第三十九話 結論を急く

 逃げていった篤保とくもりの名残を眺めながら、志乃は短く息を吐いた。


 詠月が直に志乃の部屋へやってきて来客を追い返すことは、以前からあった。彼に話を聞かれる可能性がどれくらいかなんて簡単に想像できただろうに。


「なんで急にあんなこと言い始めたんだろう……」


 誰にともなく呟いた疑問だったが、返答があった。


「都合よく羽麻子がいたものですから、利用しようと考えたのでしょうね」


 底冷えする声である。伸びやかでよく通る音色なだけ、なお悪い。

 振り向く勇気が出なくて、志乃は沈黙でもって続きを促した。


「派閥という言葉はあまり好きではないのですが……まあ、仕方ありません。羽麻子は、私を慕っているという点において、一応、篤保と同じ詠月派に属していることになります」


 詠月が一呼吸置いた。「自分で言うのも馬鹿馬鹿しいですね」と嘆息する。


「とにかく。晴時をこき下ろして私を持ち上げれば、同じ派閥である羽麻子は賛同してくれる、と思いこんでいたわけです。そして羽麻子はここのところ志乃と仲良くしていますから」

「私が羽麻子さんに同調して、詠月様派になるだろうって?」

「篤保が考えそうなことです」


 志乃はリアクションに困った。いくらなんでも、そこまで馬鹿ではない。


「いい機会ですから、彼を処分しましょうか。志乃への来客が絶えないのも、もとはと言えば、篤保が率先して禁を破ったせいですし」


 ね、と同意を求められたが、曖昧に頷くに留めた。


「えっと、それは、ハルさんと相談してください?」

「そうします……さて」


 部屋の前に立ち続けていた詠月が部屋に入り、腰を下ろす。先ほどまで篤保が座っていた位置である。羽織の裾を払って、手にしていたものを抱え直すその姿を視界の端に捉え、志乃はふと思った。


(あれ? そういえば、詠月様はどうしてここにいるんだ?)


 羽麻子が詠月を呼んでくる間はなかった。すずはこの場にいなかった。

 詠月の召喚が必要だと判断して呼びに行ってくれるような人は、ひとりもいなかったのである。


「志乃、羽麻子。ふたりとも、そこに直りなさい」

「ヒェ」

「はいっ」


 志乃は跳び上がり、羽麻子がぴしりと背筋を伸ばした。

 恐る恐る振り返れば、篤保を睨んだときよりもよほど苛立った黄水晶が、志乃を貫く。


「志乃、早く」

「ハイッ!」


 飛び込むように羽麻子の隣へ着座した。羽麻子と同じようにぴんと背筋を伸ばして、詠月に向き直る。


「あなたたちには聞きたいことがあります」


 詠月は笑っていた。目も笑っていた。それがなおのこと怖かった。

 彼は閉じた扇を手のひらに打ちつけるがごとく、抱えたものを叩いている。気になって仕方がなかったが、突っ込む余裕はなかった。詠月が志乃の視線を捉えて、逸らすことを決して許さないからである。


「どうして私に一言も相談しなかったんです? 特に羽麻子」

「はいっ!」

「あなた、毎日のように私のところに来ていますね?」


 羽麻子は何度も頷いた。壊れた機械のようだった。


「篤保が志乃のもとに来ていることも知っていましたね? 今日だけでなく、ここ最近ずっと」

「は、はい」

「彼が先ほどのような話ばかりを志乃に聞かせていることも?」

「存じ上げておりましたわ」


 しおしおと答える羽麻子は、枯れかけの牡丹のようだった。心なしか、簪や着物に写る花びらも萎れているように見えてくる。


「私に話す機会はいくらでもあって、志乃が困っていることも知っていた。にも関わらず、何も言ってこなかったのはなぜです?」

「ごめんなさい……」

「謝罪は結構」


 か細い羽麻子の声は、ぴしゃりと叩き落とされた。


「いったい何があったんです? 篤保に何か言われたのでしょうが……原因はそれだけではありませんね?」


 志乃も羽麻子も、居心地悪く身じろぎをした。横目で互いの様子を窺う。


 思い当たる節なんて、ひとつしかなかった。


  ◇ ◇ ◇


 志乃と羽麻子は詠月に気圧されて、洗いざらいを吐いた。


 勉強会の途中、志乃の今後の話になったこと。羽麻子に図星を突かれた志乃が黙り込んだこと。気まずいまま解散したこと。

 そのまま、ぎこちない態度で接し続けていること。

 篤保がふたりの不仲をつついて嘲笑ってくるので、誰にも言いつけることができなかったこと。


 志乃と羽麻子がしどろもどろに語る一部始終を聞き終えた詠月の感想は、簡潔だった。

 そして何より、残酷だった。


「しょうもない……」

「しょっ!?」

「あんまりですわ、詠月さまっ」


 あろうことか、彼は深いため息をついて天を仰いだのである。空いた手では、抱えているものをこれでもかというほど握っていた。力を込めすぎて関節が白くなっている。


「羽麻子、あなたはどうしてそんなに志乃に遠慮しているんです」

「それは……わたくしが、志乃を傷つけるようなことを言ってしまったのではないかと思って……」

「それで、志乃は?」

「……な、何もかもが羽麻子さんの言うとおりだったので、その」


 あとが続かなかった。たっぷり十秒は待って、詠月があとを引き取る。


「拗ねたんですね?」

「う……」


 そのとおりだった。首から熱が上ってくる。あまりの恥ずかしさに、志乃は穴を掘って埋まりたくなった。


「しょうもない上にくだらない。羽麻子の理由は可愛らしいぶん、まだいくらかマシですが……志乃、あなたですよ。あなたがもう少し素直になっていればこうもこじれたりはしなかったでしょうに」

