水のように澄んだ恋
吹井賢(ふくいけん)
【俺の妹に関する、二、三のこと】
こういう事態を、遅きに失した、と言うのだろうか。
これはおかしいんじゃないか?と思った時には、もう手遅れだったことは、誰の人生にだってあるだろう。
そういう話だ。
もう少し具体的に言えば、「自分の家では普通だったことが、一般的には、そうじゃなかった」というような話。
そうだな……。
俺の家では、カレーにはちくわを入れるんだが、これ、一般的にはどうも、珍しいらしい。
美味しいのにな、ちくわ入りカレー。
「お兄ちゃん?」
リビングのソファーに座り、ぼーっとバラエティー番組を見ながら、どうでもいいことを考えていた俺に、妹が声を掛けてきた。
俺は振り向くことなく、なんだ?と応じる。
妹は平坦な声音で言った。
「お風呂入る?」
「入ろうかな」
彼女は無言で頷いた。
俺は立ち上がり、隣に置いていた寝間着と下着を持って、脱衣所に向かう。
妹も後ろから付いてくる。
俺が服を脱ぐと、妹も当たり前みたいに服を脱いで、二人で浴室に入る。
順番にシャワーを浴びて、並んでバスチェアに腰掛けて、身体と髪を洗う。
妹は髪が長いので、大抵、俺の方が早く洗い終わって、浴槽に身を沈めることになる。
やがて、妹もお湯の中に入ってくる。
我が家の浴室は、ごく普通の広さなので、二人で入ろうとすれば、必然的に、片方が他方の開いた脚の間に入る形になる。
後ろからハグをしているような状態だ。
……狭い。
「なあ、ハル」
「……?」
「……いや、なんでもない」
……ちょっと、これはおかしいんじゃないか?
父親、あるいは、母親と、いつまで一緒にお風呂に入っていたか、という話題にも通ずるけれど、こういうの、ある程度の年齢になったら、卒業するものじゃないのか?
もう高校生だぞ?
コイツだって、もう中三だぞ?
羞恥心とか、ないのか?
しかし、そんな常識や一般的な感覚を持ち出すには遅過ぎた。
遅きに失した。
今更、「兄妹でお風呂に入るとか、なんか、変だろ」と言い出すこともできない。
……言ってもいいんだが、「妹を“そういう目”で見てるってこと?」と返されたらと思うと、踏ん切りが付かない。
嫌過ぎるだろ、そんなやり取り。
血を分けた妹だぞ?
当たり前のように目の前に座っている妹は、両手でお湯をすくい、黙ってそれを見つめていた。
何をしているんだか。
もしかしたら、コイツも心の中で、「一緒にお風呂に入るの、やめない?」と言い出そうと考えているのかもしれない。
その場合、多分、「『兄貴を“そういう目”で見てるってことか?』って言われたら、嫌過ぎる」と、同じ思考をしているんだろう。
別にいいけどよ。
俺の妹は、「
俺の名前は「檜
ちなみにだが、ハルは俺のことを、「ハルお兄ちゃん」と呼ぶ。
もう滅茶苦茶だ。
俺とハルは一歳違いの兄妹だが、あまり似ていない。
ハルは母親似だが、俺は父親似らしい。
ハルは、華奢な身体付きで、赤みがかった茶色い髪を肩甲骨の辺りまで伸ばしている。
兄だから言うわけじゃないが、相当に可愛い部類に入ると思う。
白い肌とマルーン色の髪がよく合っているんだ。
俺と違って成績は優秀。
運動もできる。
兄妹だって言うのに、神様っていうのは、不平等だよな?
同じなのは母親から遺伝した髪の色だけだ。
他の女子と比べると相当に物静かな方で、あまり喋らないし、滅多に笑わない。
仲の良い友達と遊んでいる時でも微かに笑うだけだ。
ただ、無感情とか、そういうわけじゃない。
表に出さないだけで、楽しい時は、楽しいと感じている……と思う。
これは友達やクラスメイトは知らないことだろうが、ハルは、かなりの寂しがり屋だ。
俺がソファーに座っていると、すぐに隣へやってくる。
無言でだ。
俺の膝に頭を乗せてくることもある。
これも、無言で。
ドラマを見ている時ならともかく、ゲームをしている時は結構、邪魔なんだが、これももう、今更だろう。
気紛れに頭を撫でてやると、喜んだり、不機嫌になったりする。
嬉しい時には何も言わないし、……いや、嫌な時でも何も言わないんだが、ジトっとした目でこちらを見てくるから、そういう時には、撫でるのをやめる。
そうだな、感覚としては、猫と遊んでいる時が近いと思う。
無言で無表情で、勝手気まま。
学校では優等生らしいが、相当、気を張っているのかもしれない。
「こういう兄妹は珍しいらしい」と気付いたのは、中学に上がった頃だっただろうか。
どうやら、世間の兄妹は、こんな風に過ごしたりはしないらしい。
妹となんか喧嘩ばっかりしているよ、とか、お兄ちゃんとはそもそも喋らない、とか。
そんな話を聞いて、「うちって仲が良い兄妹だったんだ」と気が付いた。
一般的には、妹と一緒にお風呂に入らない、と分かったのも、その頃だ。
……危なかった。
気付いてなかったら、うっかり、「この間、妹とお風呂でさ……」と話して、ドン引きされるところだった。
その内、兄離れをするだろう、と思っていたんだ。
小さい頃は、何かと傍に居たがるハルを鬱陶しいと思っていたし、中学生になってからは、世間一般の、兄妹像、みたいなものを理解したから、「きっとコイツも、その内、俺から離れていくんだろうな」と考えて、勝手に寂しい気分になったりもした。
娘を持った父親って、こんな感じなのかな、とか、思っちゃったりしてさ。
家族ってものは、切っても切れない関係だけど、それでも、気付かない内に距離が離れちゃうものだろう?
だから、ハルも、いつかは俺から離れていくと思ってた。
一緒にお風呂に入るなんて、以ての外。
理由もなく隣に座ったりしないし、膝枕を要求してきたりもしない。
一人用のゲームを交代で遊ぶことも、二人で映画を見に行くことも、きっと。
きっと、なくなってしまうんだと思っていた。
すぐに全部、思い出の中の出来事になって、「ああ、そんなこともあったっけ」とはにかんだりしてな。
そうなると思ってた。
でも、実際にどうなったかと言えば、それから一年経っても、二年経っても、俺が中学を卒業して高校生になっても、俺達は変わらなかった。
ハルの行動は相変わらずだったし、俺の対応も相変わらずだった。
俺とハルは仲の良い兄妹だけど、その関係性は、“仲の良い”という言葉では、収まらなくなっているような気がした。
そう、まるで……、
……いや、やめておこう。
どうせすぐ、こんな関係は終わるんだから。
例えばそう、ハルに彼氏ができたら、コイツだって、甘える先を彼氏に変えるだろう。
急に、俺を邪険に扱いだしたりしてな。
想像してみると面白い。
そして、やっぱり、寂しかった。
水のように澄んだ恋 吹井賢(ふくいけん) @sohe-1010
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