夫に穢された純愛が兄に止めを刺されるまで

猫都299

1 タイムリープした?


 過去にタイムリープするなんてラノベやゲームではよくある話。でも現実に自分の身に起こるなんて思ってなかったんだ。



 瞼を開いた。眩しくて目を細める。


 夕暮れ時の赤みを帯びた光が、眼下の川へと注ぐ。目の前にあるのは懐かしい景色だった。


 川沿いの細い道に佇んでいた。私の横を下校中の中学生が幾人か通り過ぎて行く。立ち止まっている私を不思議そうな顔で振り返っているけど歩みを止める者はなく、道の先へと去った。


 「まさか」と考え振り返った先には……やはり。


 十五年前に卒業した中学校の校舎があった。今、手に持っている黒い鞄や着ている紺色の制服、肌のモチモチ感にも説明がつく。頬を指で触りながら再び校舎を見上げた。夢を見ているのでないならタイムリープしてしまったとしか思えない。


 記憶にあるイメージと違わぬ中学校は、もう十年も前に取り壊されている筈だった。


「まさか中学生だった頃に戻ってる?」


 独り言ちる。当然、答えてくれる人はいない。唾を飲み込んだ。この頃に住んでいた実家も、まだあるのかな?


 ふと考え至って道の先を見た。恐る恐る足を踏み出す。数歩進んだ後には駆け出していた。




 古びた二階建ての家は細長い坂の途中にあった。中学校からは結構な距離を辿ったので到着する頃には物凄く息切れしていた。震える指でチャイムのボタンを押した。


 玄関の引き戸が開いた。中から姿を見せたのは兄だった。


「何だ、玻璃か。何でチャイム押した? そのまま入って来ればいいのに。誰かと思ったよ」


「お、お兄ちゃん?」


 びっくりして大きな声になってしまった。口を押さえ兄を凝視した。


 見知った兄は黒髪で三十六歳のそこそこおじさんだった筈なのに。今、目の前にいる兄は金髪で……まくり上げられたTシャツの袖口から、おじさんだった兄にはなかった筋肉が存在を主張している。体付きも全体的にシュッと引き締まっていて表情もどことなく精悍な雰囲気がある。そしてやはり若返っている。


 私は暫く絶句していた。


「玻璃?」


 名前を呼ばれた。何か今……凄く違和感があった。自分の唇に指を当て思考していた。


「違う!」


 重大な間違いに気付いて声を上げた。


「私、そんな名前じゃない!」


 目の前にいる兄に訴える。兄は驚いたように瞳を瞠った。


「私の名前は――」


 言い掛けていた口の動きを止めた。その時、私は自分が忘れていると悟った。名前の事ではない。本当の名前はしっかり憶えていた。何か……とても大事なものを忘れている。


 深刻な顔をしていたと思う。眉間に皺を寄せたまま考えに耽っていた。兄は首を傾げて「名前がどうした?」と不思議そうな雰囲気だった。


「名前、は……」


 呟きを繰り返していたところ兄が腕組みして「ははぁ」と言った。目を向けるとニヤリと笑われた。


「お前、名前好きだって言ってたのに……まさかあのゲームのキャラに飽きた?」


 兄の言動の示すところを理解できず無言で見つめ返した。


「ゲームの、キャラ?」


 口にして視線を移動させた。家に掛けてある表札を確認した。


『澄蓮月』


「すみ、れの、つき」


 目を見開きながら読んだ。


 兄の脇を通って家の中へ入った。奥の台所にある階段を二階へ駆け上がった。かつての自分の部屋を探った。再び一階へ下り納戸を漁った。


「見付けた……!」


 手にしたのは思い出深いイラスト。中学生だった頃に描いた好きなキャラクターの絵だ。胸くらいまで長さのあるサラサラの黒髪に菫色のヘアバンドが可愛い。この子の名前が「澄蓮月玻璃」なのだ。


 友達に借りたゲームのキャラで、いわゆる悪役令嬢というやつだったような気がする。タイムリープしたと思ったら名前が好きだったゲームのキャラ名になっている?


