第13話

 隆哉がどこかへ電話をかけている。タキが急ぎ足で奥の間へ入っていく。瑞紀は颯真に背中を押され、家に入った。


 職場で電話を受けた泰司が帰宅し、タキ、隆哉と共に病院へ向かった。留守を任された真紀子が、瑞紀、颯真、瞬に昼食を摂らせている時に千春が帰ってきた。千春は真紀子に事情を聞いて泣き出し、食事を摂らずに二階へ上がってしまった。


 瑞紀も食事が進まなかった。颯真も食べろとは言わなかった。颯真の皿の上のものもあまり減っていない。瞬だけがいつもとかわらない様子で料理をたいらげた。今は縁側で絵本を広げている。


 雨が降り出していた。雨足が強くなり、颯真が窓を閉めに立った。


 瑞紀が食器を片づけていると玄関の戸が開いて峰子が入ってきた。涙ぐんでいる。


「赤ちゃん亡くなったて聞いて、びっくりしてなあ。何でこんなことになってん」


 真紀子は千春に話したのと同じ事を峰子にも説明した。奈苗は昨日の朝までは胎動を感じていたらしい。その後、母親の体の中で何が起こったのだろう。真紀子の話に耳を傾けても瑞紀にはよくわからなかった。


 真紀子と峰子が話をしている間に瑞紀は食器を洗った。颯真が隣に立って皿を拭いた。

 何も話さなかった。

 水音と食器を重ねる音が響いた。

 峰子が颯真を呼んだ。


「今から病院に行くけど、颯真も行くか?」


颯真は少し考えて、行かない、と言った。峰子は千春だけを連れて車で病院へ向かった。

 瞬は縁側で眠ってしまっていた。瑞紀は瞬にバスタオルを掛けてやった。

 電話が何度もかかってきた。その度に真紀子が応対した。日が傾きかけた頃、電話を切った真紀子が言った。


「亡くなった赤ちゃん、連れてくるんだって。綺麗にお掃除しておきましょう。瑞紀、颯真くん、手伝ってね」


瑞紀と颯真は頷いた。


 颯真が窓を開ける。雨は上がっていた。湿った風が入ってくる。

 朝、掃除はしたのだが、真紀子はもう一度掃除機をかけた。颯真が水の入ったバケツと雑巾を持ってきた。瑞紀と二人で雑巾を固く絞って縁側の床を拭く。物音で目を覚ました瞬が側に来て「ぼくもやりたい」と言った。

 三人で床を磨いた。颯真は真剣な顔で縁側を擦る。瑞紀は瞬が絞った雑巾を絞り直してやる。瞬は颯真を真似て楽しそうに床を拭いた。


 磨くところもなくなった頃、外で車が止まる音がした。峰子の車だ。タキ、千春、隆哉を乗せて帰ってきた。

 じきに葬儀屋が来るという。明日、内々で葬式を行うとのことだった。


 真紀子は飯を炊き、タキは急須や湯のみ、菓子などを用意している。瑞紀は葬儀屋が簡素な祭壇をしつらえ、花を飾るのを眺めていた。

 遺影はない。

 一度も写真を撮らないうちに亡くなった子を、後に親はどんな風に思い出すのだろう。


 颯真は瞬と共に庭にいた。瞬はしゃがんで土をいじっている。颯真は県道の方を見ている。瑞紀も縁側から庭に出た。

 日が沈み、空は紫色に染まっている。虫の声が聞こえる。雨上がりのためか空気が冷たく、もう秋が来たかのようだ。


 庭の入り口に黒いミニバンが止まった。中年の男が運転席から降りてくる。

泰司と若い男が二人で白い籠を抱えてゆっくりと後部座席から出てきた。その後から照が中年の女と共に出てくる。

 若い男は颯真を見て「久しぶり」といい、力なく微笑んだ。赤ん坊の父親らしい。中年の男女は彼の両親だろう。


 白い籠は祭壇の前に置かれた。クーハンという籠だな、と瑞紀は思った。進二が時々悠をクーハンに入れて連れてくる。


「赤ちゃん用の棺が無いらしいんよ」


照が言った。

 クーハンの中に白い布に包まれた赤ん坊が青ざめた顔をして横たわっている。


「奈苗ねえはどうしてるの」


瑞紀が訊く。


「しばらく入院するんよ。赤ちゃんとのお別れは病院で済ませてきたから……」


照が言うと、側に来ていた千春がまた涙を落とした。


 僧侶が来て経をあげ終わり帰ってしまうと、皆交代で簡単に食事を済ませた。そうしている間に葬儀屋が小さな棺を調達してきた。赤ん坊はクーハンから棺に移された。白い布ごと持ち上げられた赤ん坊の顔は青みが増していた。


