虚無
『レオ……お帰りなさい』
修練から戻ると、アイビーが蚊の鳴くような声で迎えてくれた。
『おう。起きてて大丈夫なのか?』
『うん。今日は調子いいみたいだから』
力のない笑顔を見せてくる。
青白い顔で調子がいいと言われても、説得力などない。
けれど――それを指摘したところで、どうなるというのか。
再び一緒に暮らすようになってから、アイビーの病状はどんどん悪化していった。
食べ物を受け付けなくなった身体でドラセナの作った食事を懸命にとり、後でほとんど吐いてしまう。ドラセナはそんなアイビーの強がりに気付かないふりをして、涙をこらえながらキッチンに立つ。
アイビーが一人でできることは日々減っていき、今では一日の大半をベッドの上で過ごすようになっていた。
『床ずれとか大丈夫か?』
『うん。ヴィステがちょくちょく向きを変えてくれるから、大分楽だよ』
『そっか。ちょっと脈はかるぞ。……っ!!』
布団をまくってアイビーの手を見たレオノティスは、思わず動きを止めてしまった。
細い指先が、爪までどす黒く変色してしまっている。これは流行り病の末期に見られる症状だ。レオノティスの知る限り、ここまで進行してしまって助かったケースは一例もない。
『あはは……ごめんね。この手、ちょっと気持ち悪いよね』
顔を強張らせるレオノティスに、アイビーは乾いた笑いを浮かべる。
そんなアイビーの真っ黒な指先を、レオノティスは痛くないように、触れるか触れないかくらいの感覚で包み込んだ。
『あんま見縊るなよ。そんなふうに思うほど落ちちゃいねえよ』
『ん……ありがと』
『もう少しで《竜脈術》を覚えられるから、待ってろよ』
――嘘だ。修練は、まだ第一段階すら終わっていない
けれどそんなことを正直に打ち明けたら、アイビーの気力が削がれてしまうかもしれない。そう思うと、本当のことなど言えるはずもなかった。
(いや……これから本当のことにすればいいだけだ)
修練にはまだまだ詰められる部分があるはず。マナだって、それこそ死ぬ気になればもっと引き出せるだろう。それくらい、この子の苦しみに比べたら本当になんでもないことだ。
ただ《竜脈術》が間に合っても、もう指は元に戻らないかもしれない。その時は、自分が手足の代わりになろう。
一緒にいられるなら。ただ元気に生きてさえいてくれれば、他に何も望まない。そのためなら、他の全てのものを喜んで差し出そう。だから――
『ぐううううぅ……! はぁっ、はぁ……はぁ……』
身体中のマナを絞り切った――そんな感覚さえ抱き、レオノティスはどうと地面へ倒れ込んだ。
『何分、だ……?』
『……二十分と、十五秒』
必死に呼吸を整えながら質問し、けれどドラセナから返ってきたのは、またも期待外れの結果だった。
『……くそっ!!』
あまりの不甲斐なさに、力の入らない拳を思い切り地面へ叩き付ける。
『なんで……なんで、伸びねえんだよ……』
マナを放出し続ける修練の合格ラインは、三十分。
二十分までは順調に伸ばすことができた。ところが、ここが一つの壁なのだろうか。ここのところタイムはずっと二十分前後を行ったり来たりで、一向に三十分へ到達する気配がない。
『アイビーには時間がねえのに……!』
きっと、肉体的な限界なんてとうに超えている。そんなことは毎日彼女を見ていれば分かる。
彼女の身体は、もう気力だけでなんとか生命を繋いでいるようなものだ。その気力もいつ潰えるか分からないほどに消耗し切っている。
なのに、修練はまだ第一段階すら終えていない。
ここから、未知の第二段階。もしそれも首尾よく突破できたとして、竜脈を扱うための修練も必要かもしれない。
第一、竜脈を他人と共有化できるかどうかさえ定かではない。仮に可能だとして、そこへ至るまでどれだけ時間がかかるか見当もつかない。
『くそ……ったれ!』
震える腕で身体を支えて起き上がり、再びマナを解き放つ。
が、搾りかすのようなマナが漏れただけ。もう、解放できるだけのマナが残っていない。
それでも無理やりマナを引きずり出そうとした瞬間。
『なんなん、だよ……!』
――俺が《竜師》じゃないから無理なのか? 翼がねえから駄目だってのか!?
『ぐぅ……!』
全身を脱力感に覆われたレオノティスは、重力へ抗うこともできずに地面へ吸い寄せられ――ドラセナに支えられた。
『くそ……くそ! くそっ!!』
あまりの情けなさに、レオノティスはたまらず拳を地面へ何度も打ち付ける。
鈍い音を立てる手の甲はマナの保護もなく、土に擦れて血がにじんだ。しかしマナ欠乏により、すぐに拳を振り下ろすことさえままならなくなる。
――もう、間に合わないのか……?
