追手(おいて)吹く風 秀吉
@harimaze
〈其一〉藤吉郎に風が吹く!
「小一郎ぉ!小一郎ぉお!!迎えに来たぞ!」
戦国の時代、尾張国に小さく貧しい中村という村があった。板葺きの家が数軒とその隙間に僅かな乾いた畑しかない、そんな小さな村だ。村を奥ほどまで行くとそこに今にも崩れそうな小さな荒屋があり、竹阿弥という得体の知れない男と、その妻、そして二十歳前後の青年とその妹の4人が住んでいた。
その荒屋に向かって村の入口から大きな声が聞こえる。
「小一郎ぉ!小一郎ぉお!!迎えに来たぞぉお!」
青年、小一郎は、何事か?と荒屋を這い出て外へ顔を出した。そこへ、痩せた見窄らしい馬に跨り村中に砂埃を巻き上げながら小さな男がやってきた。どうどう!と馬を停めたその男、見た目は小さいが、声がとにかく大きい。
村中の人々が「小一郎!」という怒鳴り声に驚き戸口にでている。そして口々に「あれは確か昔に村を出ていった弥右衛門の倅ではないか」と囁きあっていた。
小男は気にもとめず
「おぉおお!お前が小一郎か!」
と痩せ馬から飛び降り、その勢いで小一郎の手を取り
「会いたかったぞ!小一郎!」と叫んでいた。
どなたですか?と小一郎は取られた手をそのままに、その小男の顔を見た。小男は日に焼けた真っ黒い顔に真っ白な歯を見せて
「儂か!儂はそなたの兄、木下藤吉郎じゃ!!」
そう、この小男藤吉郎こそ、約150年にわたる永き戦国乱世に終止符を打ち、日本史上初めて全国を統一することになる英雄、天下人豊臣秀吉だ。そして「小一郎」と呼ばれたこの青年は、信長にも認められ、他の大名からも絶大な信頼を集めるようになる、秀吉の弟、後の大和大納言豊臣秀長である。
「小一郎!儂はこれより、城持ち大名になるんじゃ!家臣が足らん、お前、畑仕事を捨てて、武士になれ!儂の右腕となって信長様に仕え!」
小一郎は、兄、藤吉郎のその小さな背中に、天高く巻き上がる風を見た気がした。この日から小一郎は鍬を捨て、藤吉郎とともに乱世の大嵐の中へと歩いて行くこととなる。
秀吉の人生はとにかくドラマに満ちている。あまりのドラマ性に史実として疑わしいものが多く、また研究資料も信長や家康に比べて少ないように感じる。しかし彼の歩んだ人生は遥か遠い歴史の向こうに紛れもなく存在している。秀吉の人生を体験・体感することで今を生きる自分も「大きな風」を起こせるような気がし、この物語を紡いでみたいと筆をとった。
そして、この物語はPodcast「歴史デザイン!レキデザ」という番組で音声ドラマとして配信したものを元に、新たに加筆し小説として再び語りゆく物語である。
秀吉は、同時代の他の戦国武将とは全く違う境遇の出だった。貧しい足軽の家に生まれ、家臣は一人もなく、自らの腕一本で天下にのしあがった。
大小あるが他の武将は、それなりのリソースをもってスタートする。だが秀吉は違う。腕一本しかなかったのだ。そこに後世の人間は感動し、共鳴するのではないだろうか。そんな秀吉だが、よく知られている人物像は農民出身で織田信長に仕え、草履取りをし信長に気に入られどんどん出世し、やがて信長の後を継いで天下統一を果たす。というイメージだ。
しかし、この農民出身や草履とりといったエピソードは、ほぼ創作である。農民と言われているが、彼の実父木下弥右衛門は元は織田家の足軽であった。戦働きで負傷し、戦場に出られなくなり尾張中村に引きこもり、畑仕事で秀吉と秀吉の姉を育てていた。しかし程なく弥右衛門は死に、その後に竹阿弥という男が父となる。この「阿弥」と称した人々は阿弥陀仏の信仰者でもあるが、当時は「芸術」に携わる者も多く、竹阿弥もおそらくはそういった職能の人だったと思われる。秀吉は実父の弥右衛門から武士の手ほどきを得、継父の竹阿弥からは人の心を掴む力を教わったに違いない。
