境界の彼方で君と

鳴宮琥珀

あなたの名前を教えてください。


目の前で何が起こっているのか分からなかった。本当に、分からなかったんだ。


(人⁉)


俺、ルイはいつも通り学校の帰り道を歩いている途中に、公園の草むらで人が倒れているのを見つけた。恐る恐る近づいてみると、それはうつ伏せになってぐったりとしていた。


「あ、あの~」


わずかな望みで声をかけ、指で身体をちょんちょんとつつく。反応がないので、とりあえずうつ伏せになっている身体を回転させて、こちらに向かせる。

色白で白いまつげ、白い髪の毛と、どこもかしこも真っ白だ。女性か男性か迷うくらい、中性的できれいな顔立ちをしている。草むらではこの白い髪が目立っていたからすぐに見つけることができた。


綺麗な顔立ちに数秒見惚れていたが、そんな状況ではないとすぐに現実に戻る。どうしようかとポケットから携帯を取り出して立ち上がると、ズボンの裾を何かが掴んだ。見下ろすと、先ほどまで反応がなかったその人が、目を閉じたままこちらに顔を向けていた。


「ひっ!」


驚いて、情けない声が出る。昨日妹たちに強制的に見せられたホラー番組を思い出してしまったからだ。

見た目はホラーに強そうだとよく言われるが、それに反して怖いものが大の苦手な俺は、その弱点を唯一知っている妹たちに、よくからかわれて遊ばれている。しかし自他ともに認めるシスコンなので、その頼みを断れなくてどうしようもない。そのせいで昨日は全然寝付けなかったし、夜一人でトイレにも行けなかった。

そんなことが脳内で一気に駆け巡ったが、目の前にいるのは間違いなく生きている人間だ。大丈夫だと自分に言い聞かせ、再びしゃがみこんで顔を近づける。


「うっ……。み、ず……」


微かに聞こえた声に耳を傾けると、どうやら水を欲しがっているようだ。額の汗と顔色から、脱水症状かもしれないと思った。俺はバッグの中を確認すると、飲みかけの水を見つけた。

相手が潔癖症かもしれないと考えたけれど、今は一刻も早く水分を飲ませたほうがいいだろう。バッグからペットボトルを取り出すと、キャップを開けて、飲み口を唇に近づける。


まずは一口飲ませてみる。すると喉が動いて飲み込む音がした。自分で飲むことはできると分かり、ひとまず安心する。口移しはさすがに恥ずかしい。それでなくとも、この時点で間接キスになるのに。こんな状況でも変なことを考えてしまっている自分に呆れる。

幸い、俺は水をほとんど飲んでいなかったので、たくさん飲ませることができた。

ゆっくりゆっくり少しずつ飲ませていくと、だんだんと顔色が良くなっていくように見えた。草むらだと日が当たりすぎるので、日陰に場所を移動しようと仰向けの状態を崩さないように抱き上げた。


(軽っ……。)


本格的に鍛えているわけではない俺でも、持っているという重みが感じられないほど軽かった。見た目からしても細いのは明らかだが、それにしても軽すぎて心配になる。日陰まで来て下ろす時も慎重に慎重に、そしてそのすぐそばに俺は腰を下ろした。

周りの喧騒が遠ざかって、まるでこの世界に二人だけになったみたいだった。目を閉じると草と草が触れ合ってカサカサとなっている音だけが耳に入ってきた。


気が付くと俺は眠っていた。閉じていた瞼を少しだけ開けると、その隙間から誰かが俺を覗き込んでいるのが分かった。


「はっ⁉」


思わず後ろに後ずさる。一気に目が覚めて、目の前にいる人物をまじまじと見る。

アクアマリンの色をした瞳、本物の宝石みたいに綺麗だ。


「お前が僕に水をくれたのか?」


ぷっくりとした形のいい唇が開いて、見た目通りの可愛らしい声に、似合わない言葉が飛び出した。


「聞いているのか?」


「え、ああ、そうだけど…。」


俺の言葉に嬉しそうに口角を上げると、さらに顔を近づけてこう言った。


「そうか、礼を言おう。僕を助けるなんてお前は見る目があるらしい。」


目を閉じているときはどちらか分からなかったけれど、よく見るとちゃんと喉仏があるから男性だ。しかし、顔だけ見ると本当に中性的で、綺麗だ。


「あ、じゃあ…」


夢から一気に現実に引き戻されたような感覚に陥りながら、この場を去ろうとした俺の手を思いきり掴まれた。後ろに引っ張られ、しりもちをつく。


「何ですか…?」


無意識に敬語でしゃべっている自分に気づく。彼から何だか圧を感じるのだ。偉そうな物言いや態度からも、雰囲気に気圧されそうになる。


「礼をしよう、何がいい?」


「え、大丈夫です。大したことしてないし。」


「えっ?僕が礼をするなんて、滅多にないことだぞ!」


俺の反応は予想してなかったようで、一人で慌てだしている。


(いや、知らないし……。)


「そんなことより、もう体調は大丈夫なんですか?」


彼に負けじと、顔を近づけて質問する。顔色はさっきよりは良さそうだ。

すると、彼は驚いた顔で後ろに下がり、頬を真っ赤にした。肌が白いから、赤く染まった頬や耳がとても映える。真っ白な画用紙に赤い絵の具を垂らしたみたいな。

予想外の反応に調子が狂いそうになる。


「だ、大丈夫だ。僕はお前なんかよりもずっと強いんだからなっ!」


赤くなった顔を隠すように手で覆って、強気に言っていたが全く説得力はない。それに、弱っている姿を見ていた俺からすれば、強いと言われても想像ができない。だがとりあえず、


「それなら良かったです。」


と笑った。体調が良くなったことには変わりない。元気になってよかったという気持ちが一番だった。

俺が笑いかけたのに、またも動揺したように彼はドギマギとしていた。


「そ、それより礼だ!何がいいか言ってみろ。」


「いやだから…」


「いいから言え!大抵のことは叶えられるぞ。」


いきなりそんなこと言われても困る。

それに、何かして欲しいとか、何が欲しいとか聞かれたときほど、何も出てこないものだ。考えている間にも、彼の口からは言葉が止まらない。俺は何とか絞り出したことを言ってみた。


「じゃあ、あなたの名前を教えてください。俺はルイって言います。」


「は?」


そういう反応をされると予想しないわけではなかった。でも本当にこれくらいしか思いつかなかったのだ。


「ほ、本当にそれでいいのか?」


なぜだか憐みの目を向けられている気がする。別にいいけれど。


「全然大丈夫です。早く教えてください。」


だんだんこのやりとりにも痺れを切らしていたので、ため息交じりに言った。少し感じが悪かったかもしれないと反省したが、多分もう会うこともないだろう。


「………ない。」


「ん?」


先ほどまでの威勢はどこへ行ったのか、聞こえないくらい小さな声で彼が返事をした。

ない、とはどういうことだろう。名前がない?


「えっと…」


彼は意を決したように顔を上げると、俺を見てこう言った。


「僕に名前はない。強いて言うなら番号はあるが。」


番号?どういうことだ?

彼は名前が分からないではなく、ない、とはっきり言った。混乱する俺を見て、彼は続けてこう言った。


「僕は……天使だからな。」


「…………は?」


俺が顔を上げると同時に視界に入ったそれは、紛れもなく本物の羽で、俺の目の前で咲き誇るように開いた。驚いて声も出ない俺を、天使は嬉しそうに笑って見ていた。

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