第5話 大学日本拳法における「英雄の器」

  存在感と言えばこんな話があります。


  私が1年生の時、2年生の先輩が40度の高熱にもかかわらず練習に参加させられた翌日、練習前の部室では、(その先輩が死んだのではないかという希望的憶測で)1年生たちはウキウキしていました。

  その先輩と同じアパートに住む2年生の話によると、昨晩、当該先輩の部屋を覗くと、、学ランを着たまま布団の上に倒れていた。そして、今日1限の為、早朝出がけにもう一度覗くと、全く同じ格好で「寝ていた」というのです。

  もちろん「冗談半分」ではあるのですが、その時部室にいた1・2年生はほぼ全員、「先輩が死んでくれれば、少しはこの部の体質も変わるだろう。」という希望的観測ですっかり浮かれ、通常は防具やタオル類をかついで道場へ向かう時刻間近になっても、誰一人、胴着にすら着替えないで、うだうだ話をしていたのです。


  しかし、そんな場の雰囲気のなかで、2年生の北崎先輩一人だけが、皆の話に笑って適当に相づちを打ちながらも、いつものように胴着に着替えていらっしゃいました。

  結局、その数分後かの先輩が元気いっぱいに部室へ現われたことで、私たち1年生の夢は淡くも消え去ったのですが、私はあの時の情景を思い出すたびに、北崎先輩の存在感というものに感心するのです。

  周囲の人間の浮ついた話(噂や推測)に感染せず、場の雰囲気に流されず、地獄のような練習にいつもの通り淡々と立ち向かっていく姿は「英雄」と呼べるのではなかったか、と。

  芥川龍之介は「英雄の器」という小説において、運命に流されず運命と戦う者こそ英雄である、と主張しましたが、あの日、私はまさにそれを目の当たりに見たのです。

  先輩もまた、当時の我が部の指導者たちによる「○ちがい」染みた練習には否定的であり、私たち1年生と同じ位、毎日の(防具)練習が嫌で嫌でたまらなかったはずです。

  しかし、そんな「不遇」ともいえる運命に流されるのではなく、自主的・積極的に運命に立ち向かっていこうとする姿に、私は「英雄の器」を見たのです。


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