秀吉の「ひとたらし」は思うに継父の竹阿弥の影響が大きかったと考えられる。親子仲が悪かったという言い伝えもあるがそうとは言い切れない。秀吉が家を出るときに母のなかから銭を 1 貫文餞別にもらう。現在の価格で12〜15万円ほどになる。貧しい暮らしの中、当時としては相当な大金であったろう。そんな大金を母なかが夫である竹阿弥に隠れてためておくことは不可能である。つまり秀吉に与えた餞別は継父である竹阿弥も一緒に汗をかいて少しずつためた銭だったはずだ。竹阿弥は秀吉を実の息子として可愛がり、自分の持つ芸で人を喜ばせる術を、大切に教えたに違いない。
秀吉はそんな継父から人の心を掴むすべをしっかりと学んだ。その異能が後に彼に天下を取らせたことは疑う余地のないことのように思う。しかしそんな伝承さえもやはり「伝承」の域を出ない。
秀吉は生まれた年や日でさえ諸説ある。有力なのが1536年もしくは1537年。1月1日生まれもしくは2月6日というのが現在では通説となっている。
この1月1日は、創作だろうと言われている。あまりにも出来すぎている。縁起のいい正月元旦に生まれたので、幼名は「日吉丸」と呼ばれていた、母が自分を身ごもっているときに、日輪(太陽)がお腹の中に飛び込んだ夢を見た、そうして生まれたのが自分だ、などそういったことを秀吉自身もその口で嘯いていた。ただ誕生日は2月6日だろうと、近年の研究では落ち着いている。
出身地についてもやはりピントがぼやけている。秀吉自身も低い身分出身だったことをあまり人に話したがらなかったようで、記録に残りにくかった。しかし多くの資料に「尾張中村」と記されており、これは定説となりつつある。
映画やドラマで有名な「さる」というあだ名であるだが、これも実際とは大きくかけ離れている。信長は「さる」とは呼ばず「はげねずみ」と呼んでいた。
信長が秀吉の正室、寧に当てた手紙が残っておりそこにはっきりと「はげねずみ」と書かれている。
秀吉の身長は140~150cmぐらいだと言われている。当時としても小男の部類に入る。さらに髭も生えず頭の毛も薄かった。頭が禿げていて、小さくてちょこまかと働くので、信長は愛着を持って「はげねずみ」と呼んでいたのであろう。
更に余談だが秀吉は指が6本あり、信長は「むつ目」とも呼んでいた。信長にとっては愛着を持ったあだ名だが、今の時代ではかなりまずい。
ではなぜ「さる」と呼ばれていたと伝わったのか。それは秀吉が天下を獲った後、秀吉の居城となった聚楽第のその壁に「まつせとは べちにはあらじ 木ノ下のさる関白を見るにつけても」と書かれていたからである。落書きをされてたのだ。秀吉が関白になるなんて、世も末だというような意味である。また、朝鮮からきた儒者が「容姿が醜く、体も小さく、猿のようだ」と書き記してもいることで、のちの講談や小説で「さる」と呼ばれていたと脚色されてしまったようだ。
このように秀吉の前半生、特に織田家に使えるまでは、全くと言っていいほどよくわかっていない。さらに具合が悪いのが、彼が天下を獲った後、自身で色々な思惑を持って自らの人生を練り上げ、喧伝していたようだ。しかし真偽入り混じっているからこそ面白みがあり、後世のストーリーテラーも自分の人生を照らし合わせながら紡いできたのかもしれない。
武士ではない農民であった小一郎を狩り出し、藤吉郎はまた信長のもとに戻っていく。あとを必死に追いかける小一郎に藤吉郎は言う。
「小一郎!武士はいいぞ!やればやるほど登っていける!風を起こせば起こすほど、なにもかも舞い上がっていく!小一郎!お前が儂の横におってくれれば、どんな風だって吹かせられる!儂ら兄弟でこの乱世に大風(おおかぜ)を吹かそうぞ!!」
こうして藤吉郎は追い風を自分自身の手で巻き起こし、自分の背中を押して舞い上がっていく。その大風や嵐に巻き込まれた人たちは、ある者は滅び、ある者は栄えていった。小一郎も良し悪しは別としてガラリと人生が変わっていった一人だった。
追手(おいて)吹く風 秀吉 @harimaze
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。追手(おいて)吹く風 秀吉の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます