忘却の彼氏

天沼ひらめ

プロローグ

P01 結愛、こっち向いて

結愛ゆあ、こっち向いて」


 遠くで私を呼ぶ声がする。

 あたりを見回すと、さっきまで夢中で東京タワーを撮影していた蒼汰そうたが、カメラのレンズを私に向けているところだった。


 空の色がきりかわる夕方。桜が咲き乱れて、花のにおいでむせかえるような暖かな日だった。


「今は撮っちゃだめ」


 風で乱れた髪を手ぐしで整えながら笑いかけると、何かが柔らかく視界の左端で光った。レンズ越しに目が合ったのかもしれない。


 蒼汰はカメラを構えるのをやめ、スカートについたほこりを手でぱんぱん払う私を見つめながら目を細めている。今度は本当に視線があった。

 彼はそばに来て、私の前髪についた桜の花びらをつまむとこう言った。


「この瞬間を閉じ込めたくなるときがあるよ。写真にはそれができるって信じてたけど、結愛のことだけは無理みたいだ。もう何枚も撮影してるのに、つかまえられた気がしない。どうやったら、できんのかなあ」


 指先で花びらをもてあそびながら考え込んでいる蒼汰を、私はただじっと見上げていた。視線に気づくと彼は照れくさそうに顔を綻ばせ、それを誤魔化すように私を抱きしめる。思ったより強い力だった。


「おれ、結愛とずっといたい。今日のこの気持ちを絶対に忘れたくないよ」


 懇願するような声だった。


「うん、私も同じだよ」私は蒼汰の胸からやっとのことで顔を上げて、両手で彼の頬を優しくはさんだ。


「大丈夫。何の問題もないよ」


 蒼汰はうなずくと、私の手を包み込むようにして自分の手を重ねた。三年前、蒼汰は事故に遭ったことがきっかけで、私の記憶をなくしてしまったことがあったのだ。原因はいまだによくわかっていない。


 彼が私の手をぎゅっと握ると、二人の薬指に嵌められた指輪が優しくぶつかった。


「これさえあればいいの」


 私たちは一緒に生きていく。

 目をつむってお互いの温かさを手のひらで感じながら、改めてそんなことを思った。

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