轟け無垢な羨望

あだむ

プロローグ

 女子バレー部を揺るがす大事件の翌日、俺は雪山で蝉の鳴き声を聞いた。

「そういうことだから、来週の大会は出られないよ……このままじゃ」

 大量の参考書が詰め込まれた本棚が、俺……瀬川健太と、工藤美鈴を冷ややかに見守っていて、衆人環視さながらの息苦しさを感じた。

「嫌です」

 切れ長い形をした目と、清潔感を必要以上に主張するように短く切られた髪が、美鈴が醸し出す威圧感を増大させた。どこか不満げに、少し上目遣いで見つめられ、俺の下半身は思わず縮こまった。中学生だった頃、やたら大きい声で怒鳴る教師の声を聞いたときのような気持ちになった。

「大会に出たいです。何とかならないんですか」

 無理に決まっているだろう……バレー部は休部だよ。事務的に、かつ極めて冷徹に吐き捨てたくなる気持ちが生まれたが、美鈴の圧に阻まれた。いたたまれないような気持ちになり、ここに他の生徒が入ってこないことを祈った。

「んー……なんとも言えないよ」

「私、大会に出たいです」

 美鈴の槍のような視線が、俺の体内のありとあらゆる邪念を突き刺し、深いため息として体外に押し出した。これだからバレー部の顧問は嫌なんだ。バレーというスポーツは嫌いではないだけに、「部活動顧問」という教師の「仕事」がいかに罪深きものであるかを俺はしみじみと感じた。

 部屋のドアの脇にかかったカレンダーを見た。今日は火曜日で、五日後の日曜日、女子バレー部の大会が予定されていた。都立高校大会の決勝リーグ。都内の公立高校が一斉に競い合う、準公式大会。十一月の新人戦で無念の敗退を喫して三ヶ月、雪辱を誓い、キャプテンの美鈴を中心に一致団結して練習に励んでいた成果が思わぬ形で出た。都立高校大会の予選突破。クジ運が良かったことが大きかったが、たった六人で頑張ってきたことへの周囲の反応は温かく、学校内でも注目を浴びた。

「うーん、まぁ、でもなぁ……」

「もう一度話せばいいじゃないですか……あーめんどくさい、それじゃ私がみんなと話しますから」

 キョウシニムカッテナンダソノクチノキキカタハ。やや使い古された叱責の決まり文句でさえ、言えなかった。美鈴の唇の片側だけが釣り上がっていたのが俺の心を威圧した。長い間一定の値をキープしていたのが急に値が増大したことを示すせっかちな折れ線グラフのような形のそれは、美鈴の「不機嫌値」が最大領域に達したことを示す不吉なサインだと俺は認識していた。

「……一度、尾口先生と話し合う。それからまた呼ぶから」

 せめてもの意地で、美鈴の言葉に正対していない返答を選んだ。「尾口」という名前が出た途端、美鈴の目が俺から逸らされた。

 ドアが開き、生徒が数名、参考書を片手に入って来た。顔を土色にしてうつむく俺と、険しい顔をして俺を睨みつける美鈴の姿が、彼らの足を止めた。

 他の生徒に見られたくないと願ってはいたが、いざ生徒が来ると、途端にそれにすがりたくなった。普段の授業で信頼関係を築いて来た彼らに対してなら、俺はフランクに接することができた。

「お、質問?」

 入り口でたたずむ男子生徒たちは、美鈴をチラチラ見ながら、恐る恐るといった緩慢さで首を前方に動かした。

「オッケー、ちょっと待ってて」

 俺は美鈴に少しだけ顔を近づけた。声量を意識的に落として退室を促そうとしたが、ワンテンポ早く美鈴が腰を重そうに上げた。そのまま、ドアの近くで立ち尽くす生徒たちの方へ向かったが、立ち止まり振り向いて

「私、このままじゃ納得できませんから」

と言い残し、生徒たちの間を通り抜けて行った。進路指導室の空気がそこにいる者たちを圧迫し始めたように感じた。

 俺は顧問なんだぞ、俺がいなかったらお前は部活ができないんだ、ちょっとは敬意を払いやがれこの野郎。決して言葉に乗せられることはない叫びが俺の十二指腸をつたって身体中に響いた。ワンテンポ遅れて、体温が上昇したのを俺は苦々しく感じた。指導が必要な場面でとっさに叱ることができないのが俺の最大の欠点だ。それは普段の授業でも言えることで、自分のデスクで何度後悔したかわからない。

