出会 2
鉄の錆びたようなにおいが鼻を突く。血のにおいだ。
夕刻で、玄関は薄暗い。玄関先に掲げられた提灯の明かりが頼りでは、男の姿は半身しか見えないが、それでも白い髪や肌が赤黒く汚れているのが分かった。
十和は尻もちをついたまま、新たにやってきた男を見上げる。
背は高い。
肩から何かがずり落ちた。
びちゃっと耳ざわりな音が立つ。柔らかくしめったものが発する音だ。
十和には何か分からなかったが、男により近い犬神は何か分かったようだった。しっぽを丸め、そそくさと御殿を退散していった。
(この方が……ひょっとして)
霊感にすぐれた十和の目が、男のうしろに隠されている五本の尾を見る。
(月白様?)
「ヌシの集まる座敷は」
「あ……あっち……です」
十和はおどおどと男の左を指した。
去っていく広い背中をぽかんと見つめていたが、やがて我に返る。
「お、おケガは? お医者様をお呼びしますか!?」
「必要ない。返り血だ」
十和はぞっとした。確かに強いらしい。
浮かせかけた腰が再び落ちたが、もう一度声をかける。
「待ってください。あ、足、拭いた方が。お召し物も、変えた方が」
相手はすなおに足を止めた。玄関からここまでつづく足跡を見ると、汚れている自分の足裏をそででぬぐった。
が、その他は放置だ。髪も着物も汚れ放題、乱れ放題のまま座敷へ行こうとする。
「お、お着物ご用意しますから! あっち、あっちに湯殿がありますから! 待って!」
十和の必死の説得は功を奏し、月白は行き先を変えた。
十和はだれかに案内させようとしたが、みんな血まみれの男を避けていた。恐れをなして遠巻きにしている。
未来の妻という肩書を意識して、十和は自分が案内をすることにした。
もうすぐ夕餉の時間だからだろう、湯殿に人はいなかった。
御殿の湯殿は広い。大人数で使えるようになっている。脱衣場も洗い場も湯船も一続きになっており、脱衣場はござ敷きで、洗い場は板敷きと区別されている。
しかし、月白はこういう湯殿を使ったことがないようだった。物めずらしそうに湯殿を見回し、着衣のまま洗い場へ足を踏み出した。十和はあわてて引き留めた。
「お召し物はこちらで脱いで。置いておいてください」
説明を受けるなり、月白はすぐに着物を脱ぎだした。細いがたくましい裸体が目に飛びこんできて、十和はすぐさま正面をそらした。
洗い場に積んである桶を渡し、中央にある水を溜めた大きな桶を指す。
「ここで体を洗ってください。湯船はあちらです。お湯が冷めないように上半分だけ壁が作ってあるので、あの下をくぐって入ってくださいね。
私、手ぬぐいとお着物を取ってまいりますので。いったん失礼します」
あらぬ方向を見やって早口に説明し、十和は湯殿を出た。
通りすがりの女中に月白が会合に遅れることの伝言を頼みつつ、自室に急ぐ。封印される前、父のために仕立てた着物が、だれにも使われないまま残っていた。
戻ったころには、月白はすっかりきれいになっていた。髪も肌も地色を取りもどし、清らかな白色になっている。
湯船に浸かる気はないらしい。すぐに十和にむかって手を伸ばしてきた。
手ぬぐいを渡すと、月白は拭きはしたが、十分とはいえなかった。替えの着物を望む腕が、髪から滴ったしずくで濡れる。
「ちゃ、ちゃんと、拭きませんと」
「拭いた」
「髪が濡れています」
「後は自然に乾く」
十和は替えの着物を自分の背後において、代わりに手ぬぐいを持った。
異性の肌にどぎまぎしながら、濡れた腕を拭く。肩口も拭いて、背伸びして頭に手を伸ばす。
月白は最初嫌がって逃げたが、十和が頑として手拭いをはなさないのを見ると、折れた。近くにあった桶を引き寄せて座る。十和は背伸びしなくても髪を拭けるようになった。
(……なんだか、濡れた子犬を拭いている気分)
年上相手に、五尾相手に失礼なことだが、十和は心の中でこっそり思った。
黒松や吉乃が『野良犬のような男』と評したのも、仕方ないかも知れない。
汚れた足で床を歩いたことを悪く思う程度の良識はあるようだが、基本的に行動が野生児だ。
「髪はちゃんと乾かさないとお風邪を召されますよ」
何の気なしに長い前髪を後ろにやって、十和は思わず言葉を失った。
髪に隠れていた顔は予想外だった。粗雑な身なりや仕草とは正反対に、端麗な顔立ちだ。
まっすぐ通った鼻筋の両側に、両目と両眉が完璧な左右対称で配置されている。
細いあご、薄い唇、細い眉。表情にとぼしい顔は作り物のようで、冷たい印象だった。こちらを見上げる金の目は刃のように鋭い。夜空に浮かぶ細い銀月のような美貌だ。
「……何か」
「いえっ、何でも」
なぜ隠しているのか。気になるが、とっつきにくい雰囲気で聞きにくい。
十和は前髪を元通りにもどした。帯に挟んであるくしを手に取り、乾いた髪をさっと梳いて整える。
「どうぞ」
ようやく、十和は替えの着物を広げた。
両袖を通ろうとする月白の腕に、青黒いあざを見つける。切り傷はないが打ち身はあったらしい。
「やっぱり少しはおケガをなさっていたのですね。手当をしないと」
「いらない」
「薬箱を――」
身をひるがえすと、腕をつかまれた。抵抗しても、びくともしないような強い力だった。
反射的に身がすくむ。十和は自分の愚かさをなじった。
妖魔は恐ろしい。特に手負いの妖魔は。昔、瀕死の妖狐に襲われかけたことが頭をよぎった。
(なんで私、一人でうかうかと近づいてしまったの?)
