幸せな時間
リビングの静けさが、わたしの周りをすっぽりと包んでいる。クッションに身を沈め、しばらく目を閉じてみるものの、どうも落ち着かない。手持ち無沙汰なこの感覚が、時間をさらに長く引き延ばしているようだ。先ほどまで隣にいた美琴さんの温もりが、まだ指先に残っているような気がして、思わず膝を抱えた。
窓の外を見ても、ぼんやりとした街灯の光があるばかりで、夜の静けさを際立たせている。遠くから聞こえる車のエンジン音すら、まるで別の世界の出来事のように感じる。なんでもない一瞬の隙間に、自分が小さな島に取り残されたような孤独感がじわりと広がる。
「……何してるんだろう、わたし」
ぽつりと呟き、クッションを抱え直す。それでも胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚が消えない。どうしても彼女を感じたくて、ふと立ち上がった。
靴下の擦れる音が、無音の部屋に微かに響く。気づけば、足は自然と美琴さんの部屋の前で止まっていた。美琴さんのことをもっと知りたい――そんな気持ちが心のどこかにあった。軽くノブに手をかけ、そっとドアを開ける。
「……お邪魔します」
中に足を踏み入れると、どこか無機質な空気が漂っていることに気づく。白を基調とした壁と、落ち着いた木目調の家具。すっきりと整えられた空間は、一見するとモデルルームのようだった。
「……女の子らしい部屋とは言えないですね」
失礼だと思いながらも、率直な感想がこぼれた。わたしが知っている「女の子らしい部屋」とはかけ離れている。必要最低限の家具や道具だけが揃えられていて、余計な装飾や雑貨は一切ない。
生活感が薄いせいで、広さが強調されるはずの部屋が、どこか窮屈に感じられる。空気が冷たく張り詰めているような感覚に、思わず小さな息を吐いた。
そんな中、部屋の一角に場違いな存在感を放つものがあった。
机の上に置かれた写真立てだ。ほかに目立つ装飾品がないせいか、それだけが異様に浮いて見えた。わたしはその写真に近づき、そっと目を凝らす。
写真に写っていたのは、幼い頃の美琴さんともう一人、胡桃ちゃんらしき少女。二人が楽しそうに笑っている姿が、時間を超えて伝わってくる。美琴さんはこのころから端整な顔立ちで、眺めていると自然と笑みが浮かぶ。
「……美琴さん、昔から美人だったんですね」
写真越しに語りかけるように呟いた。今より少し柔らかい表情をしている。その笑顔は、日常の中で見せる彼女のものとは少し違い、どこか無邪気で自然だった。
その笑顔が欲しくて、触れてみようと手を伸ばしたその瞬間、廊下から微かな足音が聞こえた。
次いで、扉が静かに開く音が響く。
「乙女の部屋に勝手に入るなんて、失礼よ」
「……美琴さんらしくない冗談ですね」
冷静を装いつつも、どこかほっとしている自分がいる。このいつもの冷たさが、わたしに安心感を与えてくれるのだ。
「もう準備してあるから、食べてきなさい」
促されるまま、リビングへ戻る。テーブルにはコンビニのお弁当と湯気の立つお茶が並べられていた。包装を外してすぐにでも食べたい気持ちに駆られるが、わたしは箸を手に取らず、ただ彼女の帰りを待つ。
しばらくして、美琴さんが部屋着姿で現れた。そのカジュアルな服装が少し新鮮で、目を引かれる。
「先に食べててよかったのに」
彼女がテーブルの向こう側に腰を下ろす。
「美琴さんと一緒に食べたかったので」
「……そう」
美琴さんの言葉に頷き、わたしは静かに箸を動かす。湯気の立つご飯が口の中でほぐれる感覚は心地よいけれど、それ以上に、目の前にいる彼女の存在がどこか非現実的に思える。ほんの数時間前までは、こんな風に一緒に食卓を囲むことすら想像できなかったのに。
部屋には、食器の触れ合う音だけが小さく響いている。美琴さんはほとんど無言で食べているが、ふと、わずかに眉を寄せた表情で口を開いた。
「……気まずいわね」
