第10話 黒狼の胸の奥で

 やばい。

 これはあれだ。


 自殺したいとか思っていない人間が、遺伝子レベルに書き込まれた何かの命令によって突き動かされて死を選ぶ、あれだ。

 希死念慮とか自殺願望とか、そういったものの第二段階。


 自分では止められない、絶対の命令のような物が、洋子の全身を無意識のうちに、死ねる場所……すなわち、テラスから飛び降りようと、突き動かしていく。


「助けて!」


 死にたくない。

 もう二度と、あの永遠の孤独に近い精神の境目を、さまようのは嫌だ。


 大声でそう叫ぶと、真っ先に届いたのは意外にもリンシャウッドの腕だった。

 がっしりと洋子の小さな腕を掴んで、なにがなんでも離さないといった感じに万力のようなたくましい力で支えてくれる。


 少しずれて、シオンライナが全身を抱きとめてくれた。

 助かる。死ななくていい。生きていていいんだ。初めて、生き残れる喜びを、洋子は身をもって体験した。



 とても優しい手だった。出て行った母親を思い出す。もうあの手に触れることができないと思ったから、家を出たのをまた思い出して、悲しみが深くなる。

 でも、シオンライナとリンシャウッドの手はこのままずっとそこにあって、居なくなることはないんじゃないかと思うくらい、二人は洋子にとって大きな存在なっていく。


「助けて……。離さないで、身体がおかしいの! 逃げられない」

「大丈夫。離さない。戦闘中とかにたまにあるからよく分かる。立ち向かわなくていいから、落ち着いて。いい?」

「うん……。ある、んだ」

「あるよ、ある。兵士はみんな恐怖感が麻痺して、慣れてしまって克服するの。だから大丈夫。気にしなくていい。誰にでもあるから」


 いや、それはこの世界特有では? というツッコミが数多のどこかで入り、冷静な自分を発見する。そこに意識を集中すると、なんだか落ち着き始めた。

 コクコクとうなずくと、リンシャウッドは両方の手でシオンライナごと、洋子を抱きとめる。


「絶対に離しませんから。だから、もう大丈夫。ね?」

「分からないけど、ありがとう」


 黒狼の手は、意外にも肉球が無かった。普通の手だ。獣人なのに変なの。

 頭だけ冷静で、他の部分が消えようとする衝動に駆られているだけ。それを実感すると、どうにかできそうな気がした。


 私の肉体を返せ、勝手に乗っ取るな、これは――私のものだ、みたいな?

 身体がゆっくりと自分の制御下に戻ってくる。もうそろそろ落ち着いたかも? 洋子の状態を見てリンシャウッドが焦りながら、ごめんと謝罪した。


「ちゃんといろいろと教えてあげるから。いじめて悪かったわよ」

「リンシャウッドが追い詰めるからこうなったかも」

「はあ? この……」


 軽口を叩いてやると、黒狼は洋子の頭を掴んで髪の毛をくしゃくしゃ、と撫でまわしてくれた。

 シオンライナは豊かな胸に洋子の顔を押し付けて離さない。これ、男子だったら至福の時間だろうなあ、と思ってしまった。


 ひぐっ、ひぐっ、えぐっ……びいいいっん。

 心が落ち着いたら今度は安心したせいか、涙がとめどなく溢れ出て来てしまい、止まらない。


 重度の花粉症患者になった気分で、鼻腔を詰まらせる原因となった鼻をかんだ。


「うわあ」


 勘弁してー、シオンライナはそこまで言わず、よしよしと頭を撫でてくれる。

 なぜだか分からないが、黒狼の尾は不満気にゆらゆらと揺れていた。


 ごしごし、ぐいぐいっ。

 シオンライナの胸で涙で濡れた顔を拭き、ようやくふう、と一呼吸。


 落ち着いて、ん? と辺りを見たら困り顔のシオンライナと黒狼が二人揃って洋子を見下ろしていた。


「落ち着いた?」

「ん。たぶん」

「じゃあ、降り……」

「や!」

「服を着替え」

「やだ!」

「このままだとあなたも汚れたままに」

「絶対、いやだ!」

「えええ」

「懐きすぎじゃない、ヨーコ。図々しいよ」

「ふん! でもありがとう。リンシャウッド、大好き」


 いつも間にか、精神まで外観と同じように退行してしまったのかな、と思いつつ感謝を口にする。

 じいっと見つめると幼い外見が庇護欲をそそるのか、リンシャウッドは「可愛いっ」と口にしてまたなでなでしてくれた。


 それから、おいでおいで、と腕を大きく広げて洋子を誘う。

 くノ一と黒狼。どっちの胸でくつろぐべきか、などとおっさん臭い思考をしていたら、選ぶ前に選択権を失った。


 シオンライナが洋子をリンシャウッドに預けてしまったからだ。


「着替えるから、宜しくね」


 うむ。黒狼の方が見た目に寄らず、豊満だった。

 鍛え上げているからか、こっちの方がいろいろと弾みがいい。いや違う、そこじゃない。


 あれを閉じて貰わないと、また飛び降りたくなるかもしれない。

 いまは何もかもが、不安の原動力で、洋子はひとつひとつ、それを解決していかなければならなかった。


「窓!」

「へ? 窓? 開けたままがいい?」

「違うの! 閉めて! 飛び降りたくなるから……今だけ」

「ああ、そういうことは早く言わないと。分かりました」


 リンシャウッドの胸深くに頭を埋める。

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