第6話
七月の最初の日曜日、まだ梅雨は明けていないのに太陽が時々顔を覗かせる、過ごしやすい日だった。
ちょうど店は午後の休憩時間に入ったところで、瑞紀はリビングで塾の宿題をしていた。真紀子はパソコンを開いて何か作業をしている。
ノックも無しにドアが開けられた。開きすぎたドアが勢い良く食器棚にぶつかる。
進二が片腕に悠を抱いて入ってきた。
もう片方の腕にはおびただしい数の花を 抱えている。種類も色合いもめちゃくちゃの花の群れはラッピングもされておらず、花束と呼べるようなものではなかった。それを無造作にテーブルの上に置く。
「すごいやろ瑞紀、見てみい」
瑞紀はテーブルに近づき、花に触れた。造花だ。
「間近で見ても本物みたいやろ。セールで買うてきた」
「どうするのよ、こんなに……」
真紀子が眉を寄せる。
「飾ればええやん。家にでも店にでも」
進二は悠を真紀子に預けると冷蔵庫を開けてコーラを飲んだ。
「昼はどうやった、客は」
「まあまあ……忙しいってほどやない」
「梅雨明けしたらまた入るようになるやろ。毎年そうや。人間ておもろいわ。一人一人違うようでいて全体見とったらだいたい同じように行動しとる。二月、六月、九月はどうしても前月より客が減る」
進二が仕事の話を始めると長い。話しながら一人で興奮し始める。留まっていては後退する、どんどん打って出なければ生き残れない、と言う。真紀子や他の従業員らを歯に衣着せずに批判する。お前らは能無しだと言う。
こういう時に瑞紀は心を閉じる。言葉が心の奥まで入ってこないように下唇を軽く噛んで、終わりを待つ。過ぎた後に、とても疲れていることに気づく。
母が視界に入った。真紀子は黙って悠の髪を撫でながら、悠の顔だけを見ている。その様子からは何の感情も読み取れない。
一通り話して気が済むと進二はテレビを点けた。真紀子は瑞紀に布団を敷かせ、眠ってしまった悠を横たえた。そしてまたパソコンに向かう。
悠の寝顔をしばらく見てから自室へ行こうとした瑞紀に進二が声をかけた。
「瑞紀、動物園行こうや」
「えっ」
進二の言動が唐突なのはいつものことだ。それでも毎回、瑞紀は驚く。
「せっかくの日曜、せっかくの梅雨の晴れ間や。こんな日に家におったらもったいない」
「悠はどうするの」
「連れて行く」
「今寝たばっかりやで」
「着くまで車の中で寝かしとったらええ」
進二は悠を抱き上げた。悠がぐずる。進二は構わず歩き出した。
「行くで」
ドアを開け、もう階段を降り始めている。瑞紀が拒否することなど考えもしないのだろう。父の後を追おうとして母を振り返る。
「早く行きなさい。お父さんの機嫌悪うなる」
母が小声で急かした。
進二は泣いている悠をチャイルドシートに乗せると、一人で店の中に入っていった。瑞紀は悠の隣に座って待った。
車内にいつの間にか赤ん坊の匂いが染み付いている。ピンクの膝掛けと玩具が入った小さな籠が置かれていた。
瑞紀は籠の中にケースに入れられたおしゃぶりを見つけた。悠にくわえさせると、ぴたりと泣き止んだ。チュッチュッと音を立てて吸い続ける。目は閉じたままだ。このまま眠ってしまうだろう。
進二が戻って来た。運転席に乗り込むと、古びたセカンドバッグを放り投げるように瑞紀に渡した。予想外の重さに、あっと声をあげる。
「何これ」
「小遣いや。店の自販機の中のやつ溜まってたから出してきた」
バッグを開けると小銭がぎっしりと詰まっている。
「こんなん、持って歩かれへんよ」
瑞紀は進二に気づかれないように小さくため息をついた。
動物園は休日のわりに空いていた。こういう場所も梅雨時は客が少ないのだろう。
車を降りて、ベビーカーを押す。小銭入りのセカンドバッグは膝掛けで隠すようにして車の中に置いてきた。
