第22話 千年生きた吸血鬼

 吐息を浴びた瞬間、ぞわりと悪寒とともに甘い痺れが足元から上がってくるようだった。

 背後にいるのは吸血鬼であると本能から理解した。

 咄嗟に洗面器をとって振り向きざまに降りぬく。


「しんけん可愛らしかね、初心ちゃ初心ちゃ」


 しかし、その健気な攻撃は吸血鬼には通用せずに、その腕を掴まれる。

 視線を合わせないように目を細めて視線を下げるが、ちょうどそこに相手の頭があって慌てて横へそらした。

 ずいぶんと小さな吸血鬼だ。しかし見た目に騙されてはならない。どんなに若い吸血鬼であろうとも中身は数百年生きた化け物の可能性があるのだ。 


「わしらに慣れとるみとうね。ほほ。良か良か。そういう子ほど好みなんよ」


 面白いと笑う彼女は、非常に美しい幼女としか思えなかった。

 起伏に乏しい身体であれども、そんなものは根本的な美しいという感覚の前には些事であると思い知らされる迫力があった。

 長い年月を生きた樹木を思わせる爛熟味と瑞々しく若さ溢れた幼さが同居している違和感がよりその迫力を強めているようであった。

 深淵を見つめるような大きな瞳は老獪さを示すがように深い赤色をしていて、すらりと通った鼻梁に細く整えられた眉に彩られて美貌を形成している。

 一糸まとわぬ姿で立つ姿はどこかの王のように堂々としたもので、大物であると理解させられる。


「くっ」


 腕を掴まれただけで身体の自由が利かなくなる。からんと大きな音を立てて洗面器が床に落ちた。

 吸血鬼の少女は値踏みするように悠花の身体を上から下まで眺めて舌で唇を舐める。実に美味そうな人間だと久方ぶりに食欲が疼くのを彼女は感じていた。


「さて、温泉に入りながら血ぅ吸うんも乙なもんじゃろう」

「――ボクのものに手を出す気なんだ」


 血を吸おうと首筋へと顔を近づけられた瞬間、ごうんと威圧が軽い衝撃となって悠花の頬を撫でた。

 セラフィーナが怒りをあらわにしながら少女を見下ろしていた。


「こりゃあこりゃあ、こげなところでお目にかかるるなんて光栄やねぇ。伝説の同族喰い、吸血鬼狩りの吸血鬼、裏切り者クーラリースの怪物」

「へぇ、ボクを知ってるんだ。ずいぶんと長生きしてるみたいだね」

「千年ほど生きとるよ、お嬢ちゃん」

「わぁ、ボクより長生きな吸血鬼は久しぶりだよ、お婆ちゃん。温泉に入りながら血を吸うのも乙なものだよね」


 戦意が高まり、浴室が揺れる。

 少女が両手を上げた。


「降参じゃ」

「降参?」

「うんむ、降参する。だから、血を吸わんといてくれん?」

「…………」

「いやいや、そんなわけにいかないでしょう。吸っていいですよ」

「いや、その前に話した方がいいかな。なんというか福岡の壁と同じ気配がする。あなたでしょう? 福岡に入れる方法を知ってる吸血鬼って」

「ほほ。なんね、それが目的とね。なら、そん通りと答ゆるよ」


 そうなれば益々吸血して殺すわけにもいかない。


「吸うかはそのあとにしようか。貴族を味わえるだなんて初めてだよ」

「できりゃあ殺さんじほしいなあ、なんて思うんやけど」

「嫌だよ。お腹もちょうど空いてるとこだし、話が終わった後に吸うよ。勝負に降参したんだからね。ルールに従ってボクはキミを吸うよ。熟成させたワインのような香りがする、我慢できないよ」


 セラフィーナは、じゅるりと唾を飲んだ。

 吸血鬼と認識した瞬間から香る芳醇な匂いは、ただ嗅ぐだけで気化したアルコールを吸い込んだかのようにくらくらとした酩酊感を呼び起こすほど。


「ほほ。古い吸血鬼しとるねぇ。もうちょっと若いかと思うとったわ。ずいぶんと若々しくてうらやましかね」


 千年生きた吸血鬼は、吸血鬼社会でも数千人程度とかなり珍しい。貴族と称される。

 人間で言えば百年以上生きた老人と似たようなものである。もっともここからもっと生きるし、二千年選手もどこかにいるだろうがセラフィーナは遭遇したことがない。


 大抵の場合長生きした吸血鬼ほど領地に引きこもって植物みたいな生き方をするもので、領地から出ることは非常にまれで早々お目にかかれないのだ。

 百数歳のベネディクトを若造扱いできるセラフィーナも流石に千を越える相手ははっきりと先達であり中々に手を出し辛い相手だ。


「言ってくれるねぇ、お婆ちゃん」

「言うよ、お嬢ちゃん。わしを吸いたけりゃ、もっと強くなってからぃ」

「はは。お断りするよ、既にボクは勝ってる」

「ほほほ」


 多少は敬う気持ちもないわけではない。ただそれ以上に食欲が勝っていた。

 これほどの極上の吸血鬼は他にいない。ここで吸わなければ次はいつ吸えることか。


「本当に同族相手に食欲が湧くのじゃなぁ。同族の血など不味くて吸えたもんじゃなかろうに」

「ボクはみんなと味覚が違うんだろうね。まあ、体質的にはありがたいよ」

「わかったわかった。洗い場じ立ち話もなんやし、湯船につかりながら話そう。安心せい、貸し切りにしちある」

「賛成」

「わしを吸うかはそのあと考えり」


 吸血鬼二人は、そのまま湯船に入っていく。

 捨て置かれた悠花は、数度瞬きをしたのち、かけ湯をしてから二人から離れた位置に座った。

 血を吸われかけたからと言ってこのまま温泉にも入らずに出て行くのは癪だった。

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