第2話 魔王の由来
あの二合のお酒では、目の前の人物の物語を語り尽くすには到底足りないだろう。
理解できない。掴みどころがない。この楚王殿下が戻ってきてからというもの、彼を見通すことができなくなった。
「楚王殿下は謙遜されますね。」
黄思远(こうしえん)はひげを撫でながら笑みを浮かべた。彼は軍人ではあるが、一度だけかつて世界の一端に触れたことがある。
広く、また実に魅力的な世界だ。
もし再び若き日々に戻れたなら、何も背負うものがない身として、かつての意気軒昂たる白衣の少年として、馬を駆り、剣を携えて世界を巡るだろう。
「楚王殿下、世界は、実に面白いですな!」
林承天(りんしょうてん)は微かに笑みを浮かべながら答える。
「世界は確かに、この天武城よりずっと面白いですね。」
「それは老夫も同感だ。」
「ハハハハハ!」若者と老人の二人は突然声をそろえて大笑いした。
微かで悠然たる琴の音色、深い谷間を流れる小川が奏でる清澄な旋律のごとく、心の琴線に触れる。
北方に佳人あり,世に絶えて際立ち。
湖の中の涼亭の下、緑色の美しい姿が琴を奏でながら端然と座っている。その肌は雪のごとく滑らかで、姿は仙女のように優雅で、瞳は波光のようにきらめき、黒い髪は背中に垂れ、白い腕は霜のように美しく、細く白い指が軽やかに動く。春風がその絶世の美貌を撫で、幾筋かのしなやかな黒髪を乱した。
琴の音がふと止まり、余韻は遠くまで響き渡り、波立っていた湖面も静寂を取り戻した。
「わあ!お嬢様の琴の腕前は以前よりさらに上達しているようですね!」湖辺に立ち止まった侍女(じじょ)が目を輝かせて言う。
「それくらいで驚いてどうするの?あなたは最近屋敷に来たから知らないのね。お嬢様が一曲奏でると百鳥が舞い、錦鯉が水を飛び跳ねる光景を見たことがある?あれこそ本当にすごいんだから!」隣の背の高い侍女が鼻で笑いながら、自慢げにそう言った。
「錦繍、錦蓮。」冷たい声が涼亭の中から響いた。
「早く、お嬢さんが呼んだわ!」
二人の侍女は無駄な時間を取らず、急いで足を運んだ。
「お嬢様。」
「私を部屋に戻して。」
黄婉儿(こう えんじ)は立ち上がり、いつの間にかその美しい青い瞳が、黒い錦帯に包まれていた。
「はい、お嬢様。」
錦繍と錦蓮はそれぞれ琴を抱え、黄婉儿(こう えんじ)を支えながら静かに書斎(しょさい)へ向かった。
「おじいさんはまだ帰っていないのですか?」琴を所定の場所に置きながら、黄婉儿(こう えんじ)は問いかけた。
普段ならこの時間、祖父はすでに朝廷から帰宅し、食事をとっているはずだ。自分も挨拶に行くべきだ。
「お嬢様、お返事申し上げます。国公大人はまだお帰りになっていません。何かの用事で遅れているようです。」錦繍は急いで答えた。
「それでは、もう少し待ちましょうか。」
「はい、お嬢様。」
「楚王殿下、老臣(ろうしん)は先に失礼いたします。漓煙がまだ温かいこの茶館の飲茶を味わえるように。」黄思远の側にいる二人の侍衛は、それぞれ二つの梨木(なしきの)製の岡持ちを手に提げていた。
「黄将軍、お気をつけて。近日中に私が訪問いたします。」
「老臣はいつでも楚王殿下をお待ちしております!」
黄思远が侍衛を引き連れて去ると、林承天(りんしょうてん)は茶楼の主人に視線を向けた。
「最近の商売はどうだ?」
「殿下のおかげで、商売は順調でございます!」
「そうか。今後、黄将軍が来店される際は、代金を免除しておいてくれ。」
「かしこまりました、殿下。」
「ただ…ただ、どうやって国公大人に説明すればよいか分かりません。」
林承天(りんしょうてん)は少し沈黙してから言った。「私はすでにお支払いしたと。」
「かしこまりました!」
「うん、そのままでお仕事を続けてください。」」
「殿下、お気をつけて。」
茶楼の主人は深く礼をし、数歩先まで林承天(りんしょうてん)を見送った。
楚王府
「殿下!お帰りなさいませ!」
王府の管家は、あごひげをたっぷり生やし、高身長な男で、声は雷鳴のように響き渡る。その一声で隣人が雷雨でも起こるのではないかと思わせるほどだ。天武城では、文官や武官、名家の中でも、こんな管家を見つけるのは難しい。
「門都。」林承天(りんしょうてん)は少し困惑した様子で答えた。
「申し訳ございません、殿下。」門都は自分の声を抑えられなかったことに気づき、顔が真っ赤になった。
「いいだろう、あなたと程海は先に書斎でお待ちなさい。」
「はい、殿下!」
書斎の中、門都(モンド)と別の若者が左右に並んで文机の前に立っていた。
その若者は程海(チョウカイ)、二十歳を少し過ぎた年齢で、肌は少し黒く、青色の鎧を着て、腰には長刀を差しており、王府の侍衛隊長であった。
「殿下!」
