「働く者の選択~人生を積み替える時~」
アクティー
第1話:長時間労働の果て
物流センターの中は、夜10時を過ぎても慌ただしかった。
天井近くまで積み上げられたパレットの隙間を人々が行き交い、フォークリフトのバック音と荷物を移動する音が響いていた。
そして、冷たいコンクリートの床には足音が反響し、時折、作業員同士の短い指示が飛び交う。
そんな倉庫全体を覆う重い空気が、田中誠司の心にも染みついていた。
田中誠司、年齢は45歳、20代の頃から物流業界一筋で働き続けてきた。
地元の高校を卒業後、家計を助けるためにすぐ働き口を探し、アルバイトとして物流センターに入ったのが最初の仕事だった。
「物を運ぶだけの単純作業だ」と思っていたが、次第に効率よく作業を進めることの面白さに気づき、やりがいを感じ始めた。
その後、契約社員、正社員とステップアップし、今ではベテラン作業員として現場を支えている。
フォークリフトの操作からピッキング、荷物の仕分けまで、現場作業のほとんどを熟知して、周囲の作業員からの信頼も厚く、新人教育も任されることが多い。
「田中さんに聞けば間違いない」と言われることが多いが、田中自身は特別な自負を持っているわけではない。
ただ、「仕事は手を抜かず、しっかりやる」という自分なりの信条を貫いてきただけだ。
家庭では妻と高校生の娘を養う父親でもある。
休日には家族で外食をすることが唯一の楽しみだが、最近では仕事の疲れで家にいる時間も増えた。
娘の進路についても話し合うべき時期だが、疲れ果てた田中はつい話題を先送りにしてしまう。
妻の美咲はそんな田中を気遣いつつも、時折心配そうな顔を見せている。
田中が働くのは、関東郊外にある中規模の物流センターだ。
主に大手スーパー向けの商品を取り扱っており、食料品や日用品が多い。
商品の出荷量は季節ごとに大きく変動するが、最近では人手不足が常態化しており、繁忙期でなくても現場は常に忙しい状態だ。
田中のようなベテランの作業員は、限られた人数で膨大な量の荷物をさばくことを求められている。
彼の視線の先では、新人作業員が慌てて荷物を運び、その後ろから責任者が指示を飛ばしている。
フォークリフトの運転手も疲れた表情を浮かべ、少し危なっかしい動きで荷物を運んでいる。
こうした光景は田中にとって日常となっていたが、最近はその重さが心身にじわじわとのしかかっていた。
現場の状況と会社の方針
このセンターを運営する会社は、全国に複数の物流拠点を持つ大手の3PL企業だ。
経営陣は「効率化」を掲げ、現場への新しい作業管理システムの導入を進めていたが、現実は異なっていた。
現場ではシステムトラブルが頻発し、むしろ混乱を招くことが多い。
それをカバーするのは現場作業員であり、限られた人数で増え続ける仕事量に対応するプレッシャーが日々重くのしかかっていた。
経営陣は数字の達成に注力する一方で、現場の声を聞こうとはしない。
このギャップが、田中たち作業員の疲弊を加速させていた。
「システムがダメなら、結局は現場がカバーしなきゃいけないんだよな…。」
田中はこうした状況にうんざりしていた。
会社の経営陣は現場を数字でしか見ていない。
「作業時間短縮」や「コスト削減」といった指標ばかりが強調され、現場で働く人間への配慮は二の次だ。
その結果、作業員一人ひとりの負担は増し、離職者も後を絶たない。
田中の友人も数年前に同じセンターを去ったが、彼は退職の理由として「限界だ」とだけ呟き、それ以上何も語らなかった。
日々の不満と不安
田中の昼休憩は、形だけのものになっていた。
本来なら1時間取れるはずの休憩時間も、現場の忙しさがそれを許さず、15分や30分しか確保できない日が続いている。
その短い時間に、田中は慌ただしくコンビニで買ったおにぎりを頬張り、ペットボトルのお茶で流し込む。
食べ終わるころには、次の作業が待っている。
「今日は少し長く取れたな。」と皮肉めいた独り言を漏らしつつも、弁当を広げてゆっくり食事をする余裕は何年も味わっていない。
ただ空腹を満たすだけの行為。
それが、田中の日常の一部となっていた。
さらに、毎日続く残業が田中の体力を削り取っていく。
月平均65時間にも及ぶ残業時間は、家族と過ごす時間を奪い去り、身体を疲弊させるだけではなく、心にもじわじわと重くのしかかる。
手取りの収入は23万円ほどだが、そのうち5万円以上は残業代だ。
もし残業がなければ、手取りは18万円にまで減ってしまう。
「残業が無くなったらどうやって生活すればいい?でも、この働き方があと何年続くんだろうな…。」
田中の心に漠然とした不安が広がる。
娘の進学費用はどうするのか。
妻との老後はどんな形になるのか。
そして、何よりも自分の身体がどこまで持ちこたえられるのか。
そうした問題が頭をよぎるたびに、田中は答えのない思考に囚われていく。
最近では、体のあちこちに痛みを感じることが増えていた。
特に腰の痛みは慢性化しており、作業中に耐え切れない時もある。
それでも、仕事を休むわけにはいかない。
田中は腰を軽く叩きながら、「これも仕事だ」と自分に言い聞かせ、再び現場へと戻る。
疲弊する田中の心情
仕事がひと段落をした夕方、田中はスチールラックの隅に腰を下ろした。
作業着の袖を軽く引っ張り、額に滲む汗を拭うと、無造作に缶コーヒーを足元に置いた。
冷たい金属の棚が背中に触れる感覚は、硬さ以上に彼の疲労を増幅させるようだった。
働き続けて疲れ果てた手足は、まるで自分のものではないかのように重く感じた。
「俺の仕事は、誰かの生活を支えている。でも、その代わりに俺の生活は削られていくばかりだ…。」
田中は小さく呟き、苦笑いを浮かべた。
その声は、倉庫の広い空間に吸い込まれるように消えていった。
手に取った缶コーヒーを一口飲む。冷たくなり始めたその苦味が、彼の疲れ切った心と身体にじわじわと染み込むようだった。
目の前には、山のように積まれた荷物が影を落としている。
その威圧的な景色をぼんやりと見つめながら、田中の頭の中には数年前の出来事が蘇ってきた。
あの時、一緒に働いていた同僚が大きな荷物の下敷きになる事故が起きた。
突然の悲鳴、駆け寄る仲間たち、そして倒れ込んだ荷物の隙間から覗くその人の顔。
その時の光景が、今でも鮮明に思い出される。
幸い命に別状はなかったが、同僚はその事故を機に退職し、二度と倉庫に戻ってくることはなかった。
「これだけ働いても、誰も俺たちのことなんて見てないよな…。」
その言葉が心に浮かぶたび、田中は自分の存在意義について考えざるを得なかった。
「自分たちが支えてるのものは、なんなのか?」
そして、その支えに見合うだけのものを、自分は得られているのだろうか。
スチールラックの冷たさがじわりと背中に伝わる中、田中は荷物の山を見上げた。
その山は、まるで彼の背負う責任や重圧の象徴のように思えた。
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