P04 事故から数日経っても蒼汰は、私を知らない人のように接した

 事故から数日経っても蒼汰は、私を知らない人のように接した。


「ごめん、どこの学科だっけ……。おれとは別?」


 何度か説明したことをまた聞き返された。病室で最初に話した記憶があいまいになっていると言う。


「うん、私は心理学科だから文学部なの。蒼汰は写真を勉強していたでしょう?」

「それは知ってる」


 自分のことは覚えてんだよな、とつぶやいている。少し喋ると、「疲れたみたいだ」と眠ってしまった。


 他にも、例えば事故の前に二人で行ったカフェのこととか、そのとき頼んだ飲み物がクリームソーダだったこと、一緒に行った美術館や印象派の絵のことも、すっかり記憶から抜け落ちていた。


 はっきりと覚えているのは、兄の涼介さんのことや、外国に住んでいるカメラマンの父親のこと、早くに亡くなったお母さんのこと、写真を撮るのが好きで大学の芸術学部で勉強していること。同じ写真学科の仲間のことや、住んでいるマンションの住所も。


 それ以外のことは覚えているかもしれないし、いないかもしれないと言っていた。本人に喪失感がないので確かめようがなかった。


 私は複雑な気持ちだった。


 病院に運び込まれた彼の姿を見たときは、「命さえ助かってくれたら何もいらない」と思っていた。私を覚えていないと言ったときには驚いたし腹が立ったけど、時間が経てば解決すると軽く考えていた。


 それに私は心のどこかで、これは蒼汰の悪ふざけなんじゃないかと思うこともあった。


 嘘をついて他人をからかうようなタイプじゃないけど、そうだったらいいなと願っていたのだ。だが何日過ぎても、きのうも、きょうも思い出せないと私を前に考え込んでいる蒼汰の姿を目にすると、「正気だったんだ」とだんだん恐ろしくなってくる。


「気を悪くさせてたらごめんな」


 一応は謝ってくれるし、記憶を取り出そうと努力はしてくれるので責めることはできない。彼が何かを考え込んでいるときの、ぼうっと中空を見つめる切なげな表情。目にかかりそうな前髪と、あらわになった喉の出っ張り。外見だけなら、いつもの蒼汰そのものだった。


 脳神経外科医のたちばな先生は、面談室で私と涼介さんに向かって言った。


「MRIでは何の問題もないんですよ」


 蒼汰の病状について説明を受けていたときのことだった。最初は家族にしか話せないと断られたが、無理を言って私も聞かせてもらった。


 橘先生は私にもわかるようにホワイトボードを使って、ここね、と脳のいくつかの部位に青ペンで丸や線などの印をつけながら説明していく。印のついた複数か所に打撲を負った衝撃で、一過性の記憶障害が生じているのではないかというのが先生の見立てだった。


「いつごろ元に戻りそうですか?」

「さあ、患者さん次第と言うほかないですね」


 橘先生は困惑気味に、特定の人間を忘れてしまうケースを自分は今まで診たことがないと頭をかいた。脳の血流に問題はなく、萎縮も見られず、若年性認知症や脳腫瘍などの重篤な病に繋がりそうな兆候も見当たらないという。


「大丈夫、きっと一時的なものですよ。優しく見守っていきましょう」先生が励ますように明るい声を出した。


 私はうなずくまでに時間がかかってしまった。自分の存在を忘れられた経験はこれが初めてじゃなかったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る