第10話

第10章:夜を裂く吐息


外はまだ雨が降り続いていた。

水滴が窓を伝い、街灯の光がにじんでいる。

静香の頬に触れた椎名の指先は、まるで時が止まったかのように動かなかった。


触れたはずなのに、それ以上がない。

静香は目を伏せて、椎名の指が頬を滑らせるのを待っていた。


もっと触れてほしい。


心の中でそう願いながらも、言葉にはしなかった。

彼女の中で、触れたいという思いと触れられることへの怖さが、奇妙に交錯していた。


「……これで満足ですか?」

椎名の声が静香の耳元で低く響く。


静香は微かに笑い、椎名の手をそっと掴んだ。

「いいえ。まだ足りないわ。」


椎名は静香の手を引き、指先を滑らせるように彼女の髪を撫でた。

それはまるで、触れることで静香の内側に潜む不安をほどいていくような感触だった。


「どうして触れなかったんですか?」


静香が問いかけると、椎名はわずかに間を置いた。

「……触れたら、あなたを止められなくなると思ったからです。」


静香はその言葉を噛み締めるように唇を噛んだ。

触れられないことが二人の間に緊張を生み、触れた瞬間の重さを際立たせていた。


「今は?」

静香が顔を上げ、椎名の視線をじっと捉える。


椎名は答えなかった。ただ、静香の髪をもう一度ゆっくりとかき上げる。

触れられた部分が熱を帯び、頬が紅潮するのを静香は感じた。


「……やっぱり、意地悪ね。」

静香がつぶやくと、椎名は微笑んだ。


「触れたくなかったわけじゃない。」


椎名の指が静香の顎をそっと持ち上げる。

静香はその動きに身を委ねるように目を閉じた。


唇が触れ合う直前で、椎名は止まった。

わずかな距離を残したまま、椎名はその場で動きを止める。


「……どうして?」

静香が息を詰まらせながら呟く。


「焦らすつもりはないんです。」椎名は静香の耳元に囁く。

「でも、これ以上はあなた次第です。」


静香は唇を噛んだまま、椎名の胸にそっと手を伸ばした。

シャツの布越しに彼の鼓動が伝わってくる。


「あなたが止めてくれないなら、私から行くわ。」


静香の指先が椎名の胸をなぞり、そのまま背中へと回る。

距離が一気に縮まり、二人の吐息が混ざり合う。


静香が椎名の唇に触れる。

その瞬間、時間が溶けるように消えていった。


唇を重ねたまま、椎名は静香の背中に手を回し、彼女を引き寄せた。

触れない関係が続いたからこそ、この瞬間の重みが二人を包む。


触れ合うことで得られる解放感。

それが二人の間にあった壁を、ゆっくりと溶かしていくのがわかった。


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