Seven weeks 〜卯月の遅梅があるバス停にて〜

KOYUKI

第1話

 白いシャツの下にはじわりと汗をかいている。黒いネクタイを緩め、白い息をたくさん吐きながらバスを見送った。

「あれに乗りたかったのにな」とこぼして長椅子の奥に腰を下ろすと、間もなくして一人の女性が現れた。


「ほっ、間におうた」


『は? 間にあってないだろ。次のバスは一時間後だぜ?』


 そう思いながらも口には出せず、目をそらして背負っていたリュックを長椅子の真ん中に置く。すると、ほぼ同時にその女性は手前側に座り、持っていた紺色の風呂敷包を俺のリュックのすぐ横に置いた。


 年季の入ったこのバス停には三人掛けの白い長椅子が置かれていて、その標識板の横には二月にもかかわらず、まだまだ咲く気配のない梅の木が一本立っている。

 この辺りでは梅が有名で今が満開のシーズンだが、〝卯月の遅梅〟と呼ばれているこの一本だけ、なぜか咲くのが二ヶ月ほど遅いそうなのだ。


 それにしてもこんなに若い女性は、この辺りには住んでいなかったはず。

 梅園を観に来た観光客にしては軽装過ぎるし、今から街に買い物に出掛けるにしても時間が時間だ。

 そんな疑問も浮かんできたが、他人のことをとやかく言える立場ではない。なぜなら普段、若者と呼ばれているこの俺も、この女性と同じようにこの片田舎でバスを待っているのだから。


 しばらく二人の間に空っぽの時間が流れ、じわじわと悲しい現実が俺の肩にのしかかってきた。


「どうしたん? そんなに目ぇ赤く腫らして」


 ごりごりの関西弁に、地味な服だが親しみを感じるほどナチュラルな顔立ち。俺の顔を下から覗き込み、さらりと揺れる彼女の黒髪が美しい。

 見ひらいた飴色の瞳の中に、よく見るとブサイクな俺の顔が映り込んでいる。


「いや、別に……」


 彼女の顔があまりに近くて、後ろにのけぞる。


「そんなに逃げんでもええやんか。どれ、なにがあったかお姉さんに話してみぃな? 時間はようさんあるし」


 見た目は同い年ぐらいだが、彼女の言い方からして俺は年下に見えるらしい。

 次のバスが到着するまであと三十分と少し。時間はあっても見ず知らずの他人に話して、けして盛り上がる話ではない。


「あ、いや、それはちょっと」


「ほうかぁ、やっぱり嫌やんね? 私みたいな年寄りと話するなんて」


 年寄り? かなり年上ってこと? そんなオバさんには見えないけど? ここはちゃんと否定しておこう。


「そういうことじゃありません。あなたには関係ないっていうことです」


「そう……」


 さっきまでの彼女の笑顔が引きつり、なりをひそめてしまった。俺はミスをしてしまったらしい。


 自ら起こした微妙な空気を避けようと、黒いコートの内ポケットからスマホを取り出す。だがその灰色の画面は、それほど知りたくもない天気や地図情報、たまに熱くなるゲームに興じる時間すら与えてくれず、大きなため息が出た。


「はぁ、ネットも繋がらないのか」


「ん? なにが繋がらへんて?」


 さっき出来た二人の距離をもう忘れたのか、俺の小さな独り言を大きな声で聞き返したあと、彼女の目線は俺の左手のスマホに釘付けになった。


「ネットですよ、ネット」


 スマホを縦に二回振って、この村の田舎加減をアピールする。だが俺に返した彼女の笑顔には、疑問符が浮かんでいるように見えた。会話が噛み合ってないな。



「なぁ、ところでお腹空けへん? 私、おにぎり握って来たねんけど」


 ネットについての会話をすっ飛ばした彼女。しかし唐突なその言葉に促されたのか、俺の腹の虫がぐぅと反応する。


「君のお腹は正直やねぇ」


 彼女はくすりと笑ったあと、二人の間に置いていた紺色の風呂敷包に手を伸ばす。どこかで聞いたことのある鼻歌を歌いながら、その結び目をほどき始めた。

 別にお腹が空いていたわけじゃない。一時間に一本しかないバスに乗り遅れそうになり、結構な距離を走って来たんだ。そのおかげでカロリーを消費して、俺の腹の虫は鳴ったのだろう。


「ほら、梅干しと昆布のおにぎりやで? どっち食べる? 両方?」


「ええと……」


「ほら、遠慮せんと」


 梅干しと昆布で迷っているのではなく、初対面の他人に対するあまりにも馴れ馴れしいその態度に戸惑っていた。

 だが笑顔で差し出す彼女の右手を無下にするのもどうかと思い、竹皮を開いて中のおにぎりを一個つまむ。


「じゃあ、遠慮なくいただきます」


 二口目にようやく爽やかな香りと出汁の効いた酸っぱさが、口の中いっぱいに広がった。

 このおにぎり、どこかで食べたことがあるーー

 はっとする俺の表情に気付いたのか、彼女はこのおにぎりの正体を明かしてくれた。


「このへんで漬けられる自家製の梅干しは、結構酸っぱめやけど出汁が効いてておいしいねん。で、もちろんそのご飯も、このへんで収穫されたお米なんよ」


 そうか、これはばあちゃんちで食べたのと同じ味だ。そういえば小さい頃家族でばあちゃんちに行った時、食べきれないほどのごちそうと一緒に、飯台にこんな感じのおにぎりが並んでいたっけ。