その一言に、わたしは思わず箸を止める。
「い、意外です。てっきり慣れてると思ってました。なんか、こなれた感じでしたし」
冗談交じりに言ったつもりが、美琴さんは少し不機嫌そうに顔をしかめた。
「私だって初めてよ」
「えっ?」
驚いて口を開けたまま固まるわたしに、美琴さんは淡々と続ける。
「こういうの、初めてだって言ったの。聞いてなかったの?」
「お互い初体験だったんだ……」
その事実が、胸の中でじんわりと暖かく広がる。思わず頬が緩むのを感じた。
「もしかして、カッコつけて慣れてる雰囲気出してました?」
わたしがからかうように言うと、美琴さんの眉間がさらに深くなる。
「これは命令よ、黙りなさい」
鋭い言葉にもかかわらず、その声にはどこか照れくさそうな響きが混じっている。それが可愛くて、ますます笑みが零れる。
「……わたしの初めては美琴さんだし、美琴さんの初めてはわたしだったんですね」
言葉にした途端、嬉しさが一気に込み上げてきて、ついにやけた笑みを隠せなくなる。
「品がないわよ」
冷たく指摘されるが、わたしは悪びれない。むしろ、その冷静さが逆に安心感を与えてくれる。
「足舐めさせた人に言われたくありませんけど」
挑発的に言うと、美琴さんの目が一瞬だけ鋭く光った。
「じゃあ、次は私が舐めてあげる」
その言葉に、わたしの心臓が跳ねる。意味深な言葉に困惑しつつも、頬がますます赤くなるのを感じた。
会話のテンポが心地よく、わたしたちの歪な関係が急速に近づいているような感覚があった。
食事を終えた後、美琴さんは無言で食器を片付け始めた。その動作は手慣れていて、無駄がない。わたしはその姿をぼんやりと眺めながら、自分の胸の中に広がる温かさを噛みしめていた。
「わたしも洗い物、手伝いますね」
そう言って近づくと、美琴さんは振り返らずに答えた。
「いいわ、ゆっくりしてて」
その何気ない言葉が、じんわりと心に染みる。少し前までは、彼女にとってわたしはただの「奴隷」だった。それが、こんな風に家で一緒に食事をし、同じ時間を過ごしている。それだけで、胸の奥が熱くなる。
「わたし、美琴さんのこと……本当に好きになったんだなあ」
無意識に口からこぼれたその言葉に、自分で驚いた。彼女の背中を見つめながら、自然と微笑む。
「もし、よかったら泊まってく?」
「すみません、家族に帰るって伝えてしまったんで……また今度お願いします」
「そう……残念だわ」
少し寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。けれど、美琴さんはそれ以上何も言わず、ただ静かに手を動かす。
それに、もしあの部屋で一緒に寝ることになれば、どうしても肌を重ねたことを思い出してしまうだろう。きっと安らかに眠れない。そのためには、もう少し心の火照りを冷ます時間が必要だった。
◇◇◇
時計を見ると、針はすでに10時を指していた。わたしは立ち上がり、軽く伸びをする。
「そろそろ帰らないと」
美琴さんは何も言わず、ただ玄関の方へと歩き出す。その背中を追いかけながら、わたしも足を動かした。
「今日は……ありがとうございました」
ドアが開き、夜の冷たい空気が二人の間を通り抜ける。わたしが一歩外へ出ると、美琴さんがその場で見送ってくれる。
「気をつけて帰るのよ」
その言葉が、妙に心に響いた。わたしは小さくうなずき、振り返ることなく足を進める。
ただ、心の奥では、次に会うときが待ち遠しくて仕方がない。いつでも美琴さんの家に行けるようにわたしは、薄暗い道や景色を覚えながら帰宅した。
家に着き、鍵を回して玄関を開ける。静まり返った自室に足を踏み入れると、孤独感が押し寄せてきた。今夜の出来事が心の中で灯り続ける限り、その孤独も少しは和らぐ。そんな気がした。
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