 やっぱりこれは夢なのかなと自分の頬を両手で叩いた。


「お前どしたん?」


 縁側でスイカを食べ始めた兄に聞かれた。


「タイムリープした……かも」


「…………そうか」


 私の真剣な告白に兄は苦そうな表情で頷いて庭の方へ目を逸らした。


「違うから! 私! 今、中学生になってるけど! 中二病で言ってるんじゃないから!」


 誤解されたみたいだ。兄が考えていそうな事を必死に否定した。この重大な非常時に、こんなやり取りをしている場合じゃないのに。


「大丈夫だ。誰だってそんな時代はある」


「くっ……!」


 軽くあしらわれた。憎らしいけど兄と話すのも久しぶりだなと少しホッとしていた。


 元の三十歳だった私は結婚して兄とは別の家で暮らしている。思い返して俯いた。元の大人だった私は好きな人と結婚した。幸せな生活を夢見ていた。


 しかし現実は甘くなかった。彼には愛人がいて、私は全く愛されていなかった。


 彼は私に触れようとしなかった。ただ一回、結婚式にキスした。それだけしか思い出がない。もちろんそれ以上もそれ以下も存在しない。


 結婚するまで男性とお付き合いした事もなかったので、未だに色々と経験ができていない。


 そんなイモい私だったから呆れられたんだと思う。彼に愛人の件を問い詰めてしまったし。

 私はそれまでずっと……純愛こそ至高だと信じていたから。夫の考えが許せなかった。私だけ愛してほしいと訴えた。


 ある時、彼に尋ねた。


「あなたは……私がほかの人と……その……そういう関係になってもいいって言うの?」


 彼は答えた。


「どうぞ? オレは別に気にしない」


 嘲笑うような口調が「どうせお前には無理だろ?」と言われているみたいに感じた。口を噤んで部屋を出た。その場で涙を零さなかった私をよく我慢したと褒めてあげたい。


「私、何でこの人と結婚したんだっけ?」


 腫れぼったい目のまま街を歩いていた。季節は冬で、行く先々に綺麗なイルミネーションが飾られてあった。


「ああ、そっか。今日ってもしかしてクリスマスイブだった?」


 行き交うカップルを眺めながら思考していた。歩くのも考えるのも疲れた。

 コンビニで肉まんを買った。街路樹の側に設置されたベンチへ腰を下ろして食べた。雪が降っていた。


 肉まんを食べ終わる頃、寒いので家に帰ろうと思った。立ち上がる直前、公園横の車道を隔てた向こう側の道を通り過ぎる……夫を見付けた。


 女性と一緒にいる。


 愕然としたけど気持ちを奮い立たせた。

 最後に彼に言いたい事を全部伝えよう。もう終わりにしよう。


 立ち上がり後を追う為、走り出した。


 地面が凍っていて足を滑らせた。

 頭を酷く打ってしまった。意識が遠のいてきて「あ、死ぬかも」と考えたのまでは覚えている。



 そして。



 意識が戻ると中学校の校舎前にいて、実家に来てみると兄が若返っていて、何故か私の名前が好きなゲームのキャラ名になっていたという訳だ。


 タイムリープする直前、私は夫との結婚を後悔していた。「何であの人と結婚したんだろう」って繰り返し自問自答していた。


 そんなの分かってる。好きだからだよ。


 ずっと彼の事が好きだった。でも彼の考えと私の考えが合わなかった。「仕方なかった」と自分を宥め賺し、諦める心づもりをしていた。



『このタイムリープは人生をやり直すチャンスなのでは?』



 閃く如く浮かんだ思い付きが脳裏を過った。


 私、自分の考えに固執してた。彼に合わせようとしてなかった。私が彼に認められなかったのは、そもそも私も彼を認めていなかったのが原因の一端にあるかもしれないという思考に至って顔を上げた。


 手に持っていたイラストに目を向けた。


「……そうだ」


 私の思想を変えよう。




 シャクシャクとスイカを大量に食べ続けている兄の側に膝を突いた。


「お兄ちゃん、お願い協力してっ! 私、自分を変えたいの。好きな人を振り向かせる為に。だからお願い! 逆ハーレムを作るの手伝って!」


 頭を下げた。兄の返答は無情だった。


「あー。無理」


「何でっ?」


 思わず聞き返した。兄は私から視線を逸らして言った。


「オレは毎日仕事で疲れてっから、ゲームしてる暇はないんだわ」


 え? ゲームの話だと思ってるの?


 まあそうか。現実で逆ハーレムを作ろうとする人なんて、きっと滅多にいないよね。がっくりと肩を落とした。

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