ビールを注ぐ男〜召喚された常夏の国でビアガーデンをはじめたら災厄級ドラゴンの涼み場になった〜

鋸鎚のこ

第1話 僕は何にでもビールを注ぐオトコ

「クロード閣下、お疲れ様でした!」


「ああ、お疲れ、デレク……」


 エリュシオ王国騎士団長クロードは部下からの挨拶に気力だけで返事して、ひらひらと手を振った。


 ようやく退勤の時間だ。騎士団長というのは仕事が多い。騎士団の指揮・統率、王都の治安維持、新人の訓練・育成……。だが水曜日は残業をなくすように設定されている。幹部が早く退勤せねば、部下が帰れないのだ。


 とはいえ、早く帰宅したところで、独り身のクロードにとってはぬるいエールが唯一の恋人だ。それに、今日も今日とて、うだるようなこの暑さ。


「暑い……なんでこんな中で今日は甲冑を着込んでの実戦訓練だったんだ……。いや、訓練計画に許可を出したのは他でもない俺なんだが……」


 騎士団長らしくない態度でぶつくさと文句を垂らしながら、汗ばんだシャツの裾をパタパタと扇ぐ。


 白亜造りの騎士団事務所の建物を出れば、見えてくるのは王城前広場だ。


 あまりの暑さで汗が滲んでぼやけた視界の中に、長い行列が映り込む。


(なんだ……? 争いか……?)


 王城前広場で揉め事なんて起こったら、騎士団の職務怠慢になってしまう。見て見ぬフリをするわけにはいかない。


(ああ……面倒だ……)


 しかし、争い合うような声は一向に聞こえてこない。それどころか、群衆は皆にこやかで、家族連れまでいる。


(催し物だったら騎士団に許可を取ってあるはずだが)


「おお、クロード閣下! 先ほどぶりです! もしかして閣下もここの『ビア』を楽しみに?」


 退勤するとき声をかけてきたばかりの部下デレクが行列に並んでいた。


「デレク、おまえ……いつの間に俺より早く退勤していたんだ」


 全く優秀な部下め、と苦笑いしながら、クロードも行列の一番後ろに並んでいたデレクの後に続いた。


「ところで『ビア』とはなんだ?」


 聞いたこともない単語に、クロードはいくらか戸惑う。


「なんつーか、麦酒であることには間違いないんですが、この国で流通する『エール』とは違うらしいんですよ」


「ほう……そんな珍しい酒が飲めるのか」


「ね? 気になるでしょう? しかも、今までに体験したことがないほど冷えた『ビア』が安い値段で飲めるんです。実は俺、すでに一回飲んでいるんですけど、たまんないですよ?」


「……なに?」


 クロードは片眉を上げていぶかしんだ。この常夏の国、エリュシオ王国で、冷えた飲み物は高級品だ。他国から輸入した氷を使って物を冷やすことはできるが、言うまでもなく贅沢品。氷魔法が使える魔導士も数少ない。冷えた飲み物を安く提供するなど狂気の沙汰だ。


「……で、それを誰が売っているんだ?」


 クロードは行列を見渡し、売り手が気になった。この国でそんなことができる人物は限られているはずだ。本当に魔導士か、あるいは……。


「珍しい黒髪の持ち主で、異国の男性らしいです。歳は若いようですが……名前は、確か『スイ』と言ったかな」


 デレクの言葉に、クロードはますます眉をひそめた。異国の男? この国の気候に慣れている者ですら困難な冷却技術を持つ人物が、そんな姿をしているとは信じがたい。


 行列がゆっくりと進み、クロードとデレクの番が近づいてきた。そのとき、クロードの目に入ったのは、一風変わった店舗だった。人間の背丈よりも大きな箱に車輪が付いているのだ。不可思議な形状の店からは、涼やかな風が漂ってくる。そこには、雨に濡れたカラスの羽根のように黒い髪の男性が、手際よくグラスに液体を注いでいる。