「悠は動物園初めてやねん。もうはっきり物が見えとるみたいやから、どんな反応するか楽しみやなあ」
進二はベビーカーを覗き込んでにこにこしている。進二が一番楽しそうだ。園内に入ると、瑞紀もわくわくしてきた。久しぶりの動物園だ。
少し歩くとゾウの姿が見えてきた。
ゆったりとした動作。
小さな目。
瑞紀はゾウやキリンなどの大きな動物が好きだ。圧倒的でありながら優しげなその様を見ていると、胸の中がきれいな空気で満たされていくように感じた。
進二は悠を抱き上げた。
「悠、見てみい。ゾウさんやで」
目と口をぽかんと開けて、悠はゾウを見つめる。瑞々しく濡れた瞳は澄みきっている。悠の薄い皮膚の下にある柔らかな肌。小さな手。羽毛のような髪が風にそよいでいる。ゾウが鼻を高く持ち上げると、悠は「あー」と声をあげた。
進二は悠を抱いて気ままに歩いた。瑞紀は空のベビーカーを押してついていく。
進二の好きなサル山の前では、一緒に長い間たたずんでいた。
「サルの群れ見てると、人間見てるみたいな気になるな。ボスはあれやろな。でかいし、落ち着いとる。子ザルが母親に甘えとる。可愛いな子どもは。動物でも人間でも」
そう言って進二は腕の中の悠を見つめ、瑞紀にも微笑みかけた。
「おれの一番可愛い子は瑞紀やで。最初の子やからな。悠は二番目やから可愛さも二番目や」
瑞紀への気遣いでこんなことを口にする進二ではない。本当にそう思っているのだろう。
悠がむずかりだした。腹が減ったのかも知れない、と言いながら、進二は瑞紀に悠を抱かせた。自分はリュックから水筒、哺乳瓶、粉ミルクを取り出す。順が持たせたものだろう。調乳して瑞紀に哺乳瓶を渡す。瑞紀が悠に哺乳瓶を含ませた。ずいぶん慣れたな、と自分で思う。悠の吸い方も上手になった。
瑞紀を見つめながらミルクを飲む悠の顔が、瑞紀は好きだった。
ただ、生きているんだな、と思う。
言葉も言えない。こちらの言葉も理解していない。座れない。立てない。歩けない。
考えようによっては重い障害を持っている人とも言える赤ん坊なのに、とても自由な人のように思えた。
悠はきっと誰のことも憎んでいないし、愛してもいない。
哺乳瓶を吸いながら、悠はまた眠ってしまった。
動物園を出ると、進二は元町の方へ車を回した。パーキングに入ると車を降りてまたベビーカーを押す。
瑞紀は日曜日の元町へはあまり来たことがなかった。親に連れられてここへ来るのは、たいてい店の定休日だ。平日よりも若い人が多いのだな、と思いながら歩いた。
中華街へ向かう進二について行く。進二はここの土産屋をひやかしながら歩くのが好きらしい。不思議な形の置物や変わった帽子などを買いこんで、いつもの料理屋に入る。
奥の席に座っている女性が片手を上げた。順だった。円形のテーブルの向こう側で困ったように微笑している。瑞紀とはもう一年近く会っていなかった。少しふっくらとしている。
「瑞紀くん、元気しとった?」
うん、と答えながら、瑞紀はベビーカーを順の横に止めた。悠は眠り続けている。
店員が注文をとりに来ると、進二はたくさんの料理を躊躇なく頼んだ。瑞紀や順に、何が食べたいか、とは訊かない。進二は土産屋で買ったものを順に見せ、自慢した。順は楽しそうに聞いている。店内を見回し内装をあれこれ批評する進二の言葉に順はいちいち頷いている。
卓の上に大量の料理が並ぶと、順は進二と瑞紀に料理を取り分けて勧めた。
食事中も進二は仕事の話を夢中でし続けた。
「うちの店は俺がおらなどうにもならん。昭は料理はうまいけど、商売のことはまるであかんからな。俺が売ったらなもったいない」
