月の溶けるように
本棚に飾った写真には、月が小さく浮かぶだけだった。
気が付いた時にはもうそうだった。そこに何が写っていたのかすら、あまり覚えていなかった。
あんなに体重を戻すのに苦労したのに、今は少し食べれば太るようになってしまった。綺麗と褒められた手が自慢だったけど、皺が増えてもう見せられるものじゃない。
集中力とか、判断力とか、脳に関する能力のピークはだいたい今くらいらしい。
記憶力だけはどんどん落ちていくらしく、覚えることは元々苦手だったのに、さらに思い出すことができなくなっていった。
何となく生きてきた。流されるままに。たまに「三十歳くらいで死ぬと漠然と思っていた」とかいう書き出しがあったりする。理解はできても共感はできなかった。ずっと、死ぬなら今だと思っていた。
いつの間にか楽しいことも過ぎて、いつの間にか心配していたことも乗越えて、いつの間にか大切な人のことも忘れた。
月を探しながら生きていた。今も。仕事からの帰り道。ビルの隙間に月を探していた。
人類は、最近また月へ行った。二十年前と比べると、随分夜は明るくなった。月は、溶けてしまったんだろうか。
つついて潰すとぷちゅりと音がする。とろりと中身が漏れ出でて、ふわりと周りを巻き込んで、まるで包み込むように広がっていく。するすると混ぜるとだんだん概形を失い、気がつくとどこにあったかも分からなくなった。
黒ずんでいた海も少し青くなって、星の光を背負った
「――みたいだね。いっぱいいて、ちょっと怖い」
あの頃と何も変わらない。艶のある黒く長い髪は、不本意だったらしい。
「海月にもなったよ」
「うん」
「脳はないからね。考えることはできなかったけど。いま思い出した。気のせいかも」
「そっか」
「泣いてる?」
「いや、違うよ。少し、眩しくて」
「そっか」
彼女は何故か嬉しそうだった。白痴みたいに涙を流す僕は、自分でもどうして泣いているのか分からなかった。
「言ったら怒るかな」
「怒んないよ」
「ほんとに?」
「私が君に怒ったことあった?」
敵わないなと思った。
「君のこと、今まで忘れてた」
「忘れてたんじゃないよ」
「でも」
「ううん。私は、君だもん」
そっか。忘れてた。そうだった。君は僕だった。
「今度こそさ。一緒にいく?」
彼女が海月を眺めながらそう言う。いや、見ていたのは、水面に反射した僕だったかもしれない。
「やめとくよ」
「そう」
「僕はまだ、死ぬ理由を見つけられてない。あのとき、君に誘われて、嬉しかった。意味を作ってくれた気がした。僕を、救ってくれた気がした」
「うん」
「でもそれじゃあ、僕はいつまで経っても君になれないと思ったんだ」
「私に?」
驚いたようにしてこちらを向く。真ん丸な目が太陽みたいだった。
ちょっと歩こうか、と言って、僕たちはいつの間にかどこまでも続く水槽の隣をゆっくりと歩いていた。
「探し物があるんだ」
「私じゃなくて?」
「馬鹿言え」
大きなジンベエザメが優雅に泳いでいる。小判鮫を引っ付けて。まるで道を作るみたいに。
「それを見つけなくちゃならない。過去は思い出せないし、記憶は曖昧だし、後悔は意味をなさない。どれだけ科学が発達しても、未来は分からない」
「そうだね」
「僕はずっと今を生きてる。死にたいとか、死にたくないとか、関係ない。生きてるっていう事実は揺らがないから」
さっきまで楽しそうに泳いでいた魚と同じ種類の魚が、今度は餌として与えられて、息をつく暇もなく飲まれた。
大きな魚が横切って、海月が流されている。
「いま、君と一緒にいられることが僕は幸せだ。明日は不安だし、昨日が名残惜しいけれど。君はいつか、きっとすぐにいなくなってしまうけど」
「ごめんね」
僕は小さく首を振った。彼女が笑って、片方だけのえくぼが見えた。
「僕は今もこうして君と話しながら、探してる。いつ見つかるかなんて分からない。それは数十年後かもしれないし、明日かもしれないし、二秒後かもしれない」
「明後日かも」
「見つけるのはどう取っても未来だから、どうなるかなんて分からないし、考えることは無駄だ。考えてしまうことはあるし、どうしても捕われる時がある」
「うん」
「きっとみんな、同じなんだ」
人のごった返す交差点で信号を待った。まるで群れの一匹だった。
「君は、何を探してるの?」
「なんだろう。何を探しているんだろう。ずっと、君を探してるんだと思ってた」
「違うの?」
「なんだか、ぼんやりとした、何か。なんだっけ」
空を見上げる。星は見えなかった。明るすぎたんだ。
「月光」
喉をつくようにして言葉が漏れた。
月だ。
月?
そう、僕は、月を探している。
月光でできた道を、いつか辿って、それから。
その先のことは、よく分からない。
そっか。
月光、か。
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