月光

天野和希

遺書

 死ぬと決めたら、少し楽になるんだと思った。

 始めてみれば案外想像していた苦はなくて、考える間もなく進んで、気が付いたら終わっているのが常だった。それと同じで、一度死ぬと決めてみれば、失敗して生きるにしろ、成功して死ぬにしろ、想像よりもずっと早くあっという間に終わるだろうと、そう思った。

 いつも通りバイトを終えて、店を締め、友人と「忙しかったね」と言い合いながら閑散とした銀座の夜を歩いた。

 新宿や渋谷とは違って酔った阿呆は見られず、慎ましく冷たい夜だった。

 それぞれの帰路について、最終よりも二本早い電車を待つホームに人は僕しかいなかった。

 ここで飛び込んだら、ラッシュ時よりは迷惑をかけないかもしれないなと思った。

 イヤホンから流れる音楽が思考を邪魔した。

 何を考えればいいか分からなかった。死のうと思ってみると、惨めな僕が引き止めた。

 死にたくなかった。

 足がすくんだ。

 音楽では掻き消せない轟音が鳴って、気が付けば電車は来ていて、僕はそれに乗って家に帰った。

 腹が減っていたけど、食べたいものなんて無くて、このまま何も食べずに餓死しようかと思って、辛いから、やめた。

 馬鹿にしているのかと言いたくなるほどポジティブな心療内科医に処方された睡眠薬が目に入った。一日二錠、二週間分で二十四錠あった。

 吐いてしまうだけだと聞いたことがあったし、辛いらしいから、やめた。

 遺書を書いてみようと思った。何を書けばいいのか、誰に書けばいいのか、書いてどうすればいいのか、何も分からなかった。

 とりあえず、両親へ宛てることにした。

 死ぬ理由を書かなきゃいけないことに気がついて、理由なんて分からなかったから、書くのをやめた。

 心療内科を受診する前、ネットで調べたことを思い出した。心療内科医は、原因の分からない抑鬱の、原因を考えるプロらしい。

 彼女はただ僕のくだらない話を聞いて、頷くだけだった。

 本棚から飛び出て高く積まれた本を眺めた。

 責任感のような、例えば目の前の課題や仕事のような、それに対する感情と似たようなものを抱いた気がして、見えないように布をかけた。

 読みかけの本は内容なんてもう忘れてしまっていて、続きなんて気になる訳もなかった。

 関心が薄れている気がした。

 ただ一つ、勉強だけはなぜか義務感に襲われて、考えずにただペンを走らせた。

 医者はそれを良いことだとほざいた。

 僕は死にたかった。

 なぜだろう。何も不満はないし、やりたいことは沢山ある。

 ただ熱意はなくて、やらなくてもいいなら、そのままでいいかと思った。

 上映中の映画は見逃しても僕の人生に影響なんてなかったし、読みたい本を一冊読まなかったところで誰かに痛めつけられるわけでもなかった。勉強しなかったところで卒業だけならできるし、就活をしなくてもフリーターで食べるだけならできそうだと思った。

 でもそうして生きるくらいなら、死んでも同じだと思った。

 それが動機かと聞かれれば、違うと思う。

 こうして文章を連ねるうちに出てきた言葉はただの装飾で、一つの側面でしかなかった。

 死ぬことを意識して生きる人はどれくらいいるんだろうか。

 みんな、明日死ぬかもしれない。

 いま、死ぬかもしれない。

 僕も、いつか死ぬ。

 それは数十年後かもしれないし、明日かもしれないし、二秒後かもしれない。いつ死ぬとしても、どうやって死ぬにしても、自分で死ぬにしても、殺されるにしても、僕は死にたくなかった。

 誰のせいでもなく、ましてや自分のせいだとも思わない。

 この世に未練があることは普通だと思う。

 みんなそうだ。死ぬのは怖い。痛いだろうし、苦しいだろうし、暗いと思う。

 今日を死にたい僕は、明日を死にたくなかった。

 明日は授業を受けたあと美容室に行く。明後日は何もないけれどバイトで友達に会う。明々後日は好きな女の子と久しぶりに会う。来週は友達と鍋をつつくし、再来週は十年来の友人と夕飯を食べに行く。数か月後には旅行に行くし、来年にはきっと僕は行きたい研究室に合格して、再来年にはそこで研究している。

 それでも僕は、いま、今日、この時を、ただ一瞬を、生きたくなかった。

 どうなるか分からない未来なら、死ぬ未来に希望を抱いても良いんじゃないかと思ったから。

 大きすぎる満月が恐かった。

 水面に反射する月明かりは、まるでどこまでも続く道みたいだった。

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