第8話 フルオロアンチモン酸

「これはスマホのインカメラの映像だ。つまり僕たちは尾行されている」

「よし、一斉に振り返って引っ捕らえるか」

「きみは馬鹿かね? 相手はどんな武装をしているのかわからないんだぞ」

「そうか」

「ひとまず、コスプレの参加者に紛れよう」


 美人コスプレイヤーきなこを取り囲む数百人のカメラ小僧たちに俺と博士は紛れる。

 青い獅子舞と俺たちは間合いを計るように円形の人混みの周囲を回る。脳天気なオタクたちはコスプレイヤーきなこに夢中で青い獅子舞を気にも留めていない様子。

 コスプレイベントなので気にするほうがおかしいのかもしれないが。


「カメラの前に立つなよ! 割り込みか!」


 とそこで、ひとりの憤ったオタクに押されて俺と博士は円の内側に倒される。尻餅をついた。

 顔を上げると人垣が割れていた。

 そこには青い獅子舞の人物が立っていた。俺たちは後ずさりながら円の中心であるコスプレイヤーきなこのもとまで後退を余儀なくされた。


「ちょっとあなたたちなんですか。ポリスメーン!」


 きなこは付近に常駐する警察官を呼びつけた。

 すると身長差のある凸凹コンビの男性警察官が割って入ってくる。こんな警備がついているとは、どうやらこのきなこというコスプレイヤーは相当人気者らしい。しかしその警察官は二手に分かれる。俺はでかいほうの警察官に首根っこを持ち上げられる。


「あいててて! 乱暴はよせ! 何もしてねえだろ!」


 そしてもうひとりの小っちゃいほうの警察官は俺たちを通り過ぎる。正反対の方向へと向かった。

 そちらを見やれば、俺と博士と青い獅子舞の他に、第三の不審人物が立っていた。


 全身黒尽くめ。光沢がある。黒い仮面には昆虫のような2本の触覚が生えており、ふたつの複眼がついている。口にはガスマスクを嵌めていた。防弾チョッキを着込んでいるように厚い胸板。雫型の臀部は大きく膨らんでいる。そしてその手にはショットガンのような黒い水鉄砲を所持していた。タンクがその人物の臀部まで細長いチューブで繋がっている。


「クロパトか?」


 いや、似ているがソルト人とはすこし違う。

 奴はなんだ?


 取り押さえられながら俺が疑問に思っていると、黒尽くめは黒い水鉄砲の銃口を警官に向けた。

 脊髄反射で小さいほうの警察官がガンホルダーからチェーンに繋がれた拳銃を取り出す。腰を屈めて両手を拳銃に添えた。


「悪ふざけでは済まないぞ! 武器を置いて両手を挙げろ!」


 現場に一気に緊張が走った。

 低身長の警察官の射線に入ったカメラ小僧たちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。

 これで邪魔者は消え、発砲の可能性が現実味を帯びてきた。

 しかしその黒尽くめの人物は逃げない。どころか両手も挙げない。

 代わりに何事かを言う。


「シネ、コロス……デアリンス」


 たしかにそう聞こえた。

 その次の瞬間、黒尽くめは黒い水鉄砲の照準を合わせてドピュッと発砲した。

 その液体は放物線を描いて背の低い警察官の上半身にかかった。そしてなんと驚くべきことに警察官の衣服がみるみるうちに溶け始めたではないか。いや衣服だけではない。肉体ごと蝋のように溶けている。


「なんだよ、あれ」


 俺が唖然としていると博士が冷静に分析する。


「あれはおそらく強力な超酸――フルオロアンチモン酸だね」

「フルチン……?」

「フルオロアンチモン酸だ」


 博士は即座に言い直した。


「硫酸の二千京倍強いと言われている。つまりあれはただの散弾銃ではなく、超酸弾銃と言ったほうがいいだろう」


 博士の見つめる先では断末魔の叫びをあげる背の低い警察官。


「うわぁああああああああ!」


 拳銃を持っていた右手は二の腕から溶けてしまってその場にボトリと落ちた。もはや上半身は原形を留めていない。ただでさえ低い身長が輪をかけて縮んでいく。腹部がドロドロに溶けて胃液と内臓と消化物の区別がつかない。首の骨までドロドロに溶けてしまい、ゴロッと生首が地面に転がった。

