瑞穂國供養譚
秋保千代子
花を捧げよ
花と香を捧げ、灯りを点けよ。
供養とは此の様に行うのだという教えのとおり、人々は雪の合間に咲いた山茶花を摘んで、線香を燻らせて、集まってきた。老いも若きも、男も女も、貴賤さえも問わず。
昼のうちに積もった雪は踏みしだかれて、沓や草履、下駄、どれがどれだか分からない跡が乱れ並ぶ。
参道沿いは勿論、境内の至る所に賑わいを当て込んだ露店が立ち並ぶ。
水飴で顔中をべたべたにした子どもの泣き声、その顔を拭う女の溜め息。酔った者同士の罵り合い。客寄せの言葉と笑い声も響き、さらに本堂から響く読経が重なる。
今宵は宇治の社の大祭で、この地に葬られた人の五十遠忌だ。
祈りの中心は、瓦葺きの本堂。
中にはめいっぱい人が押し込まれ、見知らぬ者同士の肩と肩がぶつかる。僧侶たちが読み上げる経と、また別に唱えられる文言と、鉦の音が混ざり合って響く。
耳の奥がどくどくと煩い。頬が熱い。口の中はカラカラだ。瞬きを繰り返し、首を振る。
深く息を吸って、吐いて。
「
名を呼ばれて、はっとした。
人集りの中、姉弟で固まって動いていたところだ。葵のやや俯いた顔を覗き込んできたのは、一番上の姉。
「葵、やっぱり駄目だった?」
やっぱりって何、と返す前に。姉は眉を寄せた。
「人混みが苦手なの知ってたのに、ね」
そう。姉も自分も分かっている。
「葵ねえちゃん、だいじょうぶ?」
手を繋ぎ合った妹もおどおどと見上げてくる。苦笑いが浮かんだ。
「大丈夫だよ」
「まだ動けるってことね。じゃあ今のうちに外へ出よう」
促され、足を外に向ける。すみません、すみません、と姉弟で塊になって進んで、本堂の脇のわずかな隙間にようやく落ち着いた時には皆汗だくだった。
だから、やっぱり喉は乾ききっていて、弟と妹たちはおのおの水筒を取り出し、傾ける。額に当てられた姉の手は温い。
葵より背が低い姉の視線は下から上へと向けられている。
「来ない方が良かったかなぁ、やっぱり」
声音は年長者が労るときのそれで。
「でも」
と、葵は声を絞り出した。
「分かってて来たから、大丈夫」
今年はいつもの例大祭と違う。この地に眠り、この地の守り神となった人の魂を慰めるための日だ。
――生者が健やかに暮らしてるって知らせることも、立派な供養だからな。
そう教えてくれたのは育ての父だ。だから、弟妹たちとそろって此処に来た。
だというのに。
「分かってて来て、予想どおり駄目だったんだから、来ない方が良かったって考えるのは当然でしょ」
ピン、と姉は葵の額を指先で軽く弾く。
「先に帰りなさい」
「でも」
「でももだってもありません」
痛くはないのに苦しい、と眉を寄せる。姉は笑っている。
「具合悪いんでしょう? 無理しない」
「
視線を姉――寧々の顔より下に動かす。葵の右手は幼い妹が握りしめたままだ。寧々の左手もやはり幼子か握っていて、右側には別の子がぴったりと寄り添っている。その向こうには、背が伸びかけの少年が二人。血の繋がりはない弟妹たちをぐるりと見回して。
「心配いらないわよ。
一番年上の寧々が笑う。背が一番高い弟が仏頂面で頷いた。
「はいはい、こういう時ぐらい、ガキの面倒はちゃんとみますよ」
「小六ももうお兄ちゃんにならないとね」
「とっくにお兄ちゃんですけどぉ」
寧々、葵のすぐ下の弟は、今年で十四だ。その下に、十二、九つ、七つ、四つの弟妹たちが続く。
小六が、葵が手を繋いでいた七つの妹の手を引っ張る。
「ほら、これでいいんだろ?」
「そうそう。じゃあ、お菓子食べに行こうか!」
寧々がからりと笑う。
「あたし、綿菓子食べたい」
「オレもオレも!」
「リンゴ飴は?」
「全部! 全部欲しい!」
二人の両脇でぴょんぴょん跳ねる弟妹の顔を順に見遣って、葵は深く息を吐き出した。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
