便箋と鍵、いつかの残り火
mkm
第1話
職員室の扉を開くと、インスタントコーヒーの匂いが冷えた廊下に漏れ出す。同時にあふれた暖かさにホッとしつつ中に入り、後ろ手に扉を閉める。
自席に戻ると、机の上に一通の封筒が置いてあった。手書きで宛名の書かれた縦長の封筒。事務感はあまり感じられず、どこかの学校や企業のものではなさそうだ。
椅子を引くよりも先にその封筒を手に取る。想像を少しだけ上回る厚みと重さを感じた。宛先として記載されているのは確かにこの学校の住所、しかも美術室が指定されている。珍しい、というか初めての経験だ。
ひっくり返して裏面も眺める。知らない住所と知らない名前だった。隣の県から送られてきたらしい。
私が立ったまま封筒を眺めているのが気になったのか、斜向かいの席に座る国語教師がこちらを向いた。
「あぁ、それ」
ゆったりとした口調。この人は大体いつもこうだ。
「7年前の卒業生の親御さんからだって」
私がここに着任するよりも前の話になる。
「7年前? なんでまた今更手紙なんか」
卒業して7年というと、私より1つか2つ歳下くらいだろうか。留年していなければ。
「さぁ……? 未開封だからね」
封筒の口はしっかりと糊付けされたまま。
「開けていいんですかね……?」
知らない人から、明確に私宛かどうかはわからない手紙。扱いに困る。
「いいんじゃない? 美術室宛だし、だから浅井先生の机に置いたんだろうし」
まぁ、その通りではある。しかし内容の想像がつかない封書というのはどことなく不気味だ。妙な嫌がらせみたいな物だったら気分は悪い。ただの手紙にしてはやや重いのも気になった。
とはいえ黙っていても仕方がないのは確かで、椅子に座ってカッターを手にとった。封筒のフラップは端まで糊付けされていて、刃を差し込む隙間がない。中身に傷が付かないよう、上部を1ミリメートルほどの幅で切り取って、中を覗いてみる。
入っていたのは一通の便箋と、一回り小さいもう一つの封筒だった。カミソリの刃や虫の死骸が入っているようなことはなくて、少しだけ安心する。今時そんなイタズラもないか。
中身をまとめて取り出して、先に内封筒の表書きが目に入った。
“鳴海先生へ”
私の名前ではない。在校期間を考えれば当然だろうけれど。
しかし、知っている名前ではあった。
3年ほど前、私の着任とほとんど入れ替わるように退職した前任の美術教師の名前だ。引き継ぎやらなにやらで、2ヶ月間くらいは一緒に仕事をしていた。良い人だったな、という印象は残っている。
そんな懐かしさと共に手が止まる。この先は私が見ていいものなのか、どうか。
明確に他人に宛てられている手紙だ。今すぐこれを元の封筒に戻し、旧姓鳴海――今の名字は覚えていない――“元”先生の住所を探し出し、そちらへ送り直すべきではないのか。
けれど、とも思う。この便箋までは、あくまでも美術室に宛てられたものだ。連絡をするにしろ、多少は確認しておいたほうが良いのではないだろうか。
少なくとも、美術室宛と書かれた封筒を開けるだけで見られる便箋も入っている。こちらは読んでしまっても倫理的な問題はない……と思う。
ひとまず内封筒は机の上に置き直し、直接入っていた三つ折りの便箋の方を開いてみた。
ざっと目を通す。
送り主はこの学校の元生徒である矢本亜美という人間の、母親であるらしい。その元生徒だった矢本亜美が、2ヶ月前に事故死したことが手紙に記されていた。そして遺品整理をしていたら、「自分になにかあったらこの封筒をこの宛先に送ってほしい」という書き置きを見つけたこと。そして結果的には唯一の遺言となったその書き置きの通り、ここにこれを送付したこと。
丁寧な筆致で書かれたそれらの情報を眺める。
卒業生が若くして亡くなったというのはそれなりにショッキングな話である。しかし見ず知らずの相手にあまり深い感傷は抱けないのも確かだ。
扱いに困る、というのも正直な心境だった。
とりあえず、目の前の業務用PCの画面を点灯させた。検索エンジンに「矢本亜美」と入力して、決定キーを2回押し込む。
予想通りというべきか。一番上には事故に関する記事が表示された。開いてみると、ひしゃげた車と潰れたガードレールの写真が大きく表示された。
