第十話 かつて姉と呼んだ人と

 オブリエは、浴室の蒸気に包まれながら、自らの身体を確かめるように身体を洗っていた。


 手のひらに石鹸を取って、細やかな泡でそっと髪を梳くように泡を馴染ませる。根元から毛先へ指を滑らせるたび、泡が銀髪の間に絡み、淡雪のように広がった。


 泡を落とせば匂いも落ちる、そんな単純な話ではないことくらい知っている。それでも続けるのは、洗い流すという動作だけが、まだ自分が人間である証しのように思えるからだった。


 湯が髪を伝い、細い流れとなって床へ零れる。

 甘く焦げた匂いが立ち上がった。広がるはずの香気は、蒸気の膜に封じ込まれたようにまとわりついて、なかなか離れない。


 馬油を手に取り、髪にゆっくりと馴染ませる。

 香油の扱いは、芳主の素養だ。揮発しにくい無香の馬油を髪や皮膚に撫でつけるのは、香印の過活動を鎮める常套手段だった。


 泡沫ほうまつが首筋を流れ落ちても、匂いは肌の裏に滲むように残っていた。


 ――わたしは、まだここにいるのだろうか。


 オブリエはゆっくりと湯の中へ入っていく。


「わたしはオブリエ」


 湯の表面に映る顔が湯気に溶けた。目と頬がぼやけ、銀の髪だけが水中にゆれている。


 オブリエは自分の腕を抱くようにして、浅く息を吐いた。


 香印が戻らなければ、オブリエはノブレサントではいられない。ノブレサントでなくなった自分を、社会はどう扱うのだろう。


 髪を梳いているだけでも、まだあの忌々しい香りがかすかに漂ってくる。


 ――せめて、この甘い香りさえ消えたなら。

 

 そう考えて、自嘲めいた笑いが溢れた。燐香が消えたところで何も変わらないことは、とうにわかっていた。




 ***


 暖炉の炎がパチパチと燃える。オブリエは一人がけのソファにゆったりとくつろいでいた。


 ジャックは、オブリエに促されてソファに座った。服は邸仕えのものを貸してもらっていた。


 オブリエの香水は時間が経っているのだろう、つけた直前の香りとは異なっていた。

 トップのライチの火花は収まり、代わりにジャスミンが柔らかく甘さを主張し、ピオニーアコードが調和をとって全体を滑らかに繋いでいる。ホワイトムスクにはかすかにバニラが重なり、肌に寄り添うような安心感を漂わせていた。


 だが、その安心感すら、どこか借り物のように感じられる。完璧に整えられた香りは、まるで仮面のように、彼女の本質を覆い隠しているようだった。


 香調の移行が均質で、乱れがない。

 トップからベースまで、流れに一切の揺らぎがない。


 異物がない。どこに出しても通用する。


(完璧だ。……だから、遠く感じるのかな)


 頭に引っかかるものはあったが、オブリエがにこやかにジャックの言葉を待っている以上、考えごとばかりに気取られるわけにはいかなかった。


 ジャックは思考を頭から追い出してオブリエに向き直ると、ゆっくりと口を開いた。


「シャワールームを貸していただいてありがとうございました。助かりました」

 

 オブリエはふふ、と笑って椅子に肘をつくと、ジャックのほうに身を乗り出した。

 

「いいとも。せっかく久しぶりに会えたんだから、今日は泊まっていきなさい」

 

 ジャックはとっさに首を振った。そこまでお世話になるわけにはいかないと思ったが、それを口にする前にオブリエが口を開いた。

 

「フォッサーは先に帰したぞ。お前によろしくと言っていた」

 

 ジャックはわずかに眉をひそめた。

 予定より長引いてしまったから仕方ないなと割り切りたい気持ちと、じゃあ一言声をかけてくれればいいのにという気持ちが一瞬ぶつかった。

 

「ペルジャンは遠いからな。汽車で帰るのも疲れるだろう。今日はたっぷり休んでから、明日に帰りなさい」

 

 命令のような言い回しではあったが、強制はしないという口ぶり。そこにオブリエの優しさを感じて、ジャックはそっと視線を上げた。

 

「では、お言葉に甘えて」

 