一人、踵を返す。
その、家へ帰るはずの足が向いたのは、閑散とした川岸だった。境内とうってかわって、人っ子一人いない。並ぶ桜の木々もすっかり葉を落とし、しんと佇む。
こんな処に来たのは椋丸に誘われたことにでもすればいいと言い訳を考えてから、足を止めた。
見上げれば星屑、耳を澄ませば水音。着物の袖を揺らすのは風。
今日初めて下ろした小袖は深い藍色で、その上に重ねた羽織も藍色。目の詰まった織だから風を通さなくて、温かい。
ふと自分も水筒を持っていたのだと思い出す。袖から取り出して飲んで、ほう、と息を吐き出してやっと、体の裡に籠もった熱が減っていく。
体が冷えて、思考も冴えて、やっと。
「まただ」
と呟いた。いつもいつもこうなのだ、と。
祭だろうが市だろうが、郷の集まりなど何だろうが、
「鬱陶しい」
言葉を声に乗せてから、はっとなった。袂をぎゅっと握って、視線をぐるりと巡らせる。
目を凝らしても、やはり人の姿は見えない。誰も居ない。星空を映す鏡となった川面が見えるだけだ。
宇治の一帯を結びつける川。桜並木に囲まれたこの川は、世を儚んだ姫君が身を投げるほどの急流だ。うっかり近寄り過ぎると、三途の川を渡る羽目になってしまう。
じりっと一歩下がり、葵は息を吐いた。
まだ身を投げるほど苦しくはないはずだ、と己に言い聞かせる。それに、女は初めてを捧げた男に背負われて彼岸に渡るのだと云う。葵には無理だ。
己の体が頑健でないことも、秀でた技を持たないことも、想い交わす相手がいないことも、死して尚自力で進めないかもしれぬということにも。唇を噛むことしかできない。
闇も思いも森々と沈む、不意に。
ぶん、と空気が揺れた。
風ではない、刃が宙を切り裂く音。
誰もいないはずだった川岸で、気配が葵の真横を駆け抜けていく。
「誰?」
数歩たたらを踏んで、煽られた髪を押さえながら、風が抜けた先に呼びかけると。
「僕もお伺いしたい」
後ろから――風が来たほうから聞こえた。
振り返ると、星明かりでわずかに浮かび上がる人影。括り袴を穿いて、右手に太刀を握っているらしいと知れる。その太刀が、身の丈の半分近くあることも。
「貴女は人間ですか?」
その人影の問いに、葵の目は丸くなった。
「そうよ」
首を縦に振る。すると相手が笑う気配がした。
「かしこまりました。人間なら、貴女を斬ってはいけない」
じゃり、と石を踏みしめ、太刀が構え直される。一度ぐっと腰を落として、彼は地を蹴った。
「あはははは!」
突き進む先は風が抜けた先。笑って繰り出された一撃は、甲高い音で止められる。
そこには鎧武者がいた。
――違う。
鎧武者に見えるモノだ。
ぼんやりとした輪郭なのに、夜陰で分かるはずがない色まで伝わってくる。打ち合う刃と刃の音も響く。
不気味だ。ただ、ただ不気味。だから。
「人間ではない?」
思わず零した言葉に、先ほどの人影は背を向けたままで、丁寧に応えてくれた。
「ええ、こちらは人間ではないのです」
「物の怪?」
「ご存じですか?」
槍の柄と太刀で押し合いながら、人影は続ける。
「正しくは、かつて人間だったモノ、ですが」
そのまま後ろに飛び退いた。
「死霊ということ?」
「ご明察です」
葵と軽やかに話し続ける人影と、揺らめく鎧武者の間に、ひりついた風が流れる。
そしてまた、踏まれた砂利が跳ねて音を立てる。川の水音が乱れるのは飛び込んだ砂利のせいだろう。
太刀と川面が代わる代わる星明かりを映す。
槍が突き出されれば、太刀がいなす。
太刀の斬り込みは、長い柄が許さない。
一合、二合、打ち合って。
足下を狙ってきた長い穂先の上にひらりと飛び乗って、人影はまた高笑いを上げた。
右上段から振り下ろされた太刀が兜と袖鎧の隙間に食い込んでいく。
