第二十八話 咲くはずのない花

 ノブレサント・ラボは、郊外の丘陵地にひっそりと埋もれるように建っていた。


 無機質な鉄扉と、監視カメラの無言の眼差し。


 香特第七班所属のグラント・フォッサーは、キャプティブNo.882の処分済みデータに関する監察命令を受け、ノブレサント・ラボを訪れた。


 表向きは記録と試料の照合確認。


 グラントは門前に立ち、バッジを見せる。


香特コウトク、現場対応部、第七機動班。グラント・フォッサーだ」


「確認しました。どうぞ」


 警備局員の言葉に頷きを返して、ゲートをくぐる。


 無人の受付は物音一つしない。装飾すら排されたロビーの空気が、逆に不自然だった。息が詰まるような沈黙が、逆に人の不在を暴力的に浮かび上がらせていた。


 消毒剤と防腐剤の混じったような、執拗な清潔さを感じる香りが漂っている。

 死の気配すら、ここでは許されていない。


 薄明の廊下を進むと、白衣を着たジュゼマンが現れた。表情は相変わらず、きっちりと整っている。

 

「またお会いしましたな、フォッサー殿。本日は、お仕事で?」


 前回の出会いを軽く揶揄するような言い回しに、グラントの表情が少しだけ緩む。

 

「ああ。ネファスト・ノブレサントに通してくれ」

 

「かしこまりました」

 

 その態度は柔らかだが、必要以上に踏み込んでこない。

 

 応接室に通されて間もなく、扉が開いた。

 その人物が現れた瞬間、空気が確かに変わった。


 黒に近いチャコールのスーツに、襟の高い白シャツ。ネクタイは締めていない。白衣も、名札もなかった。


 無駄のない歩幅、踵から正確に着地する足取り。訓練された歩き方だった。戦場を踏んだことさえあるかもしれない。


 彼はグラントの前で立ち止まると、「封書で止まる拳もあるのだがね」と告げた。


「邪魔をする。香異特定局、現場対応部第七機動班。グラント・フォッサーだ」


「グラント・フォッサー」

 

 ネファストはその名を舌先で転がすように復唱した。


「香特に外国人が所属できるとは知らなかった」


 淡々とした声。抑揚も感情も、意図すらも含まれない。ただの音として空間に浮いた。

 グラントは応じなかった。軽く首を傾け、言葉を喉の奥に留めた。


「……ラボの責任者は?」

 

「私だ。だが、実務はジュゼマンが見ている」

 

 その瞬間、空気に割り込むように、香りが立ち上った。


 ――ラベンダー。


 だが、乾いた花の奥に、濡れた枝の湿気と焦げた木皮の残滓が混ざっている。

 崩壊寸前の植物。どこかで、同じような構成を知っていた。


(……ジャックが言ってたな。ネファストの香印には、ラベンダーがあると)


 香りが立つのではなく、内部で渦を巻いている。

 まるで、あのとき嗅いだキャプティブNo.882の……。


「気に障ったかね?」


「いや。すまない。少し、思い出しただけだ」

 

「おや」


 ネファストは、ほんのわずかに口角を持ち上げた。


 咄嗟に、目を逸らしてしまう。


 その笑みは、寒気を帯びた陽光だった。あたたかさを模していながら、どこにも熱がない。


「私の香印で? それは光栄だな。悪夢でないといいが」


 声音は穏やかだった。初対面の相手に昔話を切り出すような、妙に馴染んだ口調だった。

 だが、すべてが精緻だった。言動は滑らかで、不自然なほど引っかかりがない。

 それが、逆におそろしかった。


 ネファストは何も言わず、微笑んだまま、足音ひとつ立てずに部屋を後にした。

 扉が閉まる音すら、異様に静かだった。


 ジュゼマンは、浅く息を吐いた。仕立てのよい白衣の胸元が、微かに沈んだ。


「……あの方が、ああいうふうに笑うのは、初めて見ました」

 

 その呟きには、驚きとも困惑ともつかない、名のない感情のざらつきがあった。

 

「変わられた、のでしょうか」

 

 グラントはわずかに目を向けただけで、言葉は返さなかった。

 

 何かが変質している。

 それは空気か、記憶か、あるいはこの建物に沈殿している何かかもしれなかった。

 

「……ひとつ、確認したい」

 

「なんでしょう」

 

「キャプティブNo.882は廃棄されたはずだな」

 

「ええ。処分記録もあります。香料持ち出しの疑いがかけられた分画は一応、再検査されましたが……記録上は、異常なしとされました」


 ジュゼマンはそこで一拍置き、言葉を選ぶように視線を外した。


「再検査を担当したのは、当時副責任者だったマリス・トリュフォーです。今は退職していますが」


「調査資料は残っているか」


「ええ、保管室にございます。こちらへどうぞ」




 ***


 案内を終えたジュゼマンが離脱すると、それはすぐに訪れた。

 香料冷却庫の前で、グラントは立ち止まった。

 空調の逆流に混じって、また――追いつかれた。

 

 ラベンダー。

 

 痛みを奪った香り。

 再起不能の癒し。

 皮膚の裂け目を閉じたその香りは、心の傷口を覆ったまま、何ひとつ癒さずに終わった。


 あのときも、グラントは見届けていないのだ。

 シニストルの、死体を。

 

 終わりは、香りでしか刻まれていない。


 視覚が拒んだ終わりを、嗅覚が引き取った。

 香りだけが、グラントの中に残された証明だった。

 

 無意識に一歩、下がる。

 肺の空気が重くなった。目の奥で像が滲む。

 

(……また、あれが、来る)

 

 終わらなかった現実が、続きを求めて蘇ろうとする。

 祈りの香り。そう形容するしかない何か。

 だが祈りは、救いを約束していなかった。

 

 視界が二重にぶれて、揺れる。

 

 グラントが背を預けた壁面が微かに鳴動した、ような気がした。

 通気の逆流か、それとも――。

 

 ――ピ、ピ。

 

 通信端末が震えた。咄嗟に手がボタンを叩いた。

 

『グラント。今、ノブレサント・ラボにいるのかい?』


 アンシーの声だった。

 思考が割れ、空間が砕ける。幻の中で浮かびかけていた視界が、強制的に落ちた。音で殴られたような衝撃に、呼吸が跳ねる。

 

 反射で口が動いた。

 

「あ……ああ。何か用か」

 

『おまえ、声が変だよ。取り込み中かい?』

 

「いや。集中しすぎただけだ。……どうした」


『キャプティブNo.882の件でね。いつ帰る?』

 

 帰る。その言葉に、グラントは一瞬だけ目を伏せた。

 

「……今夜、行く」

 

『わかった。今日の夕飯は――』

 

「いい。……少し、遅れるからな」

 

『……了解。なら、話は明日だよ。バックれたら承知しないからね』

 

 通信が切れる。

 

 グラントは壁に片手をつき、深く、時間をかけて呼吸を整えた。

 

 香りは、もう消えていた。

 

 遠くの冷却ユニットが、心音のように鳴っている。

 

 ネファストは、香りをまとっていた。

 

 アルカではない。

 模倣でもない。

 もっと深い場所から、それは咲いていた。

 

 グラントは静かに背後を振り返った。

 

 誰も、いない。

 だが、誰かがいたという感覚だけが、嗅覚にしがみついていた。

 

 空気に残っていたのは、香りではなかった。

 誰かの視線が、嗅覚の形を借りて居座っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る