「あとで電話を貸そう。アンシーおばさまに連絡してあげなさい。仕事が終わったと伝えればおばさまはきっと喜ぶ」

 

 オブリエは一瞬だけ言葉を切った。まなざしは、何かを測るように、あるいは懐かしむように、ジャックの表情を見つめていた。そこに、もういない誰かを重ねるように。


 そして、ごく自然な調子で――だが、明らかに話題を変える口調で、ぽつりと呟いた。


「……昔は『オブリエ』って呼んでくれてたね?」


「え?」

 

 間の抜けた、素直な声が口をついて出た。


「今それを言います?」


「だって、きみはジッキーでしょう」


「まだぼくのことをジッキーって呼ぶ気ですか?」

 

 オブリエはさも意外そうな表情をしてみせた。


「もちろん。だってきみは今でも、わたしにとっては〝ジッキー〟だからね。……そうでしょう?」


 ジャックは言い返さなかった。それがうれしいのか、悔しいのか、自分でも解らなかった。ジッキーという名にただ笑って返すには、もう少しだけ時間がいる。


 オブリエは微笑んでいたが、少し困ったように眉を下げていた。


「ねえ、ジッキー。どうしてそんなにかしこまっているの?」


 ジャックはきょとんとした。何を言われているのかわからなかった。


「それは、仕事ですから……」

 

「仕事はもう終わったんでしょう。わたしは香水を受け取った。なら、また昔みたいにオブリエと呼んでくれてもいいんじゃなくて?」

 

「いや……」


 オブリエ。幼いジャックにとっては姉のような存在だった人。ときどきうんざりするほど強引で、少しは頼りになった。

 

 今はもう、彼女を見上げることはない。


 だが、オブリエ・ノブレサントは〈香り付き〉だ。今度はジャックが自ら、視線を下げなくてはならない。


「ぼくにも立場がありますから」


 あくまでもかしこまって話すジャックに、オブリエは微笑した。


「昔はもっと減らず口を叩いていたのにねえ」


 オブリエの声には、わずかに笑みが混じっていた。

 

「……それも、香印これが落ち着いていた頃の話か」


 ぽつりと続けられた言葉には、ふっと熱の抜けた自嘲が滲んでいた。


 ジャックは少し間を置いて、慎重に訊いた。


「やはり、その、コントロールを失ってしまったんですか」


「うん。いくら鼻が効くとはいえ、きみがわかってくれたのは奇跡だよ」


「でも、わかるだけですよ」


「わかるだけ。それがどれほど得がたいことか」

 

 オブリエは呟くように言った。

 

「君が香印を覚えていてくれなければ、わたしは二度とこの世の誰にも見つけてもらえなかったかもしれない」


 ジャックの胸の奥で、何かが疼いた。

 今の言葉は、ただの感謝でも泣き言でもない。

 助けを求める声だった。


 香りは、芳主にとって、そこにいることの証明だ。だが、構造が乱れれば、意味も発信も成立しない。彼女の言葉は、香印の崩壊が孤独をもたらすという現実の告白だった。


「……だから、気安く話せる人がいないの。ジッキー、わかってくれるかな」


 オブリエはあの頃と同じような目をしていた。

 変わったのは、彼女の香りが狂わされてしまったこと。そして、ジャックがほんの少し成長したこと。


 ジャックは深く息を吐いた。


「努力は、しますけど」


 ジャックは半ば無意識にゆったりと背もたれにもたれかかって足を組んだ。


「いきなり変えるのは無理ですよ」


 その態度に、オブリエはふっと表情を緩めた。照れ隠しに似た笑みだった。


「ふうん。それにしてはずいぶんリラックスしているように見えるけどね」


 ジャックもまた苦笑して組んでいた足を解いた。背中は背もたれに預けたままだった。


「オブリエは相変わらずだよな」


「どういう意味かな?」


「ぼくの失敗にすぐ食いつく」


 オブリエは口元を押さえて笑った。笑いながら、少しだけ睫毛を伏せていた。

 

「そんなことはないよ。昔みたいに話したかっただけ」

 

「そういうことにしておきますよ」

 

 ジャックもいたずらっぽく笑った。

 二人の間に漂う空気は、ほんの少しだけ、六年前に戻っていた。

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