断ち切られた、と見えたその後。首は血に落ちなかった。輪郭と色がざらりと夜風に溶けて消えていく様は人間の死とは違う。
体も残らない。
何も無くなった地面を見つめる。
河原の砂利を踏む音が近づいてくる。
物の怪と斬り合った人影だ。近くで
「お怪我は無いですか?」
葵は眉を寄せた。
「あなたこそ」
「僕は無事ですよ」
「槍を持つ相手と戦ったのに」
「一対一で怪我を負うのは余程のことですよ」
先ほどの哄笑と同じ口から出てきたとは信じがたいほど、柔らかな、人間としての温かみを感じる声。
剣の腕に自信があるのだとも受け取れる言葉。
太刀はとうに腰の鞘に収められている。
葵は溜め息を吐いた。
「やはり、お怪我が」
「ないです」
大丈夫と首を振る。
そうですか、とだけ言って、相手も黙ってしまった。
夜の河原に二人きり。風だけが鳴る。
物の怪と戦ってくれたのは、礼を言うべきなのだろうか。逡巡のうちに、また。
ざわりと空気が揺れた。
「ああ、困った。増えましたね」
困惑など微塵も混ざっていない声色。
木の陰、川の向こうから、続々と鎧武者たちが集まってくる。
「また物の怪?」
「全員、死霊でしょうね」
実体があるのかないのか分からない、槍、打ち刀、鏃。切っ先を向けられると怖い。
数は十。
「ときに、貴女は刃物を扱ったことはおありですか?」
「……あるよ」
鍬に鋤、鎌は暮らしに必要だから。だが、刀となると話が変わる。養父が時折腰に差しているのを見るくらいだ。
「戦ったことは?」
「無いから!」
葵が叫ぶのと同時に、矢がびょうと風を切った。
横から体を引っ張られた。砂利の中に倒れ込む葵の体下に、少年が身を滑り込ませる。どすん、とのしかかる。
「ご、ごめんなさい」
「お構いなく」
片腕で葵を抱いたまま、少年は跳ね起きた。右手には鞘に収められたままの太刀。ガツン、と音を立てて、振り下ろされてきた刃を受け止める。
その間を縫ってきた切っ先が頬をかすめ、チクリ、先に赤い滴が浮かぶ。
「血が」
少年に抱え込まれたまま、葵は起き上がれない。砂利に体を、新品の着物を押しつけて、彼だけが片膝立ちで物の怪と対峙しているのだ。
左手の甲でぐいと血を拭って。
「この程度」
抜き放たれたぶんと太刀が唸る。
あっけなく首が消える。人では無いと分かっていても、顔を背けた。
「物の怪は斬っていいの?」
「そのように承っています」
物の怪とは人に害をなすモノだから退治してしまえ、と云うのだろうか。
また太刀が唸り、寄ってきていた一体の胴を薙ぐ。十が八に減り、哄笑が響く。
葵の腹の底が震えたように。物の怪たちも怖じ気づいたのだろうか。じりじりと囲う輪が緩くなる。
少年が立ち上がる。葵は動けない。
足音と一閃の後、手前にいた兜が消し飛ぶ。破れかぶれの一薙ぎをひらり躱して、少年は長刀の懐へ飛び込んでいき、葵からは鎧の隙間を通った刃の先だけが見えた。
「残り半分……」
少年が笑うと、鎧武者たちが構え直す。
キンと冴えた空気がさらに冷たくなる。誰も何も動けず、呼吸も凍る。
それを緩やかに溶かしたのは、やはり砂利を踏む音で。川上からやってきた灯りだ。
灯りの正体は松明。まだ遠くても悠々と赤い炎は目を惹く。
「そこに居るのは誰だ」
瞬いて、その声の主を見遣る。
「
名乗った少年は、さらに言葉を継いだ。
「お声から、白書院様だとお見受けしました」
「そのとおりだ」
川岸の傾斜を一歩一歩踏みしめて降りてきたのは、これまた若い男だった。高価な松明が握れるほどの身分の貴公子。
風に煽られて揺れる袖は大きく、炎に照らされた
「此処で何をしている、阿頼耶」
声は冷たい。
「物の怪退治です」
阿頼耶と名乗った少年は視線と太刀の先を、貴公子とは別の方へと向ける。その先の鎧武者たちがまた構え直す。