両手首をつかまれ、壁に押しつけられる。悲鳴が喉元にせり上がってきた。
「薬はいらない」
平和な言葉が降ってきて、十和は目をぱちくりさせた。
「この程度は放っておいてもすぐ治る。薬のにおいがつく方が困る。敵に見つかりやすくなる」
それだけいって、月白はあっさり手を放した。
十和は納得し、またすんなり着付けを再開した。
警戒は解けていない。解けていないが、この妖狐相手なら大丈夫のような気がした。
「あんなに血まみれだったのは、一体何が?」
「天遊殿の末娘というのは人気者なのか」
「……人気といえば人気です」
本人にとっては嬉しくない意味で。
「俺はそれを嫁にもらうことになったが、気に喰わなかったやつがいるらしい。ここに来る途中で妖魔をけしかけられた」
災難の元凶が自分だと知って、十和は言葉を失くした。申し訳なさで胸がいっぱいだ。
同時に、気まずい。名前を聞かれたらどうしようと案じたが、幸いにも月白は無口だった。十和が話しかけない限り口を開くことはなかった。
(妖魔を差し向けたの……黒松様かしら)
先ほど吉乃の居室で、にやにや笑いながら盃を揺らしていた黒松の姿を思い出す。
(月白様が今日の会合に来るかどうか分からないという口ぶりだったのは、そういうことだったのね)
黒松の卑怯さに腹立ちを覚えながら、十和は月白の体に帯を巻く。
「帯の締め加減、いかがですか?」
「問題ない」
「汚れたお着物はお預かりしますね。洗って、後日届けさせます」
「わかった」
真っ当な見た目になった月白は、すたすたと湯殿を出て行った。
若草色をした正絹の御召着物をまとった姿は、湯殿に入った時とは大違いだ。ヌシらしい貫禄がある。
天遊のために仕立てた着物だったはずだが、月白のためのものだったかのようによく似合っていて、十和はほれぼれと後ろ姿を見送った。
が、何を思ったか急に月白が引き返して来たので、びくついて柱にすがる。
「忘れていた」
「な、何を」
「世話になった」
ぺこりと白い頭を下げられて、十和はきょとんとした。
お礼を言うのを忘れていたので、わざわざ戻って来てくれたらしい。
「い――いえ。それより、お急ぎになられた方が」
初見の異様さとは正反対の、あまりにまともな言動に十和は気が抜けた。
月白の姿が見えなくなると、その場にへなへなと座りこむ。
(……なんかいろいろ、びっくりしたわ)
胸を押さえて、ほおっと息を吐く。
(何もなかったから良かったものの、危なかった。
なんで私、声を掛けてしまったのかしら。湯殿の案内までして、お世話までして)
十和は自分が不思議だった。
未来の夫に好奇心があったのは確かだ。だが、妖怪に対してはいつも恐怖心を持ち合わせている。あそこまで親身に世話を焼くことはしない。
月白の去っていった廊下をながめる。長い廊下にその姿はもうない。影も形も消えていた。あっけないくらいあっさりと。
(わかった。どうして警戒が薄れたか。あの方、私に全然興味がないからだわ)
たいていの妖魔は、霊力が強く人間に近い十和に関心を寄せてくる。玄関口でからんできた犬神がいい例だ。
ところが月白は十和のことを何も聞かなかった。むしろ自分の世話を焼いてくる十和のことを煩わしそうにしていた。
(……ひどくない、かも。吉乃お姉様や黒松様がおっしゃるほど)
確かに恐ろしいほど強かった。初見の血まみれ姿は強烈な印象だった。無口で不愛想で、やることなすこと優雅さとは程遠く、野良犬のたとえはしっくりした。
でも、十和は月白を嫌いだとは思わなかった。
強いが威張ったところがなくて好ましかった。血まみれ姿には恐怖を感じたが、別れてみれば記憶に残ったのは大人しく座っている姿だ。
無口で不愛想だったが、話しかければ答えてくれるだけの愛想はある。おしゃべりが過ぎる人より十和には好ましい。
親切を受けたらちゃんと礼をいう良識もある。
(ずぼらなのは少し困るけれど……でも、野性の狐上がりの野狐って、人化の術を覚えたての頃はあんなふうよね)
身なりにかまわず、人間らしい身づくろいに無頓着。
妖狐にとって人間に化けることは修行の一環なので、野狐たちは妖狐たちに叱られながら、人間らしい礼儀作法というものを身につけていく。
(ここに来る前は、妖狐の群れにいたのではなく、色々な妖魔の群れを渡り歩いていたそうだから。
あの方はきっと今まで人間らしい立ち居ふるまいを覚える機会がなかったのね)
そう考えると、吉乃のように月白の無粋さを責める気にはなれなかった。
十和はまぶたを伏せて、そっと月白の姿を思い返す。
なぜだか胸が甘くうずいた。
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