第12話 焦土と、新たな芽吹き
早朝のコルニス村に、かすかな薪の匂いと、冷たい朝露の気配が残っていた。
宿の扉をそっと開けて外に出ると、ミーアは澄んだ空気に小さく息を吐いた。夜明けの光が、焦げ跡の残る畑を優しく照らし始めている。
そのとき、小さな声が彼女の背後からかけられた。
「……お嬢さん」
振り返ると、白髪を結った小柄な老婆が立っていた。杖を片手に、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
「昨日は、うちの息子の火傷……治してくれて、ありがとうねぇ」
「あ……いえ……!」
ミーアは慌てて頭を下げる。だが老婆は笑いながら手を振った。
「それに……まさか、勇者様にお会いできるなんてねぇ。長生きするもんだわ」
視線の先を追えば、広場の外れ。朝の空気の中、何人かの村人たちが木箱の上に紙を広げて話し合っている。その中心には、アルガスの姿があった。ペンを片手に、簡素な図を描きながら、静かに何かを説明しているようだった。
「……『らしくない』、なんて本人は仰ってますけど……」
ミーアは、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
「……いえ、なんでもありません」
言葉を濁したミーアに、老婆はちらりと目を向ける。
「もしかして……お嬢さんは、『託宣の神子』様かい?」
その言葉に、ミーアは思わず身をすくませた。
「……え?」
「昔……ほんと、とっても昔よ。少しだけ、教会の掃除なんか手伝ってたことがあるのよ。その時、神官様に教えてもらったの。『神子と勇者は並んで旅をする』って」
老婆は遠くを見るような目で微笑む。
「……あの頃は、ただの物語だと思ってたけれど」
和やかに告げられたその言葉に、ミーアは一瞬だけ言葉を失った。
(……確かに『神託』は、私が受け取った。でも、私は――)
彼女の瞳が揺れる。
「い、いえ……私は、ただの……治癒術師です」
「……そうかい?」
ミーアの答えに、老婆はほんの少しだけ目を細めてから、ゆっくりと頷いた。
「でもね、誰かを癒やして助ける人に、『ただの』なんて言葉は似合わないよ」
老婆は優しく笑い、そっとミーアの手を握る。
「勇者様と、あなた達の旅路が……光で満たされますように」
指先に伝わる温かさと、ゆっくりとしたその祈りに、ミーアの胸の奥が静かに揺れる。
「……ありがとうございます」
そう口にしたものの、ミーアの胸の奥には、まだ言葉にならない何かが残っていた。
老婆がゆっくりと去っていく。その背中を見送った後、ミーアはそっと振り返った。
視線の先、朝日に照らされた広場の一角には、数人の村人に説明を続けるアルガスの姿があった。
凛としたその横顔。迷いのない動き。言葉に重みを与えるその佇まい。
ミーアはそっと口を開いた。
「……勇者様と共に旅をする神子、ですか……」
呟きは、朝の風にさらわれるように微かだった。
けれど彼女の瞳は、まっすぐにアルガスを見つめたまま、わずかに揺れていた。
「それでも……私は――」
その先の言葉は、誰にも聞かれることなく、唇の奥で消えていく。
その瞳に浮かんでいたのは、信仰か、使命か、それとも――。
***
「こちらの区画は、土の質も比較的安定しているので、再開墾の候補から外しましょう。放棄して植生の回復を待つべきです」
「は、はい……なるほど……」
アルガスの言葉に、村人の一人がメモを取りながら頷く。
「防柵の再設置については、焼損を避けるために石材を一部使った基礎構造に。あと……ここの道は塞いで導線を絞り、見張り台を――」
広げた簡素な図面の上に、指で示したのは新しい防柵の配置案。風の流れ、地形の高低、避難経路――あらゆる要素を計算に入れた図解に、村人たちはただ黙って頷くしかなかった。
だが、そのやり取りの最中、アルガスの視線はふと畑の焦土へと逸れた。
――もう少し早く気づいていれば。
あの異常な足跡に、もっと強く疑念を抱いていたら。
エリスが魔法を放つ直前、止められていれば。
防衛の布陣も、村の構造も、僕がもっと的確に把握していれば――
――いや、それ以前に。
自分が、もっと『強ければ』。
