第3話

「――太陽のようにみずから燃える星を恒星と言います。見える位置が変わっていく惑星とは違い、恒星は距離や並び方が変わりません。そのため、常に同じように見える星、という意味で恒星と呼ばれています。太陽にもっとも近い恒星はケンタウロス座のアルファ星です。近いと言っても太陽との距離は……」

 

 養護施設「あおいの家」。その近くにある公園。日はもうとうに暮れて、薄暗く人気はない。

 そんな中、今戸いまどはブランコに揺られながら、一人で空を見上げていた。


「――オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウスを結んだ三角形を冬の大三角といいます。シリウスは……」

 視界には、冬の夜空が広がっていた。その中でも一際輝く星が見える。周りの星々よりも強く明るく光る星。

『シリウスっていう星はね――』

 懐かしい声が頭に響く。

 あの人が、が教えてくれたこと。


 ✳︎

大星たいせい、何かあった?」

 黒田くろだは部屋の隅でひとりポツンと座っている今戸に優しく話しかけた。

 彼が施設に入ってからおよそ1年が過ぎようとしていた。

 他人ばかりの環境に慣れるのはとても苦労のいることだろう。

 しかし最近は、少しずつ周りと話せるようにはなってきていた。

 黒田は体育座りをしている今戸の体に目を向ける。華奢な彼の手首や腕は、ところどころがつねられ赤くなっていた。

 黒田の質問に今戸は首を横に振る。

「ちょっと元気がないような気がしたけど……」

「そうなの?」

「あら、違った?」

「わかんない」

 黒田は今戸の体中にある赤い跡を見たとき、はじめはいじめを疑った。

 しかし実際には自分で自分の体をつねり傷つけているところを見かけて、他人から受けた傷ではないことを知った。

 その自傷行為は毎日ではなかった。そのため「つねらないこと」を注意するタイミングは難しかった。

「どうしてつねっちゃうのかな?痛くはないの?」そう聞いたことはあるが、毎度まいど彼の答えは「わからない」で、結局解決には至らなかった。

 ただ、傷が早く回復するよう簡単な手当てをすることしかできなかった。

 つねるにはきっと何かきっかけがあるのだろう。黒田はそう思うようになった。

 好きなおかずが出てきたときや、褒められたときにはつねるようなことはしない。代わりに口数が少なく、表情が硬いときなどに見られることがあると気づいた。

 ある日の夕方、黒田は公園に行ったまま中々帰らない今戸に話しかけた。

「大星、そろそろ帰ろうか」

「ん……」

 膝を抱えるような体勢で、今戸は腕を強くつねったまま、その場を動かない。

「……今日は学校でどんなことしたの?」

「わかんない」

「楽しいことあった?」

「わかんない」

 今戸は変わらず腕の皮膚をつねる。表情は暗い。

 きっとこの子は気持ちを言葉にすることが難しいのだろう。かつての私の息子のように。

「……私ね、嫌なこと言われたり、悲しいことがあったときにはね、何か別のことを考えるの。全然関係ない別のこと。例えばね、ほら」

 黒田は空を指差した。下を向いたままの今戸がゆっくりと顔を上げる。

 冬が近づき、日が暮れるのがすっかり早くなった夜空にはチラチラと星が見えはじめていた。

「ねぇ、見える?三つ並んだ星。あれはオリオン座のちょうど真ん中。オリオン座のくびれみたいなものね。その近くにあるすっごく明るい星、見える?」

「わかんない」

「分かんなくてもいいよ。“シリウス”っていう星なの」

「しりうす?」

「うん、そう。シリウスっていう星はね、1等星っていう明るい星の仲間なの。でももっとすごいのはね、この夜空のどんな星よりも1番明るい星なの」

「そうなんだ……」

「もう一つ、教えてあげる」

 黒田はそう言うと、近くに落ちていた手頃な木の枝を拾って手に取った。

「シリウスってね、和名って言って昔の日本ではこういう名前だったの」

 そう言うと黒田は砂の地面に木の枝で文字を書いた。

 公園の照明に照らされて、歪な文字が浮かび上がる。

「たいせい……?」

「これで、“おおぼし”って呼んでたの。でも、漢字は大星とおんなじだね」

大星たいせいは“しりうす”なの?」

「そうかもしれないね」

 母親はどんな想いで彼を産んだのだろう。

 産んだときには生活や子供の障害に苦しみ自殺を選択する未来など、きっと想像もしなかっただろう。

 この星のようにきっと強く明るい子に育つようにと、成長を見守っていこうと、そう思ったに違いない。そうであってほしい。

「大星、いい名前だね。素敵な名前だね。大昔からあって、この夜空で1番明るい星の名前。世界で一番かっこいい名前」

「うん!」

 名前を褒められて、今戸はすっかり上機嫌になっていた。

「さて、帰ろうか。……って、大星は帰りたくないんだっけ?」

 黒田はわざとらしくそう聞いた。

「そうなんだっけ?忘れちゃった……」

 今戸も同じように首を傾げた。黒田は笑った。

 手を繋ぎながら夜道を歩く。澄んだ寒い空気の中、握った手がやけに暖かかく感じた。

 

 ✳︎

「シリウスは……、っし、シリウスは――」

 視界はぼやけて、どれがどの星だか分からなくなる。

 涙が勝手に溢れては流れ、止まらない。止める方法が分からない。

「せんせえ!せんせえ……!!ごめんなさい!どうしよう!どうしたらいいの!いくら考えてもだめだった……!」

 泣き叫ぶ彼に対し、追い討ちをかけるようにポツポツと雨が降り始めてきた。


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