 その生首と目が合ったきなこは小さな悲鳴を上げて、その場にへたり込んだ。


「尾形!」


 上背のある警察官は脅威判定が覆ったのか俺の拘束を解いて、尾形と呼んだ警察官の下に駆け寄った。

 しかし誰が見ても絶命していた。

 生首の表情は恐怖におののいている。


「よくも、よくもぉ……!」


 それから顔を上げて背の高い警察官は黒尽くめと対峙した。

 拳銃を取り出すと黒尽くめに照準を定めて躊躇なく発砲した。6発の乾いた音が東京ビッグサイトに響き渡り、銃口から硝煙が立ちのぼる。

 しかし、黒尽くめは何事もなく立っていた。


「なん……だと」


 銃弾は確実に黒尽くめのバイタルをヒットしているはずである。

 首をすこし傾げてから黒尽くめは酸弾銃をデカい警察官の足下に向けて発砲する。バランスを崩したところを次の射撃でバイタルに撃ち込み確実に仕留めた。

 あきらかに殺し慣れている。

 警察官がふたりやられたことにより、堰を切ったように人々は逃げ出した。

 これは舞台ショーでも何でもなく異常事態だと悟ったのだ。


 黒尽くめは逃げ惑う人々に誰彼かまわず発砲した。

 中には立ち止まって撮影を続けるカメラ小僧。しかし酸弾銃の酸がカメラに付着してドロドロに溶かした。それもひとりではない。あきらかに黒尽くめは撮影するカメラを狙い撃ちにしていた。

 さらには超合金ロボットのコスプレイヤーにも酸弾銃が浴びせられる。しかしパイロットは機体が溶ける前に間一髪で脱出する。超合金の中からは永遠の少年の心を持ったランニングシャツのハゲたおっさんが生まれた。

 黒尽くめは次にコスプレイヤーのきなこをロックオンする。当のきなこは腰を抜かして完全に逃げ遅れていた。


「いや……やめて……おねがい」


 きなこは首を振りながら怯えていた。

 あれだけ周りを囲んでいたオタクたちは今は誰もいない。

 そんなこともお構いなしに黒尽くめはきなこに近付き、酸弾銃を構える。きなこは最後の勇気を振り絞って背の高い警察官の右手から拳銃を奪い取ると、黒尽くめに銃口を向けた。それからややあって考え直したように拳銃の銃口を自身のこめかみに当てる。


「さようなら、ママ」


 しかし永遠の静寂は訪れなかった。

 カチャリと弾倉が空回りしただけである。

 先ほど撃ち尽くしたためにその拳銃は弾切れだった。

 きなこが目を見開くと黒尽くめは眼前に迫っていた。

 酸弾銃の銃口が額に突きつけられた。零距離で発砲される。きなこの顔面はビチョビチョに濡れてからトリートメントを洗い流すように長い髪の毛が頭皮ごと剥がれ落ちる。顔面の皮膚が垂れ下がり筋細胞は溶けた。超酸がセーラーアースのセクシーなコスプレ衣装の谷間に滴り落ちる。コスプレ衣装をトイレットペーパーのように溶かして水色のブラジャーを侵食したが色っぽさのカケラもない。色白のたわわな乳房を溶かして脂肪分に分解すると、あばら骨を浮かせた。手に持っていた拳銃までもが腐食してドロドロに溶けてしまった。