 俺は気持ちを切り替え、生徒たちに声をかけた。

「お待たせ。どうした?」

「あの、わからないところがあって……授業でまだやってないところなんですけど」

「いいよ、ここに座って」

 瞬く間に生徒たちに囲まれた。

 彼らにとって、未知の結晶とも言える英文。俺が書き込みをして構造を解析していく度に、彼らから驚嘆の声が漏れた。飛び出す追加質問。今この瞬間、俺は一人の「教師」となった。

 生徒と一緒に勉強するひと時、進路指導室で進路を一緒に考えるひと時。これらの瞬間が、俺を俺らしくして、自由にしてくれた。美鈴と共に過ごすひと時、俺は「奴隷」だった。バレー部なんてくそくらえ。顧問なんて二度とやるものか。ざまあみろ、俺は自由だ。

 よし、今日はここまで。続きは明日の授業で……そう言いかけた時、ふと、彼らのクラスの授業風景を思い出した。その中には、バレー部のバッグを机の脇にぶら下げた、三人の顔があった。櫻子、ほのか、そして柚月。

 バレー部なんてくそくらえ。櫻子も、ほのかも、柚月も、心のどこかでそう思っていたのだろうか。気づいてやれなくて、ごめん。

 生徒たちを帰して、俺は自分のデスクに戻った。俺が勤めている高校の進路指導室は部屋が二つに分かれていた。進路指導部に属する教師たちのデスクなどが置かれた「進路部エリア」、そして生徒が自習をするスペースがあったり進路相談をできるブースが設置されている「進路相談エリア」。今、俺は進路部エリアにいることになる。デスクの右側の三段の引き出しの一番下、少し広めにスペースがとられている引き出しを前に引く。黒く、色がところどころはげてねずみ色の傷がついたような、野球用グラブが顔を見せていた。俺はそれを手に持ち、デスクの上に置き、見つめた。業務用のパソコンや英語の参考書と隣り合わせに置かれたそのグラブは、ひどく場違いなイメージを召していた。

 隣でドアが開く音がして、程なくして進路指導部主任の教師が姿を現した。俺のデスクの上を見てこちらにやってきた。俺は慌ててグラブを隠そうとしたが、まだ緊張との付き合いは終わっていなかったようで、身体が上手く反応しなかった。

「あれ、瀬川さん野球やってたんだっけ?」

「いや……水泳です。これは、外の廊下に落ちてて」

「ありゃ、野球部に仕業かな?尾口さんに絞られちゃうね、こりゃ」

「ですね……かわいそう」

「そういえばさ、瀬川さんって映画会社にいたの?」

「あ、そうですよ。言ってませんでしたっけ?」

「いや、聞いてたのかもしれないけど、忘れてた。さっき職員室でちょっと話題になってさ、確かに民間企業にいたってのは知ってたけど、映画会社なんてすごいじゃない」

「小さい会社でしたけどね、まぁ海外の映画祭にも行かせてもらえたし、悪くはなかったかな」

「そっかぁ。でもなんでそこから教師になったの?映画って結構畑違いだと思うけど」

 なんで。俺はなんで教師になったんだろう。そう、何のために俺はバレー部で嫌な思いをさせられているんだっけ?

 恩師の影響で、と言ってお茶を濁し、グラブを届けるため尾口の元へ行く、と言い残して、グラブはこっそり引き出しに戻し、俺は進路指導室を出た。

 進路指導室を出て右に曲がり、十秒ほど歩くと体育館へと通じる渡り廊下に繋がる出口に着く。そこを出てまっすぐ進めば体育館と、体育科準備室がある。尾口はそこにいると思われた。グラブのことはでまかせだが、尾口に会いに行くというのは紛れもない事実だった。

 体育科準備室に向かう途中、青を基調にした、宇宙の景色をそのままプリントしたようなトレーニングシャツと白い短パンを履いた男子生徒たちが俺を追い抜いて行った。男子バスケ部の子たちだ。俺に向かって「ちわっ」と挨拶をしてくれる。部活って本来こういうものだよな。俺は切なくなった。

 たった六人のバレー部。俺を苦しめ、振り回したバレー部の、貴重とも言える六人。精鋭とも言える六人。そのうちの五人が、揃って退部を申し出たのは、つい前の日のことだった。

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轟け無垢な羨望 あだむ @smithberg

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