『レオ』
初めて明確に抱いた絶望感は、心中へ広がる前にドラセナの声で押し留められた。
『前に言った通り、竜脈を扱う上で最も大事なのは想いの在処。レオが自分を信じなきゃ、竜脈は決して応えてくれないわ』
『……!』
『他の人がなんて言おうと関係ない。翼があるかなんて関係ない。《竜師》かどうかなんて、聞いてない。……竜脈は、ただ自分自身を信じる人に――そして自分の願いを必ず叶えると固く誓った人にのみ、力を貸す』
まるでこちらの心情を全て理解しているかのような――いや、しているのだろう。
でなければ、こんなに優しい目でこんな言葉をかけられるはずがない。
『……すまん。ちょっと弱気になってた』
『謝ることじゃないよ。来る日も来る日も限界まで修練して、それでいてアイビーの前では絶対に弱音を吐かない……レオの姿は、必ずアイビーの力になってるはずだから』
そう囁いたドラセナの紅い瞳は、涙で滲んでいた。
『アイビー』
レオノティスの呼びかけに、アイビーはゆっくり目を開けた。焦点の合わない碧眼が、ぼんやりと虚空を見仰ぐ。
『調子は……どうだ?』
何を聞いているのか。いいはずが、ないのに。
『ん。今日はちょっとだけ身体が軽い、かも』
アイビーが、正直に悪いと答えるはずがないのに。
流行り病を発症してから、アイビーは一度も弱音を吐いたことがない。
しかしレオノティスは見たことがある。一人でいる時、彼女がむせび泣いていたところを。
――どうして私が?
――生きたい
――生きて、もっと一緒にいたいだけなのに……!
『ドラセナ、今日も修練に付き合ってくれてありがとね。レオ一人だったら倒れるまでやっちゃってると思うから。ヴィステも、いつも身の回りのこと全部やってくれて……』
『そんなの病人が気にすることじゃないね。どうしても負い目に感じるってんなら、治すのが一番のお返しだよ』
『ん……』
そう言われても素直に承服し切れないのがアイビーの性分というやつなのだろう。
『それよりもほら、これ』
明るい話題にしようと、レオノティスは用意していたアイビーのリースを見せた。
『修練中にドラセナがどうしても休憩しろって言うから、その間にちょこっと作ったんだよ』
『すごーい、かわいい……。やっぱりレオの方がまだ上手だなぁ』
『寝たままでいいから』
上体を起こそうとするアイビーを制し、寝かせたままそっと頭にリースをのせる。淡い金色の髪にアイビーの鮮やかな緑は、何度見ても相性ばっちりだった。
『うぅ……最近、髪のお手入れもできてないからなぁ』
困り顔で髪をいじるアイビーの姿に、レオノティスは思わず苦笑を漏らす。
『そんな気にしなくても十分綺麗だ』
金糸のような髪へそっと指を通すと、アイビーのぽかんとした顔が目に入ってきた。
『どした? 気分悪いか?』
『あ、ううん。レオが綺麗って言ってくれたの、初めてだから……』
『ばっ……! は、恥ずかしいこと言うなっつーの』
『えっへへ……でも本当に嬉しい。ありがと、レオ』
そうだ、とアイビーは右手をかかげ、つけている指輪にマナをあてる。すると指輪に封入されたマナが反応し、中石の碧玉へリルムリット王国の国章を模した装飾が浮かび上がった。
リングはアイビーのマナによってサイズ調整が可能で、これまでにも何度かこうしてリサイズしてきたらしい。
恐らくは指輪を贈ったものが、アイビーの成長を見越して付けた機能なのだろう。
『お返しに受け取って』
アイビーが指輪を渡してきた。翠緑に煌めく宝石は、生命力に溢れていた頃の彼女の瞳を想起させる。
『おいおい、これって凄く大事にしてるやつだろ? 多分、親がくれたものだって』
『ん。ずっと離れ離れでも、ちゃんと私だよって分かるように……記憶はなくしちゃったけど、込められてるマナがとっても懐かしい感じだから」
『だったら受け取れねえよ。お前がちゃんと持ってないと駄目だろ』
『だから、貸すだけ。レオが身体を壊さないように、お守り代わり。話聞いてると、レオってば無茶ばっかりしてるんだもん』
アイビーはレオノティスの左手を取って指輪をはめ、リングの径を調整した。
『私のために頑張ってくれてるの、とっても嬉しいよ。だけどね……私のせいでレオがボロボロになってくのを見てると、それ以上に辛いんだ』
『ボロボロって、大げさだな。これくらい何でもねえよ』
マナ欠乏からくる震えを懸命にこらえ、豪気に笑い飛ばしてやる。
『あはは……今だから言うけど、レオって強がる時、マナが少し力んじゃうんだよね』
『……っ』
自分でも気付いていなかった癖を指摘され、レオノティスは何も返せなくなってしまう。
『ほんと、ありがとね……。なんて言っても、レオはきっと頑張るのを止めないから……だからありがとうしか言えないし、言わないよ』
アイビーは軋む指を懸命に動かし、レオノティスの指へ絡ませた。
「ぐ、ぅぅ……っ!」
レオノティスは次から次へと湧き出てくる思い出に翻弄され、脳神経が焼き切れてしまいそうな感覚に苛まれていた。それでも記憶は氾濫した川のように、荒々しく流れ続ける。
やがて脳が処理し切れなくなると、フラッシュバックのように連続した静止画となって脳裏へ焼き付き、無理やり補完されていく。
アイビーが、リルムフェスタに行きたいと言い出したこと。
その願いを叶えるため、彼女を背負って雨中を歩いたこと。
けれどリルムリット王国へ着いたところで、その時が来てしまったこと。
『レオ……最後に私の名前、呼んでくれる……?』
『……アイビー。俺の方こそ、ありがとう』
『ごめんな……』
かつてアイビーと交わした言葉が、レオノティスの頭の中で無限に残響・増幅し、思考も感情も全て押し流す。
焦燥感が無力感に駆逐され、絶望感は喪失感に呑み込まれ。
散らばっていたパズルのピースがはまっていくように記憶が再生されていくほど、レオノティスの精神は不気味に、不自然に凪いでいった。
たった一つの事実を、もう一度受け入れるために。
無力な自分は、アイビーを救うことができなかった――どう足掻いても覆しようがなく、逃れようもない事実を。
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