 やがてきなこの頭蓋骨が残り、それも最後には酸の海に溶けた。

 まるでこの世にはじめから存在しないかのように。


 博士は丸眼鏡を押し上げながら問う。


「あれがきみのいう宇宙人かね?」

「いや、違う。ソルト人はもっとこう……蛾に近い」

「ふむ」


 博士はあごに手を添えて考え込んでいた。


「そういえばあの青い獅子舞はどこいった?」


 俺は首を回すと奴を発見した。

 青い獅子舞は唐草模様のマントを翻すと左手がのぞく。

 なんとその腕は義手だった。水色地にオレンジの点々。チョコレートミントのようなカラーリングである。

 そのまま青い獅子舞は逃げ惑う人混みのなかに紛れていった。

 今は奴を追っている場合じゃない。

 それよりも目の前、20メートル先に黒尽くめが迫っている。

 酸弾銃の照準を博士に合わせていた。


「博士、あぶねえ!」


 俺は博士を押し倒す。幸運にもランドセルがクッションとなってダメージを軽減していた。

 ランドセルの中でパンダ猫が何事かと鳴いている程度だ。

 先ほど博士が立っていた地面はジュウーッと溶けて沸騰していた。

 俺と博士は顔を見合わせる。


「博士、ボーッとすんな。逃げっぞ」

「それが……つい今しがた足をくじいたようだ」

「なに?」


 あまり運動神経のいいタイプには見えない博士。

 こうなりゃ選択肢はひとつしかねえ。

 俺は身を屈めて博士に背を向けた。


「乗れ!」


 博士は察したように俺の首に手を回した。俺はすっくと立ち上がり駆ける。

 子供と逃げるならむしろこのほうが速いまである。

 ガッタンガッタンとランドセルが跳ねた。俺は射線をずらすようにジグザグに逃げる。

 すると超酸が右に左に浴びせられて地面を溶かしていた。

 さらに出入り口は群衆でごった返している。

 このままでは全員、砂漠の雪だるまだ。

 俺は遁走しながら叫ぶ。


「おい、カブ! 来い!」


 すると、すぐ真横を超酸がかすめた。

 俺はバランスを崩して倒れそうになる。

 そこでホール内の極太柱の真裏に隠れた。顔だけ出して後ろを窺うと黒尽くめは柱に向かって発砲した。柱がジュクジュクと溶けているのが背中越しに伝わった。俺におんぶされている博士のほうがもっと感じているはずだ。

 このまま溶ける柱に隠れているわけにもいかないので俺はおんぶしていた博士を柱の陰に降ろす。

 それから柱の横に飛び出して黒尽くめと対峙した。


「どこ狙ってんだ? こっちだ。酸野郎!」

「ヤモリ、きみは何をしているのかね?」

「うるせえ。俺に考えがある」

「そうか。うむ。無茶するなよ」


 博士は察したように押し黙った。俺の作戦のためにはこいつの注意を引く必要がある。

 何が目的かはわからないが、あの不審な手紙と無関係には思えない。

 狙い通り黒尽くめは俺に銃口を向けて立ち止まる。

 引き金を引き絞ろうとした――まさにその次の瞬間、

 黒尽くめの向こうからキュルルルーと、コンクリートの床とタイヤが摩擦する音がホールに鳴り響いた。エンジンが唸りを上げる。黒尽くめの背後からヘッドライトを照射した郵政カブが全速力で突っ込んできた。


「衝突回避、解除!」


 命令しながら俺は意気揚々と勝ちを確信した。

 郵政カブが肉薄して黒尽くめの背骨を鯖折りにしようとした。

 刹那――黒尽くめは完璧なタイミングでバク宙をした。

 まるで背中に目でもついてるかのように。

 マジでついていてもおかしくない見た目だが……。

 闘牛士のように華麗に躱されてしまった。


 そして今度は逆に衝突回避を解除したことが仇となった。

 勢い余った郵政カブが俺めがけて突撃してきたのだ。

 このままでは轢かれる未来しか見えない。


「止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、止まれ!」


 俺は音声認証で命令した。

 しかし間に合わない距離まで迫っていた。

 俺は思わず目を閉じる。

 だがしかし、いつまでたってもカブはやってこない。

 おそるおそる目を開けると俺の目の前に白い影が立ちはだかっていた。

 一瞬、博士の白衣かと思った。

 だが違った。

 博士は柱の陰に隠れているからだ。


 ならば、この白尽くめはいったい誰だ?

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