(……僕が剣に秀でていれば、魔術の扱いに長けていれば、こんな被害は出なかったかもしれない)
思考の渦に沈みかけたその時、ひとりの中年村人が小さく頭を下げた。
「……本当に、助かりました。ありがとうございました、勇者様」
その言葉に、アルガスはわずかに顔を上げる。
反射的に「いや」と否定しかけて、口を閉ざした。
(肩書きでは、人は救えない。なのに――肩書きにすがって感謝されるのか)
苦笑のような微笑みを浮かべ、アルガスは小さく頷いた。
(ならせめて……僕にできることを)
図面を畳み、手を下げようとしたそのときだった。
「……勇者さん」
背後から、少しかすれた声がかかった。
振り返ると、焼けた柵のそばに立つ村長がいた。ゆっくりと、けれど確かに、アルガスの前に歩み出る。
「わしは……あんたに、礼を言いに来たわけじゃない」
そう言ってから、村長はほんの一瞬だけ唇を噛む。
「……ただ、あんたの言ったこと。あれは本当に、図星だった」
その視線の先には、まだ黒く焦げた畑の跡と、その向こうに広がる森の縁。
かつての境界線。けれど今は、何もない空間。
「開墾して、村を広げりゃ、きっと豊かになるって……そう信じて、走り続けとった。振り返る余裕も、なかった」
その言葉に、アルガスは静かに目を伏せた。
「……この辺りの土着信仰で、『開拓は善』とされているのは知っています。私も、少し言い過ぎました」
「それに、畑を……村の財産を、守りきれなかったのも、事実です」
「いいや……あんたの、『自然と人間の境界を壊した』という言葉……あれが、一番響いたんじゃ。肩書きがどうとかじゃないぞ。言葉が、届いたんじゃよ」
アルガスの肩が、わずかに揺れる。
「……壊れた境界は、わしらの手で直さねばならんな」
その声音には、昨日までとは違う芯があった。
「……ええ」
アルガスもそれに応えるように、短く返す。
「なに、『焼けた土』っちゅうのは、また肥えるもんだ。芽も、きっとまた生える。わしは、何度も見てきた」
そう呟いた村長は、ひとり背を向けて歩き出す。
「機会があれば、また来てくれ。森の恵みをご馳走するよ」
「……ボアが増えすぎて、名産になっていないといいのですが」
アルガスの返しに、村長はふっと笑い、最後に振り返った。
「その時は……また『ボアの討伐』を頼もうかね」
アルガスは少しだけ口元を緩め、会釈を返す。
村長が去ったあと――
彼の視線の先、焦げた畑の一角に、小さな芽がひとつ、顔を覗かせていた。
***
荷馬車の準備が整い、商人たちは静かに荷を積み込んでいた。
村人たちは声を上げることなく、ただ静かにその様子を見守っている。
その眼差しには、感謝と、わずかな後ろめたさ。そして、遠くから灯るような敬意があった。
グレオが荷台の脇で大剣を担ぎ、ぽつりと呟く。
「……今回は人間側が原因で、魔物の被害が起きてた訳だな」
誰に言うでもないその言葉に、エリスが肩をすくめる。
「まあ、魔王がどうのって話じゃなくて良かったんじゃない?」
それを聞いて、ミーアが目を細める。
「案外……魔王側にも、何か理由があるのかもしれませんね」
「それを――」
アルガスが馬車の前で、淡く朝日に照らされた顔を向ける。
「……確かめるための旅だ」
その言葉は静かだったが、不思議と全員の胸に響いた。
エリスはローブの裾を翻し、微かに笑った。
「理屈をつけて殴るか、殴らずに済ませるか……どっちになるか楽しみね」
「俺はどっちでも構わねぇぜ。どんな奴が相手でも、お前の横で戦うだけだ」
グレオが豪快に笑い、馬車にひょいと飛び乗る。ミーアも、それに続いた。
アルガスは最後に、村の広場をもう一度だけ見渡した。
焦げた畑。その先の森。その隙間に芽吹いた、小さな緑。
(肩書きでは人は救えない。だが――言葉は、届く)
そう呟くように、目を細めた。
そして馬車に乗り込むと、車輪がゆっくりと動き出す。
***
朝霧の中を、旅立ちの車輪が踏みしめていく。
目指すは、被害の拡大が報告されている次の街――ラグスノール。
旅はまだ始まったばかり。
彼らの行く先に待つのは、さらなる問いか、それとも――答えか。
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