裏切ったのね

 胡桃と仲直りしてから、1週間が過ぎた。


 それまでの彼女の無邪気な笑顔が見られなかった日々が、まるで嘘みたいに感じる。何もなかったかのように彼女は笑い、話し、教室を盛り上げている。その姿を見ると、胸の奥がじんわりと暖かくなる。


 授業が終わり、小休憩に入った教室は一気に賑やかになった。どこかで笑い声が響き、他愛のないおしゃべりがあちこちで繰り広げられる。みんな楽しそうに過ごしているけれど、その中心にいるのはやっぱり胡桃だ。


「最近、体調崩しがちだったけど大丈夫?」


「うん、もう大丈夫だよ! 今日からまた騒がしくなるよ!」


 胡桃の声が弾けるように響く。それにつられて周りの友達も笑顔になっていく。その明るさはまるで太陽みたいだ。寒々しい冬の空気を、一瞬で春のような穏やかさに変えてしまう力がある。


「胡桃がいると、うるさいくらいに一気にクラスの雰囲気がよくなるからね」


「このクラスの盛り上げ大臣だからね!」


 どこからそんなエネルギーが湧いてくるのか、わたしには分からない。でも、その力がすごいのは分かる。気がつけば、教室全体が胡桃を中心に動いている。元気になったことで、教室全体が生き返ったように感じた。


 わたしはその輪には入らない。教室の窓際の席から、机に突っ伏しながら彼女を眺めるだけ。


 その光景を見つめるだけで、自分がどれだけ色あせた存在かが分かる気がする。わたしの世界はくすんだモノクロなのに、彼女の周りはいつだって鮮やかなカラーで彩られているみたいだ。


 まだ、問題が解決していない。その間、きっとわたしの世界に色がつくことはない。


「そろそろ話さないとなあ」


 ぼんやりと眺めていたわたしの視線に気づいたのか、胡桃とふいに目が合う。


 目が合った。その瞬間、心臓が大きく跳ねた気がした。思わず目を逸らそうとしたけれど、それよりも早く、彼女が笑顔を向けてきた。


 ――また、そんな風に笑う。


 手を軽く振って、まるでわたしをその輪の中へ誘うようにする。どうしようもなく眩しいその仕草に、仕方なくわたしもそっけなく手を振り返した。


 そんなに嬉しそうにすることないのに。


 自分でも、少しひねくれていると思う。でも、わたしの反応に満足したのか、胡桃はさらに明るい笑顔を見せた。そして、勢いよく席を立つと、わたしに向かって歩いてくる。


「椎名ちゃん!」


 彼女の声が弾んでいる。仲直りしたことが嬉しくてたまらないみたいだ。

 最近、彼女は少ししたことでわたしに絡んでくることが増えた気がする。ちょっとした会話の中で愛嬌を振りまいたり、わざわざわたしを気にかけたり。正直、それが少しだけ疲れることもあるけれど……


 まあ、可愛いから許しちゃうんだけどね。なんだか胡桃を見ていると、ゴールデンレトリバーやハスキーといった、大型犬を想起させる。


 机に突っ伏したまま、そんなことを思う。胡桃が元気なのは、いいことだ。彼女の笑顔を見るだけで、クラス全体が明るくなるし、何より、どんなに疲れていても心が軽くなるから。


 でも――


 その様子を全く良しとしない人が一――1人いた。


「ねえ、椎名ちゃんも放課後一緒に遊ばない?」


「うん、いい……」


 と、言いかけた瞬間だった。机の上に置いていたスマホが、振動音を立てる。

 通知の内容が気になって画面をのぞくと、そこには一言だけ。


『断って』


 喉まで出かかった返事を飲み込んで、わたしは苦笑する。


「ごめん、今日は用事があるから無理かも」


 胡桃が少しだけ残念そうに目を伏せた後、すぐに明るい声で返してくる。


「おっけー、だけど次はちゃんと付き合ってよね!」


「うん、分かった」


 わたしは曖昧に微笑み返しながら心の中でため息をつく。


 この状況を良しとしない人。


 それは、美琴さんだ。同じ教室にいるのだから、直接言えばいいのに。

 わたしはそんなことを考えながら、美琴さんのいる席の方へと目をやった。


 当然のように、彼女はわたしのことを見ている。


 目が合った瞬間、背筋がぞわりとする。美琴さんは笑っている。でも、その瞳は全然笑っていなかった。氷のように冷たい光がそこに宿っていて、背中を押されるように姿勢を正してしまう。


