第三話 はじまりの気配

 自分の匂いで目覚めない朝は、決まって何かがおかしい。

 

 オブリエに香水を届ける当日の朝、ジャックは普段と違う匂いを感じて眠りの底から引き上げられた。

 

 ジャックは滅多にフレグランスの類を使わない。だから、寝起きの鼻で感じられるのは、洗濯洗剤の残り香と体臭だけのはずだった。

 

 だが、今日は違った。

 見知らぬ夜の名残があった。

 

 汗に溶けたアセトアルデヒドの酸味に、焦げついたタバコの苦味。祖母の煙草より粗悪で、安っぽく、香ばしさがない。だが知っている。あの男の――。

 

「おーい、ジャック、起きろ」

 

 ざらついた、聞き慣れた声が降ってくる。夢ではないらしい。ジャックは目を閉じたまま眉を寄せ、上掛けの端をたぐって頭までかぶった。

 

 瞬間、ジャックの身体は宙に浮いた。

 

「うわ!?」

 

「おまえ軽すぎねえ? ちゃんと食ってるか?」

 

 気づけば、目の前には逆さまの大男がいた。ジャックの腰を掴み、足を上にして持ち上げている。

 

 とんでもない怪力。〝芳香〟がない――香印ではないなんて信じがたい。

 

 ジャックは逆さまのままで叫んだ。

 

「な、なんてことするんですか!」

 

「お前が起きねぇからだろ」

 

「他にやりようがあるだろ!」

 

「どうかねえ?」

 

 男は口の端を持ち上げ、にやりと笑った。

 ぐるりと視界が回って、ジャックはベッドの上にうつ伏せに戻される。ジャックは身体を起こしながら、その巨漢を睨みつけた。

 

 鍛え上げられた大柄な体躯に、よれたシャツをぞんざいに着ている。髪と髭を無造作に伸ばしているが、妙に姿勢が整っている。

 

 男の名はグラント・フォッサー。

 

 祖母の古い知り合いだと聞いているが、それにしても遠慮がなさすぎると思う。


 グラントの仕事や職歴は聞いてもはぐらかされるので、よく知らない。それよりも、当然のように自宅うちに入り浸っていることのほうがよほど不思議だった。

 

 ジャックはため息をついた。

 

「お久しぶりです。ここで朝食ですか? グラントさん」

 

「察しがいいな、坊主」

 

「ぼくはもう十五ですよ」

 

「そりゃ立派なもんだな。それじゃあそろそろ支度しな、調香師殿。今日は仕事なんだろ?」

 

「いいから! 早く出てって!」

 

 ジャックは手を振ってグラントを自室から追い出し、着替えを済ませてからリビングに向かった。


 焦げたタイムのほろ苦さ、トーストしたパンの香ばしさ、溶けたバターの甘さ。重たいコーヒーの香りが足元からゆっくりと広がっている。

 

 グラントは皿をテーブルに並べ、アンシーはコンロにマキネッタ(直火式コーヒー抽出器)をかけていた。

 

「おはよう、おばあちゃん」

 

「おはよう。もうすぐコーヒーができるよ。飲むかい?」

 

 ジャックはほんの一瞬だけ迷ったが、首を振った。

 今日は香水を一本届けるだけだ。嗅覚を張り詰める必要はないが、届け先でトップノートを評価する可能性がないとは言えない。

 

「ほら、まずは食え。腹が減ってちゃロクなことにならねぇんだ」

 

 グラントがジャックの背中をトンと叩いた。彼にとってはほんの軽い力だったのだろうが、思わずつんのめりそうになる。

 

「あなたが用意したものじゃないでしょ」

 

 口ではそう言ったものの、この怪力男に抵抗しても無駄なので、ジャックはおとなしく椅子に座った。

 

「よし、それでこそプロだ」

 

 グラントがにやっと笑って、ジャックの前に湯気の立ったスープ皿を置いた。ジャックはありがとうと短く言ってスプーンを取り、スープをひとすくいする。


 その間にグラントはジャックの正面にどっかりと腰掛けた。ジャックとグラントの間にアンシーが座り、グラントの目の前にコーヒーカップを置いた。

 

 アンシーは着席がてら、グラントに小さな袋を放った。グラントはスープをすすりながらそれをとっさに片手で掴み取った。


 ジャックの鼻先をかすめたのは、湿り気を帯びたクラリセージの影だった。パインニードルが一筋、鋭く空気を裂いたが、それ以上には広がらない。ベチバーとセダーがすぐさま沈み込み、空気を抑え込む。重心は最初から地中にある。封じられたまま発芽しない種の香り。

 

「……なんだ」

 

「匂い袋だよ。無くしたんだろ」

 

 グラントが小さく舌打ちし、匂い袋を懐へ収めるまで、ジャックはずっとその手元を見つめていた。


 この男がフレグランスを持つとは思わなかった。ましてや、こんな〝沈黙〟の匂いとは。


 当のグラントは残りのパンを口に詰め込んでから、ジャックに向き直った。

 

「食い終わったら、さっさと行くぞ」

 

 ジャックの手が止まった。

 

「え? グラントさんも一緒に来るんですか」

 

「今日は予定がないからな。車で送ってやるよ。旅は道連れがいたほうが楽しいだろ」

 

 ちらりと祖母を見ると、アンシーは軽く肩をすくめた。

 

「足になると言ってるんだから、使ってやったらいいさ」

 

「まあ、いいですけど」

 

「そこは『ありがとう』って言うんだよ」

 

 ジャックはやけにゆっくりとパンをちぎって口に運んだ。たっぷり咀嚼して飲み込んでから口を開く。

 

「……ありがとうございます。よろしくお願いします」

 

「嫌そうすぎるだろ」

 

 そう言いつつも、グラントの表情は楽しそうだ。

 

「で、目的地はどこだ?」

 

「オーベルナだ」

 

 答えたのはアンシーだった。ジャックの身体が緊張で少し強張る。

 その名前を聞いたグラントが眉を上げた。


「オーベルナ? あそこはノブレサントの土地じゃねえか」

 

「そうさ。こいつの行き先はノブレサントのお屋敷だからね」

 

 アンシーの言葉にグラントは黙り込んで、顎に手を当てた。

 

「オブリエ・ノブレサントには話を通してある。よっぽどのことがない限り問題ないだろうさ」

 

「ま、それならいいが」

 

 グラントは頷きながらも、わずかに眉を寄せていた。その表情に、ジャックは言葉にならない違和感を覚えた。

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