瑞紀は順が次々と取ってくれる料理を、のろのろと食べていた。とても三人で食べきれる量ではない。
悠が目を覚ました。順が抱き上げ、進二はまた調乳した。順が哺乳瓶を悠の口に含ませると、悠は瑞紀が飲ませた時と同じ顔をしてミルクを飲んだ。
結局、料理を半分近く残して店を出た。
空の色が薄い紫色に変わり始めている。進二と順について歩きながら、瑞紀は人も物も紫色に沈んでゆくのを眺めていた。
進二はデパートへ入って行った。順が続く。進二と順は閉店時刻が近い店内でベビー服を見て回った。瑞紀はぼんやりと待った。
目の前にスポーツブランドの肩掛けバッグがぶら下がっているのをなんとなく見ていると、順が側に立った。両腕にベビードレスを数着抱えている。それを片腕に持ち直すと空いた手で瑞紀が見ていたバッグを手に取った。
「これ、買うたげるわ」
「え……ええよ、別に」
「買うてあげたいねん。プレゼントさせて、お願い」
閉店の音楽が流れ始めた。順は肩掛けバッグとベビー服を抱えてレジへ急いだ。
帰りの車には順も同乗した。今日は順の誕生日なのだという。進二は順へのプレゼントのつもりで悠のおもりをかって出たものらしい。半日のんびりさせてもらったと順は嬉しそうに言った。
悠はおとなしくチャイルドシートに座り窓の外を見つめ続けている。瑞紀は悠の瞳に映っては消える街明かりを見ていた。
瑞紀の家に着いた。店にはまだ客が残っているようだ。
瑞紀だけが車を降りた。小銭入りのセカンドバッグは忘れたふりをして車内に置いたままだ。
降りる間際に順が肩掛けバッグの入ったデパートの包みを渡した。瑞紀は少し迷ったが「ありがとう」と言って受け取った。
車のドアを閉めたその時、店から真紀子が出てきた。
瑞紀の顔から助手席の順へと視線を移した瞬間、真紀子の顔がこわばる。
車は発車した。
順は小さく頭を下げて、行った。
店が退けて三階の自宅へ上がって来た真紀子はソファの上に置かれたデパートの包みを見て言った。
「あの女に物もろうたらあかん」
真紀子はノートパソコンを広げ電源を入れた。
「ごめんなさい」
瑞紀は言ったが真紀子はパソコンの画面から目を離さず、無言だった。
次の朝、学校へ行く途中のごみ捨て場で瑞紀は買ってもらったバッグの入った包みを捨てた。
学校に着いても気分は晴れなかった。
三時間目の授業中に吐き気がして教室を走り出た。トイレへ向かったが耐え切れず、途中の水飲み場で吐いた。朝食を摂っていなかったので食べ物はほとんど出てこなかった。黄色い液体がコンクリートの上を流れていく。
後を追ってきた担任が保健委員の男子を呼んだ。瑞紀は北川というクラスメートに付き添われて保健室へと歩いた。
「へんなもんでも食うたんか」
北川が訊いた。
「食うてへん」
「朝飯、何やったん」
「何も」
「それがあかんねん」
保健室に着くと北川は瑞紀が水飲み場で吐いたことを伝えた。養護教師は北川を教室に戻らせ、瑞紀の体温を測った。37度ちょうどだった。
「今朝は何を食べてきたの」
「……トースト」
嘘をついた。何も食べて来なかったと言ったら真紀子が学校から注意を受けると思った。
「もうちょっと栄養のあるもの食べないとね。早寝、早起き、朝ごはん。これ大事よ」
早退はせず、昼まで保健室のベッドで休み、午後は授業に出た。
帰宅すると、真紀子は微笑んでいた。
大きなショートケーキと紅茶を出してくれた。昨日きつい態度をとったお詫びだと言った。
こってりとした生クリームがたっぷりのケーキを食べたい気分ではなかったが、瑞紀は礼を言い、ケーキを口に運んで紅茶で流し込んだ。
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