「気持ち悪い」


瞬がそういった次の瞬間、千春が瞬の頭を叩いた。


「そんなこと言うもんじゃないでしょう!」


驚いた瞬の目に見る見る涙が溜まっていく。やがて大泣きに泣き出した。颯真が千春を睨みつける。


「瞬に八つ当たりすんな、千春のヒステリー!」

「ええかげんにせい!!」


泰司が怒鳴り、颯真は泰司をも睨んだが、すぐに奥の間に下がった。瞬もタキに連れられて、泣きながら颯真の後に続いた。瑞紀もタキについてそっと座敷を出た。


 颯真は薄暗い部屋で、積まれた布団に埋まるようにして横になっていた。瑞紀たちが入ってきても顔を上げようとしない。タキは颯真の側に座り、瞬を膝に乗せた。


「颯真」


タキが呼びかける。返事はない。颯真は少しも動かない。背を丸くして寝転がっていて、顔はよく見えなかった。


「……悲しいな」


タキはそう言って瞬の髪を撫でた。颯真は少し身じろぎして、鼻をすすり上げた。


 開け放した襖から茶の間の光が差してきている。隆哉が空になったクーハンを運んでいくのが見えた。瑞紀はクーハンで眠っていた悠の姿を思い出していた。


 瑞紀、颯真、瞬は泰司たちの寝室で眠ることになった。


「颯真兄ちゃん、真ん中で寝てええよ」


瞬が言った。


「何でや」

「兄ちゃん、淋しいんやろ?」


颯真はわずかに眉を上げ、瞬を見つめ、目を細めた。


「……別に。どこでもええよ。瞬、好きなとこで寝えや」


瞬は黙って壁側の布団に横になると、タオルケットにくるまった。瑞紀は襖の横の布団に寝転がる。颯真は少し戸惑うような表情で立っていたが、軽く息をつくと、瑞紀と瞬の間に横たわった。


 瞬は颯真の方を向いて、兄ちゃん、と声をかけた。


「なあ、死んじゃった赤ちゃんは、僕の弟やったん?」

「ちゃうよ。甥っ子や」

「おいっこて何?」

「自分の兄弟の息子。瞬はあの赤ちゃんの叔父さんや」

「えーっ、おじさん?ぼく、まだ子どもやで」

「颯真も叔父さんなんやな」

「瑞紀は何なんやろ」

「さあ……親の従兄弟って何ていうんやろ……」


颯真はどこか高いところを見て何か考えているようだ。瑞紀も天井を見上げてみる。

 木目の流れを眺めながら、耳は襖の向こう側の物音を聞いている。弔問客が訪れる気配がする。小さな話し声が聞こえる。鈴の音が響く。

 瞬の寝息が聞こえ始めた。颯真も目を閉じている。瑞紀は立ち上がって明かりを消した。

 襖のわずかな隙間から光が漏れている。それが時に通る人に遮られ、一瞬、闇になる。やがて目が慣れてくると、颯真と瞬の横顔が徐々に浮かび上がってきた。


 何も失いたくないと思う。でも意思だけではどうにもならないことがあるということを、もう知っている。


 仕切りの向こうでだれかがすすり泣く声が聞こえてきた。泣き続けている。泣き声はいつまでも止まない。


 瑞紀は自分の目から涙がこぼれ、耳たぶに落ちるのを感じた。

 ふと左の手に温もりを感じて隣に目をやる。

 颯真は目を閉じたままだ。

 瑞紀は颯真の右手の厚みを感じながら瞼を閉じた。


 次に目を開けた時には日の光が差していればいい。


 そう思いながら、瑞紀は眠りに落ちていった。




 葬儀は身内と近所の人達が集まって略式で行われた。マサおじちゃん夫妻の顔も見える。清太も今日は神妙な様子で目を伏せている。リキも母親と一緒に来ていた。颯真と瑞紀を見て何も言わずに片手をあげた。


 葬儀は終わり、火葬場で赤ん坊と最後の別れをした。

 赤ん坊が火葬されている間、瑞紀と颯真と瞬は外へ出ていた。火葬場の周囲は小さな公園のようになっていて、瞬ははしゃいで駆け回っている。

 赤ん坊の体が焼けるのに長い時間はかからない。真紀子が瑞紀たちを呼びに来ると、瞬は遊び足りないと文句を言った。


 残ったわずかな骨を拾い、それが小さな箱に収められると、大人たちの緊張が弛んだのが感じられた。

 峰子の夫が運転する車で家路を辿りながら、瑞紀は遠くに見える海を眺めた。 

 いつもの夏と変わらない明るい青の水面が、日の光を弾いていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る