 二個目のおにぎりを平らげたあと、台所に立つばあちゃんの後ろ姿が頭に浮かんだ。


 ◇


 今日俺はばあちゃんに会いに、この田舎村に来ていた。

 三年前、事故で亡くした両親の葬儀で会った時は、ばあちゃんはいつも通り優しくて元気だった。自分の娘を失った悲しみを押し殺して、俺を慰めてくれたんだ。

 それが一年前に会った時は腰を痛めて横になることが多くなり、「歳はとるもんじゃないね」と珍しく俺に愚痴をこぼしていた。

 今日久しぶりに再会したばあちゃんは、線香くさい居間に敷かれた薄い布団に昨日からずっと眠っている。今は一年で最も寒い月なのに。

 声をかけてもばあちゃんが、俺のことを「タケ坊」と呼んでくれることはもう、ない。俺が心から甘えられる存在が昨日、また一人離れていってしまった。

 それでも安らかに眠るばあちゃんの表情が、俺の悲しみの度合いを出来る限り薄めてくれていた。

 ばあちゃん、最後まで気を使わせてごめんね。おかげで今のところ涙は出てないよ。ありがとう、ばあちゃん。


 昨日の通夜には間にあわなかったが、今日は朝からずっとそばにいた。

 煙になったばあちゃんが空の彼方に見えなくなるまで近くにいたかったけど、明日の朝には東京に帰らなければならない。今は誰もいない、冷たいあの家に。


 近所に住む親戚にあとを任せて鯨幕の外に出る。

 ときおり道の両側に現れる満開の梅の花が、バス停へと急ぐ俺を応援してくれているように見えた。


 ◇


「おにぎり、ごちそうさまでした。おいしかったです」


「そう、なら良かった。喜んでくれる人がおって、私も久しぶりに握った甲斐あったわ」


「すみません、二個も食べてしまって。握った本人は一個しか食べてないのに」


「ええねん、自分のために握ったんちゃうし。おにぎりなんて、誰かのために握ったほうがおいしくなる言うし」


「はぁ、そうですか……

あの、バスまだだろうから、俺のお茶でも飲みます?」


 リュックに入れてあったステンレス製のスリムな水筒。東京の自宅から持ってきたものだが、今その中に入っているのは、ばあちゃんちで親戚の叔母さんに淹れてもらったお茶だ。

 俺の提案に、にっこりうなずく彼女。


「フタのコップですみませんが」


 水筒のフタに注いだお茶を渡そうとすると、手のひらで突き返された。


「君が先に飲みぃな。私は君が飲んだあとでいただくし」


「そうですね、じゃあ……」


 そこまで言って考え直す。彼女の言う通りに俺が先に飲んだら、彼女は気持ち悪るいと思うんじゃないか? あれ? その逆もなんか違わないか?


「大丈夫です。俺は空中で飲みますから。ほら、こうやって」


 そう言って上を向いて大きく口を開けると、水筒に口を付けずに直接お茶を注ぐ。

 もわもわと白い湯気の立つお茶が直接のどの柔らかいところに当たり、想像以上の熱さにびっくりして噴き出してしまった。


「ぶえっ!」


 それを見た彼女は、お腹を抱えて大笑いしている。


「あははっ! 途中まではかっこ良かったのにねぇ!!」


「べ、別にかっこつけたかったわけじゃありませんよ! 俺はただ……」


 途中まで言って、涙を流して笑っている彼女が目にとまった。

 その表情を見てだんだんおかしくなってきて、ついさっきまで落ち込んでいた自分が笑っているのに気付いた。

 俺は久しぶりに楽しい時間を過ごしている。いつぶりだろう、こんなに和やかな雰囲気を味わっているのは。


 塞ぎきっていた俺をこんな気持ちにさせるこの女性は、一体何者なんだ?

 そんなことを考えていると、どこからか出してきたハンカチで自分の涙を拭き取ったあと、それを折り返して、彼女はお茶で濡れた俺の口元をハンカチの綺麗な部分で拭いてくれた。


「あ、ありがとう、ございます」


「こちらこそ。おいしいお茶をありがとうさん」


 なんだろう、この気持ち。てか、この女性はいったい誰なんだ?

 名前を聞こうか迷ってるうちに、二人の特別な時間を終わらせる使者が、丘の向こうからやって来るのが見えた。


「バスが……来ましたよ」


「あ、ほんまや。ずいぶん早かったね」


 長椅子から立ち上がり、リュックを背負ってバスに乗り込む。田舎のバスらしく、中に乗客は一人もいない。

 揺れの最も少ないバスの真ん中に座ろうとした時、彼女がバスに乗っていないことに気付いた。

 窓越しにバス停に顔を向けると、彼女が俺に手を振っている。その姿を見て急いで窓を開けた。


「乗らないんですか? 次のバス、また一時間後ですよ?」


「忘れ物したん思い出したねん。出掛けるのはまた今度にするわ。とにかく君が帰る前に会えて良かった」


 最初に彼女が「間にあった」と喜んだのは、俺がバスに乗る前で良かったということか? いや、まさかね。


「俺もあなたと話が出来て楽しかったです」


 座席に着き軽く会釈すると同時に、バスの扉が閉まった。

 手を振り俺を見送る彼女は本当に、いったい誰だったんだろう?

 再びバスに乗って、俺がこの田舎村に戻って来るのは七週間後だ。その時にまた彼女に会えるだろうか? その時にまた楽しい時間を過ごせるだろうか?

 遠ざかるバスの中で、そんなことばかり考えていた。

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