「申し開きもございません」


 背中を丸めて項垂れた。本当に、何も言い訳ができない。


 ここまで詰められては、もう逃げることもできなかった。

 志乃はアルマジロのように丸くなったまま、膝で畳を擦る。のろのろと体の向きを変えて、羽麻子に向き合った。


「羽麻子さんが言ったことは何も間違ってない。あなたは悪くないよ。私が勝手に塞ぎ込んだだけなの」

「でも、わたくし、あなたに嫌な思いをさせてしまったわ。そうでしょう?」

「してない。今、詠月様にも言ったけど、ただ、図星を突かれて……」


 そのあとは、やっぱり続かなかった。ただ頬が火照るだけで、言葉が出てこない。

 助け舟を出したのは、またもや詠月である。


「羽麻子が言ったことが正論で何も言い返せなかったので、子供じみた八つ当たりをしただけですよ」

「ちょっとは手加減してくださいっ」


 たまらず志乃は、畳に突っ伏した。もう顔を上げられない。

 ただ、話すことはやめなかった。


「だから、羽麻子さんが申し訳なく思う必要なんてないの。私こそ、羽麻子さんを困らせて……ううん、私のほうが、羽麻子さんに嫌な思いをさせた。ごめんなさい」


 正座のまま突っ伏した妙な体勢のせいで、外から見た志乃は、土下座をしているようだったろう。


 羽麻子が返事をするまで、かなりの間があった。

 重たい沈黙が畳に落ちる。


 そうこうしているうちに顔を上げるタイミングを見失って、志乃はこのまま、畳とくっついて生きていくことになるのではないかと、やや斜め方向に不安を抱いた。


「羽麻子さん、わ、私ね」


 不安になって、言うつもりがなかったことまでもが、口からこぼれていく。


「羽麻子さんに言われるまで、もとの世界のことなんて一度も思いださなかったの。家族のことも、一度も考えなかった。帰りたいとか帰りたくないとか、そういうことも、最初から頭になかった。神力を返さなきゃって、それだけはずっと考えてたけど」


 志乃が「もとの世界に帰ること」を目的に動いたことは一度もない。


「神力を返したとき、私がもとの世界に帰れるなら帰るし、帰れないなら帰らないし……どうなっても、それが私の道なんだって思ってた、気がする。でも、羽麻子さんに言われて」


 帰るか帰らないかは、志乃が自分の意志で考えなければいけないことだったのだと気づいて。


「神力を返したあとはどうするべきか、私が、選ぶんだって」


 気づくと同時に、同じような場面が、自分で選択するべき場面が、今までの志乃の人生で何度もあった事実に思い当たって。


(――あれ?)


 思い当たってしまうと、志乃が無意識に、手元に残すことができたはずの――かつての友人たちを、自らの手で捨ててしまっていたことを知って。


(私、結局――)


 捨ててしまったものから目を逸らして、帰りたくないと思って。


(結局、自分がどうしたいのか、は)


 そこで、考えることをやめた。逃げたのだ。

 あのときの「帰りたい」はただの逃避だった。


 志乃は結局、どうしたいのか。答えは出していない。


 たとえばもとの世界に帰ることを選んだら。

 晴時にも、羽麻子にも、日ノ倭国で出会った人々すべてを手放すことになる。


 たとえば日ノ倭国に残ることを選んだら。

 母や祖母には二度と会えなくなる。新しい学校でやり直すことができなくなる。志乃は、何も選ばなかった志乃のままだ。


「……わたしは、どうすればいいんだろう」


 考えれば考えるほど、深みにはまっていく気がした。志乃の中の天秤がうまく働いてくれない。何が重要で、何がそうでないのかがわからない。


 今の志乃が手元に残したいものとは、何だろう。

 答えが出せなかった。


「志乃、顔を上げてちょうだい」


 肩を掴まれた。持ち上げられて顔を起こすと、眉間にぎっちりとシワを寄せた羽麻子が、志乃を見つめていた。


「わたくしの言葉があなたを追い詰めたことに変わりはないじゃないの。あなたの謝罪は受け入れてあげるから、私の謝罪も受け入れなさい。悪かったわ」

「でも」


 羽麻子の両手が志乃の頬を挟んだ。風船を力任せに割ろうとするときのような容赦のなさで力を込められる。


「いひゃい」

「許すの許さないのどっち!」

「ゆるす、ゆるしますっ」

「よろしい」


 頬が潰れるかと思った。


「あのね、志乃。もちろん、今後について考える必要はあるわ。でも、だからといって今すぐに結論を出さないといけないわけではないのよ。まだ猶予はあるのだし……」


 そこまで言うと、羽麻子は迷ったように詠月を見た。

 詠月が頷いて寄越す。


「まだ御神体も見つかっていませんからね。身の振りかたを考えるには十分でしょう」

「だ、そうよ。だから焦らなくていいの。もとの世界に帰りたいと思える何かも、日ノ倭国に残りたいと思える何かも、きっと、これからの志乃が見つけるはずよ」

「……ありがとう、羽麻子さん。私、ちゃんと考えてみる」


 羽麻子は口元をほころばせた。

 いつものふんぞり返るようなものではなくて、ごく自然な笑顔だった。普通に笑うと、つんと吊り上がった目尻もやわらかくなるのだ。


 残るか、帰るか。結論はまだ出せないけれど。


(羽麻子さんに会えなくなるのは、やだな)


 ひとまず、それだけは心に留めておくことにした。

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