 ――胡桃との絶交。それは、美琴さんが下した命令。


 わたしが罪悪感で押しつぶされそうになっていたとき、彼女はわたしを救い出した。いや、逃げ出す方法を教えてくれた。

 そして、自分の中にあったもやもやとした罪悪感を全部胡桃に押し付けた。


 結果、わたしは楽になるはずだった。


 だけど、胡桃の泣きそうな顔が忘れられなくて、余計にわたしの心を蝕む。

 妹の協力もあって彼女に謝ることができ、それから仲直りをして、今に至る。


 ご主人様の命令を破ったわたしに、美琴さんが何も思っていないわけがない。


 わたしの予感を裏付けるように、スマホが再び振動する。メッセージの通知だ。送り主は、もちろん美琴さん。


『昼休み屋上にきて』


 ただそれだけ。短く、簡潔なメッセージ。友達同士の気軽なやり取りに見えなくもないけれど、その実態は全然違う。これは命令だ。ご主人様から奴隷への、逃れられない指示だった。


 ◇◇◇


 昼休みのチャイムが鳴る。


 わたしは周囲を気にしながら立ち上がり、胡桃に気づかれる前に教室を出る。屋上へ向かう足取りは重いけれど、それでも逃げるという選択肢はなかった。


 ――ご主人様は絶対。


 美琴さんに逆らうなんて、わたしにはできない。

 屋上へのドアを開けた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。冬の空気は容赦なく、震える指先をさらに冷たく染めていく。その中に、一人の少女が立っていた。


 ――美琴さん。


 その名前を心の中で呼ぶたび、わたしの胸は小さく震える。


「遅かったね」


 美琴さんの視線がわたしを捉えた。その瞳は、ナイフを突き立てられるような緊張感を与える。言葉の内容そのものは軽いもののはずなのに、その声色にはどこか含みがある。


「美琴さんが早すぎるだけですよ」


「そういうことにしておくわ」


 そう言うと、美琴さんはくるりと背を向けて、屋上の柵の方へと歩き出した。


「……胡桃と、仲直りしたのね」


 背中越しに投げかけられたその言葉に、わたしは一瞬息を飲む。


「もう胡桃と関わらないんじゃなかったの?」


 彼女が振り返る。その瞳は鋭く、そして深い。覗き込めば底なしの井戸に吸い込まれるような感覚がした。


「……それは」


 何かを言おうとするたび、言葉が喉でつかえてしまう。言い訳なんて意味がない。美琴さんには、何もかも見抜かれている。

 わたしが黙り込んだのを見て、美琴さんは一歩、また一歩と近づいてくる。そのたびに心臓が早鐘のように鳴る。


「ねえ、椎名」


 その声が耳元に響く。名前を呼ばれるだけで、身体の奥が冷たくなるような感覚に襲われる。

 彼女の手がゆっくりと伸びてきて、わたしの頬に触れた瞬間、全身がびくりと震えた。


「あなた、私のことを裏切ったの?」


 その囁きは甘く、それでいて鋭かった。冷たさと暖かさが混じり合い、わたしの心をかき乱す。


「裏切ったつもりは……ないです」


 か細い声が、風にかき消されそうになる。必死に伝えたつもりの言葉に、美琴さんはふっと笑みを浮かべた。


「じゃあ、どうして胡桃と仲直りなんてしたの?」


 その問いに、答えられなかった。


「あなたのために言ったのよ」


 美琴さんの声が、優しさと冷たさを同時に含んで耳に届く。その手が頬から離れ、代わりにわたしの顎を軽く持ち上げた。


「何も言わないのね」


 まるで、蛇に睨まれたカエルのように完全に固まってしまった。


「……すみません」


 喉の奥から絞り出したのは、たった一言だけだった。もっと他に言うべきことがあるのではないか。そう思うのに、どんな言葉を紡げばいいのか全く分からない。


 美琴さんはわたしの顎から手を離して、一歩後ろに下がった。そして、深く息を吐いてから、再び微笑んだ。


「命令を聞けない奴隷には、お仕置きが必要ね。今日の夜、私の家に来なさい」


「……分かりました」


 わたしの返事を聞くと、美琴さんは満足そうに頷き、そのまま屋上から立ち去った。風が吹き抜け、彼女のスカートの裾を揺らしながら消えていく。背中を見送ることしかできない。


 扉の閉まる音が静寂に消えると、わたしの身体は急に糸が切れたように崩れ落ちた。その場にへたり込んで、空を見上げる。


「言えないよね、この関係を終わらせたいなんて」


 終わらせたいと願うくせに、美琴さんを前にすると、ただ服従するしかない自分がいる。

 彼女の瞳に射抜かれるたび、自分の意思なんてものは簡単に消し飛んでしまう。


「……何やってるんだろう、わたし」


 呟いた声は、誰にも届かない。屋上にいるのは、もうわたし一人だけだ。

 冷たい風が吹き抜けるたび、頬に彼女の指先の感触が蘇る。肌に残ったその痕跡を拭い去ることができない。


「こんな関係に……どこにも救いなんてない」

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