二人は林承天(りんしょうてん)(シン・イアン)が入ってくると、すぐに礼をしながら言った。
「うん。」
林承天(りんしょうてん)は文机の後ろに歩み寄り、皮革で作られた簡素な椅子に腰を下ろした。
「門都、頼んだ事はどうなった?」
「殿下、仰せの通り、やはり今日の城門が開かれた時、武成侯府へ向かう馬車が一台ありました!」
「武成侯府、そして苏凌雪(すりょうせつ)……」林承天(りんしょうてん)は小声でつぶやいた。物語の歯車は、苏凌雪(すりょうせつ)が武成苏府に到着した時点でようやく動き出したのだ。
その後、苏凌雪(すりょうせつ)は何度も公子や皇子たちの視線に現れ、何度も注目され、一連の出来事が起こることとなった。
どうせ自分には関係ないことだ。彼はただ、相手の行動を確認することで、物語がどの段階にあるのかを確かめるだけだった。
「門都、引き続き武成侯府の動向を監視し続けろ。」
「はい、殿下。」
「程海、最近王府を監視している目が増えているな。少し注意を払え。」林承天(りんしょうてん)の目が鋭く光った。
「了解しました、殿下。何をすべきか、よく分かっています。」程海は低く声を落として答えた。
「うん、君たちは仕事に戻っていい。」簡単に指示をいくつか与えた後、林承天(りん しょうてん)は二人を帰らせた。
二人が書斎を出ると、部屋の隅に黒い霧がねじれ、空間を歪ませながら、青銅の獣面をかぶった痩せた男がその中から歩み出てきた。
林承天(りんしょうてん)はカップを持ちながらも、驚きの様子はまったく見せなかった
「隠災、私が頼んだ件、どうなった?」
「殿下、哭悲老人はすでに不夜城を離れ、子鼠が現在追跡中です。」隠災の声はわずかにかすれており、まるで地獄から響いてくるような不気味な冷気を帯びていた。
「この老いぼれがまだ不夜城でじっとしていると思っていたが。」林承天(りんしょうてん)は冷笑した。
哭悲老人、天外天魔教の左腕。
彼は原作を通じて登場する存在だ。
前半から後半にかけて、彼の影響はどこにでも見受けられる。
言ってしまえば、黄婉儿(こう えんじ)が闇落ちして魔王になることができたのも、この男の手助けがあったからこそ。
今回、哭悲老人が不夜城を出た目的はただ一つ、黄婉儿(こう えんじ)だ。
黄婉儿(こう えんじ)のその蒼い瞳は病気でも不吉なものでもなく、千年に一度の仙霊瞳(せんれいどう)だった!
古から今に至るまで仙霊瞳と魔霊瞳(まれいどう)を持つ者は、正派と魔教の間に無数の争いを引き起こしてきた。
今世において、原作の設定では、黄婉儿(こう えんじ)一人が仙霊瞳と魔霊瞳の両方を持っている。
一念で仙となり、一念で魔となる。
哭悲老人の任務は、黄婉儿(こう えんじ)を悪に転じさせ、魔霊瞳を覚醒させ、不夜城へと連れ帰り、魔教の教主の炉鼎(せいどれい)とすることだ。
魔霊瞳の覚醒には非常に厳しい条件があり、相手が心からその覚醒を望み、また大きな刺激を受けなければならない。
黄家の滅亡、愛する者を得られず、万人に唾を吐かれ、嫌われ、まるで世の中の悪がすべて彼女のせいで起こったかのような状況に追い込まれれば、誰でも心が崩壊するだろう。
ただし、林承天(りんしょうてん)にはまだ疑問がある。
原作では、魔教は秘法を使い、天の星を推演して黄婉儿(こう えんじ)の存在を知り、彼女の位置を突き止めたことになっている。
魔教には秘法があるが、我が大玄にも仙人がいる。
今や大玄王朝の守天閣(しゅてんかく)にいるあの方こそ、現世の仙人と称される存在だ!
大玄国師—呂問玄(りょもんげん)!
あの老翁の力量をもってすれば、仙霊瞳や魔霊瞳の存在を見抜くなど、たやすいことではないか?
しかし、生まれてから今日に至るまで、林承天(りんしょうてん)は自分の家が黄婉儿(こう えんじ)に何かしらの対策を取った様子を一度も見たことがなかった。
沈家が知らないはずがない。
あり得ない。
今日の父上の態度を見ても、明らかに内情を知っていることが伺える。
皇室は体面を何よりも重んじる。だからこそ、不吉と呼ばれる存在を娶らせたのだろう。
少し考えた林承天(りんしょうてん)は、その考察を諦めた。
父上の考えなど、彼に簡単に分かるものではない。
『兵が攻めてくれば将で防ぎ、大水が出れば土で塞ぐ』
今はもっと大事なことがある。
林承天(りんしょうてん)の双眸に突然、殺意が満ち溢れた。
『あの老いぼれは間違いなく天門関(てんもんかん)を通る。寅虎(いんこ)たちに伏兵を仕掛けさせろ。』
『お前も行け。絶対にあの老いぼれを逃がすな。』
『隠災、承知しました。』
私は誰にも愛されていない悪役妻を守るーー大玄王朝の異聞録 @shirufei
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