 あの男が「スイ」で、注いでいるのが「ビア」か。クロードは、その姿に好奇心をそそられた。確かに異国出身のようだが、どこか親しみやすさも感じる。


 ようやく自分の順番が回ってきたとき、クロードは彼に声をかけた。


「きみがこの『ビア』を売っているのか?」


 スイはクロードに落ち着いた微笑みを浮かべながら、慣れた様子で背後にあるサーバーからグラスにビールをいで差し出した。


「そうです。なんだかお疲れのようですね。冷たいビアをどうぞ」


 値段も銅貨五枚。普段飲んでいるエールと同じ価格であることに驚愕した。さらに、受け取ったグラスを握って驚く。地下水よりも冷たいのだ。グラスも重いガラスで出来たものを想定していたが、これは非常に軽い。だが頑丈そうだ。何か別の、特殊な素材で出来ているのだろう。


 そして、中の液体の色に目を奪われる。澄み渡った黄金色だ。その上にふわふわと綿雲を思わせて乗る白い泡。


 ビアを口に含んだ瞬間、クロードの目が見開かれる。きりりと冷たく、風が吹き抜けたように爽やかで、口の中に広がる麦の豊かな風味。この暑さの中で、この冷たさと味わいはまさに青天の霹靂だった。


「これは、本当に……美味い。もう一杯、いいだろうか?」


 上品でもなくさっそく飲み干して、もう一度列に並び直してしまったことにわずかな恥じらいを感じつつ、グラスを返したクロードに、スイは明るく笑いかけた。


「もちろんです、おかわりですね! グリルソーセージもあるんですが、一緒にいかがですか?」


「では、それもいただこう」


 スイはすぐに一点の曇りもなく磨かれた新しいグラスを手に取り、再び冷たいビールを注ぎ始めた。注ぐ手つきは見事で、液体と泡の割合も完璧だ。クロードはその様子を眺めながら、これほど美味しい飲み物がこの国で手に入ることにまだ信じられない思いだった。


 グラスとグリルソーセージを受け取り、クロードはまたしてもビアを口に含んだ。やはり、冷涼感と芳醇な風味が口の中に広がって、まるで一日の疲れが一気に洗い流されるかのような感覚を覚えてしまう。


 そして、皮目の焼き加減も絶妙なソーセージにかぶりつくと、肉汁が口の中で弾けた。香り高いスパイスが効いていて、これまたビアとの相性が抜群だ。


「……素晴らしい。これが毎日楽しめるなら、どれだけ救われるか」


 思わずクロードは口を綻ばせて本音を漏らした。スイはその言葉に微笑みを深めた。


「そう言っていただけると、こちらも嬉しいです。いつでもお越しください。お疲れの方には、すぐさま冷えたビアを提供いたしますから」


 その優しい言葉に、クロードは心がほぐされていくようだ。こんなに心地よい場所が、この国にあるとは思ってもみなかった。騎士団長としての重責を背負うクロードにとって、少しの間だけでも心を休める憩いの場所になりうるかもしれない。


「ありがとう。職場の同僚にも宣伝しておくよ」


 クロードは心からの感謝を込めた。スイは軽く頭を下げる。


「お客様が満足してくださるなら、それが一番の喜びです。──どうぞ、『ビアガーデン』にまたお越しください」


 クロードは飲み終わったグラスを軽く掲げ、彼に別れの挨拶をしてビアガーデンを後にした。彼の心には、久しぶりに感じる安らぎと、新たな楽しみが生まれている。これからの厳しい日々も、このビアがあれば何とか乗り越えられるかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱きながらクロードは家路へと向かった。


 その晩、クロードの頭の中にはスイのビアガーデンと、冷えたビアやソーセージの味が鮮明に残り続けていた。彼は翌日もまた、あのビアガーデンに足を運ぶことを密かに決意したのである。

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