第二十八話 見送りを拒否される

 学校で陰陽師について深く学んだことはない。


 だから志乃が持っている知識というと、創作を多分に含んだ漫画やアニメに限られる。彼女自身はそういった作品を好んで見るたちではなかったので、ほとんどが人づてに仕入れたものだ。熱心な友人が重厚な解説とともにおすすめしてきて……という具合である。かなりの偏りがあった。

 しかしその偏った知識の中でも、疑いようのない事実はある。


 たとえば安倍晴明の存在。

 志乃が羽麻子に聞いた中で一番興味を持ったのも、彼についての話だった。




 薄暗い書庫でその名前を聞いて、まず志乃は驚いた。開いた書物に描かれた、上手いのか下手なのかわからない肖像を指す。


「この人、私のいた国……世界でもいたよ。千年くらい前だけど」


 それを聞いて、羽麻子も目を丸くしていた。当然だ。異なる世界で、同じ人物が、まったく同じ分野で活躍している。偶然にしてもできすぎである。


(そういえばあの神社も……ぼろぼろだったけど、本殿の位置とか、広さとか、ぜんぶ日ノ倭国ひのわのくにの楸神社と同じだったな)


 日本と日ノ倭国。名前も似ているといえば似ているし、まったくの別世界ではなく、長い歴史のどこかのタイミングで道を分けたパラレルワールドだと考えたほうが正しいのかもしれない。それなら、志乃が突然ぽんと世界を飛び越えてしまったことも――もちろん、異世界に転移するなんてことが現実的かどうかはさておいて――理解できるような気がする。


 閑話休題。


 志乃が安倍晴明の名前に反応した理由は、もうひとつある。

 日ノ倭国では彼が「せいめい」ではなく「はるあき」と呼ばれていたことだ。耳を撫でた音の響きに聞き覚えがあって、志乃は違和感を抱いたのである。


「……あ、ハルさんか」

「何の話かしら」

「いや、名前。晴時と晴明はるあきって似てるなって思ったの」


 どうりで聞いた気がするわけである。


「たしかに似ているわね。晴時さまのお名前の由来なのかもしれないわ」

「かつての陰陽師と同じ、妖怪退治を担う家の子供だから……とか?」

「どうかしら。気になるなら、ご本人に聞いてみたら?」

「いや……それは……」


 とたんに鉛を飲んだような重みがずっしりと胸にかかった。

 ここ最近、晴時に避けられているらしいことを思い出した志乃は、話をここで終わらせたのである。




「志乃様、どうかされましたか」


 横から声をかけられて、志乃は我に返った。いつの間にかすずが隣にきている。

 焼き魚をほぐそうとしていた志乃の箸は、ふっくらした白身に先端をうずめたまま静止していた。途中から食事もそっちのけで黙考していたらしい。


「……なんでもない。ちょっと考えごとしてただけ」

「お魚の骨が喉に引っかかったりなどは」

「してないよっ」


 子供じゃあるまいし。志乃はぶんぶんと首を振った。


「お考えに耽るのは結構ですが、温かいうちにお召し上がりくださいね。夜も冷えてまいりましたから」


 言い置いてふたたび下がったすずに頷いて、今度こそ食事に集中する。勉強のことは、勉強をしているときに考えればいい。

 晴時のことは……。


(やっぱり嫌われたんだろうか)


 日ノ倭国に来て以来面倒ばかりかけていたし、これ幸いと関わりを断とうとしているのかもしれない。そうなったら、志乃が拗ねるのは筋違いというものだ。会いに行くなんて軽率な真似も、するわけにはいかないだろう。


(いや、別に、ハルさんがいなくても困ってないし。いいんだけどさ)


 不毛なことを考えるのはやめよう。

 自分に言い聞かせて、志乃は秋刀魚の身をむしった。


  ◇ ◇ ◇


 間宮家本邸の裏側は、前庭とは比べものにならないほどに質素だった。


 出入りが家の者や使用人、あるいは商人に限られるからだろう。地面は剥き出しで、あちこちに小石が埋まっている。最低限均しただけ、といった様相だった。

 昼間はせわしなく働く使用人や、間宮家に売り込みにきた行商人の姿が絶えず行き交っていて賑やかなのだが、今ばかりは人っ子ひとりいない。


 それも当たり前のことである。

 夜も更けた今、満天の星が頭上を飾っていた。


 裏門を目指して歩いているのは、仕事着の羽織袴をまとった晴時と、彼に連れられた馬だ。門の外には見張りが立っているが、彼らの様子を中から窺うことはできない。


 一応、この場にいるのはひとりと一頭だけ、ということになる。



「道中、頼んだぞ」


 晴時は実に気安く馬の首を叩いた。


 彼の愛馬は以前、芽柏の跡地をねぐらにしていた双頭蛇に喰われてしまっている。


 これから旅路をともにしようとしているのは、あれから晴時が新たに選んだ一流の馬――新たな愛馬になるかもしれない黒馬だった。かつての愛馬よりずいぶん気性が荒く、とにかく人間すべてが気に入らないようで、誰が相手でも必ず一度は抵抗する。晴時に対しても変わりはなく、鞍を置く際にずいぶん振り回された。

