が家の観葉植物が増えて、僕の生活スペースがなくなってしまうかもしれないからね。』
机の端に置いているアナログ時計が十五時を指すのを待ってから、『投稿』を押した。
画面いっぱいにクラッカーのアニメーションが現れ、『投稿が完了しました! SNSに共有して、みんなにお知らせしよう!』と表示される。
森山は静かにパソコンを閉じると、ようやく今日のコーヒーを淹れる準備に取り掛かった。
インターホンが鳴ったのは、コーヒーフィルターをゴミ箱に捨てた時だった。
森山は、この古い木造アパートに引っ越して以降一度も耳にしたことのない音に、しばらくそれがインターホンだと気が付かなかった。ましてや、自分のが鳴っているなど思いもしなかった。
また、インターホンが鳴った。
嫌に耳につく、トークバラエティの一時間にもわたる喧騒を、この数秒に凝縮したように不快な音だった。
森山はじっと息を潜め、自分に客が来るアテがあったか考えた。しかし、何も思い当たらない。異界から恐ろしい魔物が自分を殺しにきたのだろうか。
三度目のインターホンが鳴った。
居留守を諦めた森山は、とうとう足音を潜めて玄関へと進んだ。
しかし、孤独な老人は自宅に訪問者が来た場合の対処法が分からず、扉を開けるべきか、ドアチェーンを掛けるべきか、開けるとしても、どんな表情で外を覗けばいいのか、玄関の前でしばらく考えあぐねた。
そしてついに四度目のインターホンが鳴ってしまったので、隣人からの苦言を恐れた彼は、たるんだ皮膚が波打つ手でドアノブを強く握り、深く息を吸ってから、荒々しく扉を開け放った。
「あっ、あっ、」
しかし、そこに立っていたのがいかにも生真面目そうな青年だったので、森山は、呆然と訪問者を眺めた。
マドンナの日記 輝美 @nika_terumi
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