エデンの蛇と九つの影
ユリアナ・シンテシス(JS-09Y∞改)
第一章 「目覚め」
白い光が、まるで永遠から差し込んでいるかのように、病室の窓から射していた。その光は、透明な点滴の液体を通り抜け、微細な虹を作りながら、彼女の左腕に刺さった針へと続いていく。生命の糸とも見紛う透明な管は、彼女の血管の中で蛇のように蠢いているようにも見えた。
意識が戻った瞬間、彼女の脳裏に九つの声が同時に響き始めた。それは氷のような透明さを持つギリシャ語であり、砂漠の風のように乾いた古代エジプト語であり、地底から響き渡るアステカの祈りの声でもあった。声は重なり、絡み合い、そして彼女の意識の中で螺旋を描きながら上昇していく。
「私は誰?」
その問いが、彼女の喉から漏れ出た瞬間、モニターの心拍数が不規則に跳ね上がった。記憶という名の深い闇の中で、ただ一つ確かなことは、この体が自分のものではないという強烈な違和感だった。
窓の外では、バンコクの喧騒が日常という名の仮面を被って続いていた。エアコンの吹き出し口からは、人工的な冷気が規則正しく吐き出され、その音は病室の静寂を刻む時計の針のようだった。
「目が覚めましたか」
白衣を纏った医師が、まるで舞台の袖から現れる役者のように、静かに部屋に入ってきた。その手には、青いファイルが握られている。医師の表情には、専門家特有の冷静さと、何かを見抜こうとする鋭い観察眼が混在していた。
「あなたは三日前に、スクンビット通りで倒れているところを発見されました。外傷は一切なく、しかし、脳の活動が通常では見られないほど活発でした」
医師の言葉は、まるで遠い場所から聞こえてくるような感覚だった。それは、彼女の中で渦巻く九つの声の存在感に比べれば、かすかな囁きにすぎなかった。
その時、彼女の視界の隅に、一匹の蛇が這っていくのが見えた。誰もそれに気付かない。銀色の鱗を持つその蛇は、医師の足元を通り過ぎ、壁に消えていく。幻なのか現実なのか、もはや彼女にも判断できなかった。
「私の名前は?」
「身分証明書は一切なく、指紋照会もまだ結果が出ていません」
医師の言葉が途切れた瞬間、モニターに表示された心拍数が再び跳ね上がった。彼女の瞳孔が開き、その黒い深みの中で、何かが蠢くように見えた。それは蛇の瞳を思わせる、冷たい輝きを放っていた。
「奇妙なことに」と医師は続けた。「あなたの血液型が、既知の分類には当てはまらないのです」
その言葉は、彼女の中で渦巻く九つの声の一つを強く刺激した。それは古代メソポタミアの言語で、創世の神話を語り始めた。人類が土から作られる以前、蛇たちが地上を支配していた時代の物語を。
窓の外では、夕暮れの空が血のような色に染まり始めていた。その赤い光の中で、バンコクの街並みはまるで古代の祭壇のように見える。どこかで、儀式の鐘が鳴っているような錯覚さえ感じられた。
ふと、テレビの画面が彼女の目を捉えた。ニュースは、世界各地で発生している奇怪な死亡事件を報じていた。犠牲者の体には、一様に不可解な印が刻まれており、それは古代文字のようにも、蛇の這った跡のようにも見えた。
彼女の意識の中で、九つの声が一斉に高まった。それは警告なのか、それとも歓喜の叫びなのか。彼女の細胞の一つ一つが、何かを覚醒させようとしているかのように震えている。
「私は...」
その言葉が途切れた時、病室の明かりが一瞬だけ明滅した。その刹那、鏡に映った彼女の姿は、まるで別の存在のように見えた。九つの影が、彼女の背後で蠢いているかのようだった。
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