 しかしそれがまた、晴時が気に入った部分でもあった。ただおとなしく従うよりも気骨があっていい。


 晴時をひととおり困らせて満足したのか、問題の黒馬は、今はおとなしく手綱を引かれて裏門までやって来ている。

 ひらりと羽織をひるがえらせて鞍にまたがった晴時の耳に、慌ただしい足音が届いた。


「あ、晴時! いた!」


 足音だけでなく、声までうるさい。晴時は短い舌打ちをして「なんだ、騒々しい」と背後を睨んだ。


「もー、夜中にこっそり出ていくのやめてよ。数日ここを空けるんでしょ? ちゃんと見送りをね」


 真也である。寝間着のまま、長屋を飛び出してきたようだった。どうして晴時の不在に気づいたのか、甚だ疑問である。


「いらん」

「いらんじゃなくて、志乃ちゃんに」

「なおさらいらん」


 晴時は馬に合図を送った。

 門外へ向かった黒馬に、真也が焦った声を出す。


「ちょっとちょっとちょっと!」


 はた迷惑なことに、彼は回り込んで進路を塞いだ。これでは晴時も、手綱を引くしかない。


「もうずっと志乃ちゃんに会ってないでしょ? 志乃ちゃん、晴時に嫌われたんじゃないかって心配してるって、羽麻子様が言ってたよ? 誤解させたままでいいの?」

「誤解だろうとそうでなかろうと、俺には関係のないことだ。会う必要もない」

「駄目だってば!」

「おまえもわかっているだろう、真也」


 晴時がいっとう強く言うと、彼を睨んでいた真也も押し黙った。晴時の苛立ちが伝わったのか、手綱を取られた黒馬が不機嫌そうに嘶く。


「家の連中は、神子と……志乃と親しいほうが当主の座を得ると頭から信じ込んでいる。俺が必要以上にあの娘に近づけば、詠月様のお立ち場が危うくなるのだ」

「それは、そうかもしれないけど……だからって、志乃ちゃんを悲しませていいの? そもそも、志乃ちゃんが次期当主の選別に関わっているって思われるのはまずいんじゃない。詠月様も、羽麻子さんにあとを任せてからは顔を出さないようにしてるって言うし」

「何が言いたい」

「晴時が会いにいったぶん、詠月様にも同じくらいの頻度で志乃ちゃんのところに行ってもらえばいいだろ。そしたら何も問題はないんじゃないか」

「くだらん。そこでどうして詠月様のお手を煩わせなければならぬ」


 ひときわ大きなため息をついて、真也がうなだれた。「強情……」などと呟いているが、晴時の性質は真也が一番よくわかっているはずである。この間宮家のなかで、誰よりも早くから晴時に親しんでいたのだから。


「……もういいか。今から発てば朝には向こうに着けるんだ」

「待った!」


 真也を避けるように馬を進めると、真也もそちらに飛び出してきた。晴時は二度目の舌打ちを放つ。


「今なら周りに誰もいないよね。志乃ちゃん呼んでくるから、それまで絶対に行っちゃ駄目だよ!」


 今度は晴時が待ったをかける番だった。


「おい、真也」


 しかし、真也は聞かない。門外に立っている見張りにも念を押して、そのまま屋敷へ走り、勝手口を上がって行ってしまった。


「あいつ……こんな時間に人を起こす気か」


 そしてここまで連れてこようというのである。開け放たれた勝手口を見つめ、晴時は緩く首を振った。


 手綱を握る武骨な手に、迷いが生じる。


「……馬鹿馬鹿しい」


 もう一度、先ほどよりいくらか強くかぶりを振った。足で合図を送る。黒馬が歩みを再開した。


「待たせたな。行くぞ――開けてくれ」

「よろしいのですか」

「構わん。開けろ」


 見張りはそれ以上食い下がらなかった。は、と短い返事をして門扉を開く。


 ひとつにくくった髪が、風に流されてさらさらとなびく。月明かりも反射して己の引き立て役にしてしまう紫苑の髪の男は、馬の背に揺られながら、夜の闇へと溶けていった。

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