「戦の名残か」
はぁ、と貴公子が溜め息を吐く。
「もう十年も前だろうに」
「十年?」
「この辺りに出るなら七年か? はたまた五十年以上前か」
松明を掲げたまま、貴公子は歩み寄ってくる。
ずい、と松明を差し出され、葵は慌てて握った。
「斬るより早い」
そのまま裾をからげ、貴公子は大樹の元へ。
右手が幹に触れた。その部分から、炎とも星明かりとも違う光が広がる。
ついで、花嵐。
薄紅の花びらが仄かな香りとともに踊るのは、真冬の今に見える光景ではないはずだ。
だけど、と頬に張り付いたひとつを摘まんで、目を見張る。
花びらに埋もれ、鎧武者の形が無くなっていく。
「この方が早い」
「かんなぎの力の方が、ですか」
かんなぎは、物の怪に立ち向かえる力を持つ。
焔を起こしたり、雷を起こしたり、はたまた、
――花を咲かせる人もいる。
少年はぶすっと頬を膨らませて、太刀を収めた。
「斬りたかったといわんばかりの顔だな」
「それを承ってますから」
「伯父上の命か…… それしか無いのか、おまえは」
溜め息とともに。
「それで?」
と貴公子は葵も向いた。
「娘、おまえはなんだ」
松明は取り上げられて、葵は瞬いた。
「言え」
松明が改めて、貴公子の姿を写す。瀟洒な衣装だ。織の細かさが違う。冠は被っておらず、髪が夜風に揺れる。
その鋭い視線を真っ向から浴びながら、言葉を絞り出す。
「偶々、ここで会っただけです」
「会った? 彼奴と?」
くるりと松明が向けられて、少年が目を細めた。
袖が短い上着に括り袴。やはり腰の太刀が目立つ。
「そうだった―― もう一度聞くぞ。此処で何をしている、阿頼耶」
「物の怪退治です。見つけてしまったら斬るしかないですから」
「俺が聞きたいのは、何故、物の怪退治をしていたかではないんだが」
「何をお聞きになりたいのですか?」
きょとんとした顔は幼い。貴公子の溜め息は低く、大きい。
「伯父上の命で東海道に行っていたんじゃなかったのか」
「つい三日ほど前に洛中に戻りました」
「ここは洛外だ」
「そうでしたか?」
何の会話なのか、と瞬く。二人は何者なのかも分からない。だが、少年のいぶかしげな声に貴公子が応える気配はなくて、葵はまた問いかけることもできない。
ごお、と風が吹く。冴え凍る。
「寒いな」
「ええ」
やっと続いた会話はこれ。ぱち、と松明が爆ぜた。
「妙な予感がしたから来ただけだ。それが物の怪だったというのなら、俺はもう戻る」
沓で小石を蹴って。
「おまえも体を冷やす前にさっさと
「承知いたしました」
少年がぺこりと頭を下げる。
「おまえは?」
今一度視線を向けられて、葵は瞬いた。
「……家へ」
「地元の者か」
「そうです」
この河原は馴染んだ処だ。だが、どうにも妙なことになったと思う。果たして、これ以上何事もなく帰れるのか。
ヒリとした感触。見上げれば、この郷で
視線が交わり、ふむ、と空いた手で顎を擦ってから。すこし待てと、狩衣の青年は息を吐いた。
見回して。パキリ、と傍の木の枝を折った。そこに、ふう、と息を吹きかける。
白く凍えたかのように見えた次の瞬間には、その枝には薄紅の花が綻んでいた。
それを、ずい、と突き出される。
「持って行け」
貴人はうっすら笑っていた。
「これが咲いている間は物の怪も魑魅魍魎の類も寄ってこない」
二つ瞬いて、手を伸ばす。
「ありがとうございます」
受け取った枝はさして重くなかった。だけど、胸の前で、両手で握る。
しっしっと手を振られ、葵は彼らに背を向けた。小石を蹴って、
この薄紅の花はあの鎧武者たちへの手向けだろうかと気づいた頃、東の空にようやく半月。
河原から家への一本道に変わりはない。
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