06.ぎこちない日常03

「殺風景な場所よりも気持ちが晴れやかになりますからね、外の方が。それにしても今期一番の寒さじゃないかな?」


 澄んだ青空には雲一つかかっていない。放射冷却が厳しすぎて足下からじわりと冷気が纏わり付いてくる。


「ここに暖房があればいいんですけどね。もしくは畳にこたつ。冬はあれが最適なんですよ」


 安井は笑いながら缶コーヒーに口を付け、「もうぬるくなっちゃったね」と少しだけ顔を顰めた。


「僕、こたつに入ったことがないのでちょっと憧れます」

「そうなんですか? いいですよー、本当に動きたくなくなります。人間を駄目にする最強兵器ですね」


 安井の診察はいつも雑談から始まる。なにを診られているのか樟にはわかっていないが、こうして話すのも大事らしい。


「機会があったら是非入ってみてください。あの中で寝ると最高に幸せなんですよ……その後の乾燥が大変ですけどね」

「安井医師せんせいの家にあるんですか?」

「今年導入しました。家にいる時間ずっと潜っているので、配偶者に怒られっぱなしです」


 配偶者の話をするとき、安井は決まって眦を下げる。こんな些細な会話だというのに、とても愛しているのが言葉の端々からも感じられる。


(いいな、配偶者さん……オメガでも愛されることってあるんだ)


 もっと皆が蔑まれているとばかり思っていた。オメガだからと辛い思いをしているのだと思ってた。ちょっとだけ安心して、羨ましくなる。


「樟さんは今、何を考えていましたか?」


 眼鏡の奥の目が緩く弧を描いた一本線になる。この顔をされるとどうしてか、心が溶け出して思っていることを口にしてしまうのだ。


「あの……安井医師の配偶者さんは愛されていいなって……オメガでも幸せになれるんだって……でも僕はダメな……出来損ないのオメガだからしょうがないのかなって」


 手の中にある缶コーヒーを見た。

 牛乳をたっぷりと使用しているのを物語る薄茶色の缶は、風に弄ばれている葉の色に似ている。

 辛いことから逃げようとする脳がそんな現実逃避を始めていると、樟本人は気付かないまま、弄ばれ遠くへと移動させられる葉の行方を視線で辿る。くるりと宙を舞うのすらもの悲しげな視線を送る。


「それは、誰かに言われたんですか?」

「え?」

「出来損ないって」

「いえ……僕は本当に出来損ないなんです。ちゃんとしたオメガだったら役目があって……それがあるから愛されるんでしょうけど、僕は……」


 樟は顔を上げないまままた、新たに目の前へとやってきた落ち葉を見る。今度は安井が手にしているのと同色の濃い葉だ。地面にしがみつこうと必死で這いつくばっているが、風の強さには敵わないのか、ずるずると引きずられていく。


「樟さんは面白い考え方をするんですね。ちゃんとしたオメガ……ですか。樟さんの中のオメガってどんなイメージなんですか?」


 安井は樟が何を言っても否定の言葉を口にしない。それはなぜかと問うことはあっても、決して否定の言葉も考えの押しつけもしない。そんな人、樟の周りにはいなかったから新鮮で、言葉がするりと心に入り込む。


「どう……なんでしょう。僕は、僕以外のオメガを知らないんです。高校は通信制だったし、みんなオメガだってことを隠していたので……僕もですけど」


 当然だ。オメガだと今まで優しくしてくれていた人すら離れていく。殴られたり酷いこともされるだろう。オメガだと公言していいことなんて一つもない。

 そう伝えると、安井は何度も頷いた。


「どうしてそんなことになっちゃったんでしょうね。基本的人権の尊重と法律で明記されているのに、そこに当たり前のようにオメガは入っていないんですよ。僕には不思議でしょうがないんです」


 また安井が一口コーヒーを含んだ。吐き出される息が一層白くなる。コーヒー特有の香りがふわりと広がったが、すぐに風に攫われていった。

 日本国憲法なんて耳にするのは久しぶりだ。樟の生活には全く縁のないもののようにずっと思っていたせいなのかもしれない。


「それ、懐かしい単語です」

「卒業したら法曹界以外が使用するのを耳にしないからね。でも守られているはずなんですけどね。僕は配偶者が、オメガという理由だけで蔑まれていたらとても悲しいし、怒りが湧きます。彼の為人ひととなりも知らないで何を言っているんだって」

「安井医師は本当に配偶者さんが大事なんですね」

「当たり前です。それがアル……いえ、それが僕なんでしょうね。大事でしょうがないんです。樟さんは大事にされるなら誰がいいですか?」


 突然の質問はいつものことだ。

 いつものことだけれど、樟は答えられなかった。

 誰の顔も頭に浮かばない。

 樟はゆっくりと顔を上げ周囲を見回した。みんな楽しそうに笑っていて、自分と彼らの間には見えない膜が張られてあり、誰も剥がすことができない。樟だけがこの世界の異質で隔離されているような感覚だ。

 答えられない樟に、安井はそれ以上言及しなかった。


「いつか、樟さんが大切にして欲しい人が見つかるといいですね」


 それだけ言った。


(安井医師……大事にしてくれる人なんているはずがないんです。だって僕は……オメガとしても落第者なんです。だから、どんなことがあっても、僕は幸せになれないんです)


 樟はただ遠くを見つめ、人の輪をただ羨ましく見るしかなかった。

 その視線に気付いて安井は立ち上がった。


「随分と身体が冷えましたね。歩きながら話しましょうか。ところで、退院してから困ったことはありませんか?」

「困ったことは特に……」


 樟も立ち上がり、強張ってしまった筋肉を伸ばしながらゆっくりと歩く。退院したばかりだからか、動きがいつもよりも鈍いと感じるが、逆らうことなく安井の後に続く。


「では変わったことは?」

「そうですね……あの、部屋が……部屋が凄いことになりました」


 帰って一番驚愕したことを安井に告げる。今着ている服の柔らかさや温かさ。服だけではなく鞄や靴まで増えたこと。パソコンを貰ったが使い方がわからず、壊すのが怖くて触れられないこと。

 とりとめのない話をしながらゆっくりと一時間かけて病院の周囲を二周し、安井の診察室へと戻る。建物に入ったときには思わずホッと息を零し、暖房の偉大さを味わう。


「温かいって凄いことなんですね……そうだ、部屋にエアコンが入ったんです」

「今までなかったんですか?」

「はい。買うと高いし、設置にも誰かの手を煩わせるので……」


 それに、家に誰かを入れていいかわからなかった。それが工事業者であっても怒られる可能性があることは怖くてできなかった。

 どうしてこれ程までに叱責されることを恐怖に思うのか自分でもわからない。ただ怒られたくない、殴られたくないという気持ちが埋め尽くし、自分が我慢すればいいと結論づけてしまう。

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