02.冷たい家の中03
そして耀一郞は傷心のフリをすればいいのだ。
どうやってそれを配偶者に伝えるか……。
悩んだのは一瞬だった。
(言わなくてもいいだろう。発情期に相手をしなければどこかで男を引っかけて妊娠するだろう)
足取りが軽くなったのが自分でもわかる。
穏やかな心で街を眺めれば、先程苛立ちを感じた浮かれた空気すら気にならなくなり、どこかに需要が落ちていないかとアンテナを張り巡らせて帰路に就いた。
最上階にほど近いフロアにある自宅へと戻れば、予想していたとおり部屋は真っ暗だった。
耀一郞は僅かに口角を上げて嗤い、寝室へと向かった。
(はやりオメガは貞操観念がない。あんな奴らに執着するアルファの気が知れない)
アルファの
だがどうしてオメガになど執着するのか、耀一郞にはわからない。
誰にでも足を開くような存在の何が魅力なのか。
優秀な遺伝子を残すならアルファ同士で試験管ベイビーを大量にこさえればいいのではないか。
昔と違い、今は医学が発達している。
オメガなど存在する必用はないとすら考えてしまう。
同じアルファがオメガの餌食になるのが理解できずにいた。
(半年と持たなかったか)
親に言われてしばらくは神妙にしたところで所詮はオメガ。肉欲に堪えきれずに遊びに行ったのだろう。
なんせ樟は菊池製作所の社長の息子だ。中小企業の経営者ならば、大企業と縁を結ぶ道具として子がオメガとわかれば蝶よ花よと育てるに決まっている。もしかしたら、遊ぶのもアルファを捕まえるために容認していたのかもしれない。
なにせ、人口の三パーセント未満しかいないアルファの多くは政治経済の中枢に籍を置いているのだから、誰を捕まえても損にはならないだろう。
そうやって甘やかされたオメガが、全く相手をしてくれない耀一郞に操を立てるわけがない。
着替えようと寝室に向かうと、手前の扉が開いた。
「おかえりなさい」
その瞬間、耀一郞は男らしい鋭い目を細めた。眦が上がる。
「……いたのか」
自然と声が低くなった。
「っ! す……すみません……ゴホッ」
濁りのある咳が放たれ、樟が慌てて両手で口を塞いだ。
なるほど、病気だったから家にいただけか。
続けざまに痰が絡んだ咳の音が廊下に響く。
「移すな。さっさと治せ」
そしてさっさと男を漁りに行けと心の中で罵声を浴びせ、寝室へ入った。鞄をベッドに投げる。
「くそっ、なんでいるんだ!」
いないと思ったのに……。
オメガがいつまでも貞淑なはずがない。発情期を無視していればそのうち遊びまくると思ったのに、なんだあれは。苛立ちが募り、なにかにぶつけてしまいたくて、しかしアルファなのだからと自らに品行方正を強いている耀一郞はどうやってこの鬱憤を晴らして良いか分からず、脱いだコートすらもベッドへと投げる。
こんなに苛立ったのはいつぶりか。
今までも帰ってくるたびに執拗に挨拶をしてきたように思う。どれほど遅く帰っても必ず一言あった。そのたびに苛立っていたが、今までにない怒りが生まれ、爆発寸前となっている。
理由はわからない。
ただ樟の顔を見ただけでどうしようもない感情が生まれた。
気が高ぶっているのかもしれない。
なにせ、秘書から父の……世界で一番憎らしい男の気配を感じたからだ。
父との関係は良好とは言いがたい。社長と会長としてビジネスライクに付き合っているが、プライベートの会話は一切ない。それは幼少期からだ。なのに土足でプライベートに踏み込んでくる暴挙に平気で出るのだ。息子を心配する親の顔をして遠慮なく耀一郞のスペースを踏みにじる。
意識しないようにしていた苛立ちは、樟の顔を見た途端に爆発したとしか言いようがない。
(今更父親
本当に今更だ。
理由はわかっている。早く子供を産ませて樟を用済みにするためだ。会社のためでも家のためでもない。自分がその後、息子の配偶者を好きにするために。
結婚式で父が異様に熱い眼差しを樟に向けていたのに耀一郞は気付いていた。
頭の天辺から爪先まで舐めるように見てはいやらしい笑みを浮かべ続けていた。
(あれほど愛人を抱えているくせに、息子の配偶者に興味を覚えるか)
見目の良いベータやオメガの愛人をたくさん抱えているというのに、まだ足りないというのか。
崩壊しきった家庭に、生まれ育った。
耀一郞が誕生すると役目は果たしたとばかりに、父も母も愛人を作り家に帰ってこなくなった。両親のいない広い家はとても寒々しく、正月に顔を合わせてもひんやりとした空気だけが流れていたのを思い出す。
ギュッと拳を握り苛立ちを何かにぶつけたいのにできないまま、むしゃくしゃとした感情を抱えてリビングへと向かう。酒でも飲んで紛らわそうとしたが、ダイニングテーブルの上にラップを掛けた一人前の料理が鎮座しているのを見つけ、更に焦燥が募った。
(またか……)
これで何日目だ。
必ずと言っていいほど、そこには樟が用意した料理が乗っている。
朝であれば卵焼きとサラダ、それにトーストが。夜だと煮物と焼き魚を中心とした和食が。
直接媚びてくればいいのに、ものだけを置いて一定距離近づかないことにも腹が立った。
耀一郞はラップを剥ぎ皿を持ち上げると、ダストボックスに料理を流し込む。
空いた皿を流しに放り投げるように置いてから、食器棚からグラスを取り出した。
「機嫌取りか、馬鹿らしい」
こんなものは必要ない。オメガが作ったものなど、なにが入っているかわかったもんじゃない。どんなに腹を空かせていたとしても、口にするものか。
一緒に暮らし始めてから毎日のように置かれる料理を、耀一郞は一度として口を付けたことはない。流れ作業のようにダストボックスに放り込むのに、樟は気付いているはずなのになにも言わない。怒りでもぶつけてくれた方がマシだが、顔を合わせたくもない。
インテリアデザイナーが設置したワインラックからスコッチウイスキーの瓶を手に取り、グラスに注ぐ。シェリー樽から移った豊かな香りが、一口飲むごとに鼻に抜けていく。
芳醇な香り高いウイスキーを口にしているのに、ちっとも気持ちが凪がない。
「……くそっ」
せっかく気分良く帰ってきたのに、なぜ寛ぐべき場所である自宅でこれほどまでに苛立たなければならないんだ。
「あいつのせいだ……」
久しぶりに樟が顔を見せたのが原因だ。しかも耀一郞が構ってやらなかったのがいけないとばかりに咳き込むフリまでして当てつけてきたのにも腹が立つ。仕事の忙しさで相手をしないことへの不満かとすら思う。
それ以前にオメガの相手をするつもりは毛頭ないというのに。
プライベートのすべてが煩わしい。
ただ仕事に集中したいだけなのだ。
「はぁ……帰ってくるんじゃなかった」
嘆息して、シェリー樽のドライフルーツにも似た甘い香りがついたウイスキーを喉に流し込んでいった。
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