運転手と、偶然そこを歩いていた矢本亜美。被害者、加害者ともに即死。事故が起こったのは新幹線を乗り継ぐ必要があるような遠い県で、だから学内でも話題になっていなかったのだろうか。
知らない人間の、もう2ヶ月も前の話。たまたま被害者が年の近い、職場の元卒業生であっただけ。距離感としてはほとんど全くの他人。矢本亜美の職業は写真家と記されていて、私の人生との接点はまず無さそうだ。
暖房のせいか、目が乾いていた。瞬きの瞬間、瞼が眼球の表面をなでていく感覚がはっきりとある。
後ろに倒れ込むように、椅子の背もたれへと体を押し付ける。安っぽい事務椅子が軋んで、国語教師がこちらをちらりと眺めた気配を感じた。
その姿勢のまま封を切っていない方の封筒を手に取る。どうやら紙以外の何かが入っているらしく、重心がずれていた。振ると中身が動く。小さく薄い物らしい。重量感からいくと金属だろうか。
開けるか、否か。
やはり、自分宛てではない手紙を開ける事への抵抗感が拭えない。
しばらく悩んで、連絡したほうが早いと結論を出す。引き出しの奥の方に沈んでいた引き継ぎ資料を引っ張り出して、電話機を手に取った。
「XX高等学校 美術教師の浅井と申しますが、内藤様のお電話でしょうか」
鳴海の姓は内藤に変わっていた。寿退職だったから、その辺もメモしてあってよかった。
「はい、内藤です。浅井先生? お久しぶりです」
忘れられていなかったらしい。スムーズに本題に移れる。
「お久しぶりです。今、少しお時間よろしいでしょうか」
「えぇ、はい。もう少しすると旦那が帰ってくるけど」
「それほど時間はかからないと思います。あの、実は本日、美術室宛に手紙が届きまして――」
事の顛末を説明し終わって。しばしの絶句の後に。
「封筒の中身、見ました?」
電話の向こうからそう尋ねられる。
「外側の封筒は確認のために開けてしまいましたが、内側の方はそのままですね」
「……開けてもらっていいですか?」
「えっと、いいんですか」
「はい。お願いします」
「少し、待ってください」
受話器を机上に置いて、開けていない方の封筒を手にとった。こちらも糊付けはしっかりされていたので、カッターを取り出す。
通話中のままの受話器を眺めた。眺めたところで何か言われるわけもなく、開封の許可はもう出ているのだから、手を止める理由もない。
指先に力を入れた。軽い感触で刃が動く。紙を切るざらりとした音。
封筒の側面を押すようにして口を開け、中を覗き込む。
中に入っていたのは一つ。小さな銀色。
取り出してみると、鍵が入っていた。金属板を打ち抜いた程度の、比較的チープな作りの鍵。家や金庫というより、ロッカーや引き出しを開けるための鍵に見える。
他に手紙など入っている様子はない。受話器を再び持って、耳に当てた。
「もしもし」
「はい」
「鍵が入っていました。多分、ロッカーかなにかの」
指先で該当の鍵をつまみ上げながら答える。
「浅見先生、美術準備室の入って左奥のロッカー、分かり……まだありますか?」
すぐにそう返ってくる。
「えぇと、はい。多分、大きく整理したりはしていないので」
「そこの鍵なんじゃないかと思うんです。下段左の扉が開かなかったと思うので」
よく覚えているな、とも、なぜそんなすぐに分かるのか、とも。知っていて放置していたような口ぶり。準備室の中を把握できていない私も私だけれども。
「そのロッカーの中、今から確認してもらってもいいでしょうか。時間がかかっても大丈夫だから」
そんなに急ぎなのか、とか。疑問がないわけではなかったが、このまま扱いに困る鍵を持っていたい理由もない。
わかりました、確認したらまた連絡させてもらいますね、と言って通話を切った。
美術準備室は照明を点けても薄暗く、こんな時間に長く居たい空間ではない。蛍光灯をもうちょっと良いやつに換えたいな、と思ってからしばらく経っていた。物だらけの室内をせめても足早に入り込んで、指定されたと思しきロッカーへ向かう。
赴任してもうすぐ2年になる。そろそろちゃんと片付けなければいけないと、これも常々思ってはいる。
