アパートメント・ストーリーズ

ソコニ

第1話【Room 301】インフルエンサーの憂鬱 - フォロワー10万人、SNSと孤独の境界線

「まだ、違う」


朝日が差し込むキッチンで、美玲は既に20枚目の写真を撮り直していた。アボカドトーストの断面の角度を0.2ミリずつ調整し、カフェラテの泡の位置を何度も変える。窓から差し込む光を計算し、白いテーブルクロスのシワまで念入りにチェックする。


「これじゃダメ。もっと自然に見えないと」


額から汗が滴る。既に40分が経過していた。完璧な「朝食風景」を作り上げるため、美玲は午前5時に起床。前日から計算された配置で、小物たちが テーブルの上で完璧な配置を保っている。


「やっと...これなら」


シャッター音が静かな室内に響く。Instagram用の写真を撮り終えた美玲は、深いため息をつきながら椅子に崩れるように座り込んだ。28歳。フォロワー10万人を抱えるライフスタイルインフルエンサーの彼女の朝は、いつもこうして始まる。


スマートフォンの画面に映る写真を確認しながら、美玲は冷めきったアボカドトーストを片付けた。レンジで温めたコンビニのおにぎりを口に放り込みながら、加工アプリを起動する。彩度を上げ、コントラストを調整し、ホワイトバランスを完璧にする。


「#朝活 #美容 #ワークライフバランス #おしゃれな暮らし」


投稿ボタンを押した瞬間、既に反応が始まる。


「@mirei_lifestyle 素敵な朝食✨ 私も真似したい!」

「毎日のフードコーディネート参考になります」

「ミレイさんみたいな生活に憧れます😊」


DMには、商品の宣伝依頼も溜まっている。化粧品、健康食品、家具...。どれも「ミレイさんの完璧なライフスタイルにぴったり」という文句が踊る。


会社のデスクに向かいながら、美玲は別人のように化ける。経理部の窓際の席。彼女の机の上には、同僚から無視されたままの書類が積み重なっている。


「佐々木さん、この資料、まだですか?」


上司の声に、美玲は小さく縮こまる。SNSでは堂々と自己主張する彼女が、ここでは影のような存在だった。


「すみません...今日中に」


昼休憩。社員食堂で一人、スマートフォンを見ながらカレーを食べる。画面には、朝の投稿へのコメントが溢れている。


「完璧な生活、羨ましいです」

「毎日がお洒落で素敵」


美玲は苦笑する。社食の安っぽい皿に盛られたカレーを、誰かに見られないようにこっそり食べる自分。この現実を、フォロワーは誰も知らない。


夜。一人暮らしのマンションに帰り着いた美玲は、玄関で靴を脱ぎながら、また一人の夜が始まることを実感していた。その時、隣室から物音が聞こえた。


鈴木さん。70代の一人暮らしの女性だ。挨拶を交わす程度の関係だったが、何か様子がおかしい。




玄関のインターホンが鳴った時、美玲は明日の投稿用の夕食の撮影準備をしていた。


「はい?」


画面には、普段はしっかりとした様子の鈴木さんが、壁に寄りかかるようにして映っていた。顔色が明らかに悪い。


「鈴木さん?大丈夫ですか?」


扉を開けると、高齢の隣人は汗を滲ませ、苦しそうに息をしていた。


「具合が...悪くて。薬を...」


その言葉と共に、鈴木さんはその場に崩れ落ちそうになった。美玲は反射的に駆け寄り、その体を支えた。初めて触れた他人の体温に、どきりとする。


「救急車、呼びますね」


救急車を待つ間、美玲は鈴木さんの手を握っていた。スマートフォンは鞄の中。いつもなら「こんな状況こそストーリー映えするのに」と考えていたはずなのに、そんな考えは全く浮かばない。


「Instagram...やってるのよ」


救急車を待つ間、鈴木さんが意外なことを話し始めた。


「えっ?」


「孫が教えてくれてね。最近は写真を撮って、みんなに見せるのが流行りなのね」


震える声でそう言う鈴木さんに、美玲は驚きを隠せなかった。


「でもね」と鈴木さんは続けた。「みんな幸せそうに見えるけど、どこか寂しそう。あなたもそう見えたの」


その言葉に、美玲の目に涙が浮かんだ。救急車のサイレンが近づいてくる中、彼女は初めて、自分の心の奥底にあった感情と向き合っていた。


その夜、病院から戻った鈴木さんが美玲の部屋を訪ねてきた。差し出された手作りのおにぎりを受け取りながら、美玲は胸が熱くなるのを感じた。


「昔は、近所の人とよく話したものよ」


テーブルを囲みながら、鈴木さんは昔話を始めた。


「今はみんな忙しそうで。でも、本当は誰もが誰かと話したいんじゃないかしら」


美玲は黙ってうなずいた。スマートフォンの通知音が鳴ったが、今は画面を見る気にもならない。


「私ね」美玲は言葉を絞り出すように話し始めた。「本当は、ずっと誰かに話を聞いてほしかったの」


涙がこぼれ落ちる。これまで完璧に作り込んできたイメージが、音を立てて崩れていく。


「泣いていいのよ」


鈴木さんの温かい声に、美玲の涙は止まらなくなった。


次の朝、美玲は初めて加工なしの自撮り写真を投稿した。髪は少し乱れ、目は泣きはらしている。背景には散らかった部屋。


「みなさんへ。

私の投稿は、全て演出でした。完璧に見える朝食も、きらめく自分の姿も。でも昨日、一人のおばあちゃんが教えてくれました。人は完璧である必要なんてない。ただ、本当の自分でいればいいんだって」


投稿から数分後、コメント欄が動き始めた。


「私も同じです」

「実は毎日必死でした」

「ありのままでいいんですね」

「勇気をもらいました」


美玲は初めて、スマートフォンの画面を通して、本物の温もりを感じていた。


「おはよう、美玲ちゃん」


階段で鈴木さんとすれ違う。もう、カメラは構えない。その代わりに、温かな挨拶を交わす。


後日、美玲のインスタグラムは大きく変わった。完璧な朝食の代わりに、時には失敗した料理の写真も。化粧っ気のない素顔も。そして、鈴木さんと一緒に撮った素朴な日常の写真も。


フォロワーは減るどころか、むしろ増えていった。だが、もう数字を気にすることはない。美玲は知っていた—本当の「つながり」は、画面の向こう側にあるのではないことを。

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次の更新予定

2024年12月21日 21:00
2024年12月22日 21:00

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