部屋の奥まったところに置かれた、ところどころに錆の浮いたネイビーグレーのロッカー。上半分はガラス戸になっていて、画材が乱雑に詰め込まれている。これのことだろう。
指示された下半分は金属板の扉で、中を窺うことはできない。左側の戸にだけ鍵穴があったので、封筒から出てきた鍵を差し込んだ。錆びついているのかうまく回らず、数回ガタガタと揺らして、やっと回る。
上段とは裏腹に、数冊のスケッチブックだけが収納されていた。
一番上の一冊を手に取ってみる。表紙には小さく矢本亜美の名前と、日付が書かれている。次に置かれているものも同じようだ。きっと本人が置いていったのだろうと思う。今となっては遺品になるのか。
表紙に指先をかけ、また少し迷った。しかし流石に現美術教師の自分が、美術準備室に放置されていたスケッチブックを開くことに問題などなかろうと思い直す。
表紙を捲る。空気が煽られて、ホコリっぽい匂いが顔にかかる。
1ページ目に描かれていたのは、鼻筋の通った女性の横顔だった。
絵に関して言えば、高校生としては相当に上手いというところだろうか。そして技術だけでなく、どこか情緒のようなものも確かに表現されている。今の学内にいたらほぼ間違いなくトップで、美大に進むことも十分視野に入るようなレベルだと思う。美術系でもないこの学校に、こんな生徒がいたのか。
でも、今は写真家だと書いてあった気がする。絵は辞めてしまったのだろうか。もちろん活かせる要素もあるだろうけれど。私は矢本亜美の事を何も知らないのに、もったいないなと思ってしまう。
そんな技量に驚いたのも最初だけだった。ページを進めるうち、気付かずにはいられないことがある。
そのスケッチブックの中に描かれていたのは、女性のスケッチだけだった。
そしてその全てが、鍵の宛先である鳴海先生の姿だった。
数冊あったスケッチブックをまとめて職員室へ持ち帰った。
電話をかけ直すと、鳴海もとい内藤先生はすぐに出た。待っていてくれたのだろうか。
「あの、ロッカーを開けてみたのですが」
なんと言っていいものか、やや迷いつつ。
「スケッチブックが何冊か入っていて……えぇと、内藤先生の絵ばかり描かれていて」
電話越しに息を呑んだような気配があって、それからは無言だった。耳元には淡いノイズだけが流れる。
「あの……」
無言に耐えかねて尋ねる。しかし微かな呼吸の気配以外に返答はない。
電話の外側でバタバタと騒々しい足音がした。それが近くで止まる。振り返ってみれば教頭が私に向かってきていた。
「浅見先生」
寄ってきた教頭から粘っこい声で呼ばれる。そして受話器を指さされる。
「鳴海先生ですかね」
うなずきだけ返す。ちょいちょい、と電話を寄越すように手で促された。
その仕草はなんとも不快だったが、逆らうほどでもなく。ちょっと変わりますねと声を掛けてから受話器を手渡した。
そして教頭は大げさな様子で何事か話した後、勝手に電話を切ってしまった。一応、私と内藤先生の通話だったはずなのに……そういう微妙な所作から嫌悪が募るタイプの人間だ。
「矢本さん、お亡くなりになられたそうだね」
受話器を返しながらそう言ってくる。教頭は矢本亜美の在学中もこの学校にいたはずだが、事故のことは今まで知らなかったのだろうか。
「……だそうですね」
「丁寧にお手紙まで頂いたんだ、お線香を上げに行ってきなさい」
「私、ですか」
拒絶の意思を薄く乗せて聞き返す。私はこの元生徒と縁もゆかりも無い。
「それはもちろん、美術室宛に連絡が来たわけだからね」
いや、矢本家の人にだって困惑されるんじゃないか。そもそも亡くなってからもう2ヶ月も経っている。
「この矢本、亜美さんと私、面識ありませんけど」
「教員代表ということだ」
教頭は意味のわからない理屈を述べながら、先ほど準備室から持ってきていたスケッチブックを見やる。
「忘れ物もあったそうじゃないか。それも届けてきなさい」
そしてその視線がちらりと受話器に向いた。
「鳴海先生もぜひ、と言っていた。よろしく頼むよ」
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