犬神歩めば呪いに至る

白海幽漣

1.儀式

 ごめんなさい。私はこれからお前を殺します。




 夕日はすでに没し、夜のとばりが空を覆う。夜風がざわめく木の葉を揺らし、ぼんやりと月と星が庭を照らしていた。この光は、これから実施する儀式を静かに照らすだろう。


 これから何をするのかは知らされている。主人の後を、私は荒れた髪をたらしながら付いていった。


 ぼさぼさに伸びた髪。年の割に小柄な身体。服装は粗末な貫頭衣かんとうい。貫頭衣の裾はほつれてしまっている。自分の身分として、相応の姿だとは思っていた。


 足は普段から裸足で、いつも土で汚れている。これ自体は普段と何も変わらない。なのに、いつもよりも足にまとわりつく砂に不快感を覚えた。それはこれから行われる儀式のことを考えてしまったからかもしれない。その影響もあってか、主人の背中に、これまでにない威圧感を感じた。


 これから行うことに対して、私には拒否権はない。奴婢ぬひ、いわゆる奴隷の身分である私には黙って従う他なかった。でも、内心ではやりたくないという想いが渦巻いている。


 私の主人は、地方の小豪族であった。元々は中肉中背であった。だが、ここ最近はやつれてきている。肌は土気色で、健康とはとても言い難い。目は吊り目気味で、焦りと不安がにじみ出ているように見える。目の下の隈は、あまり眠れていない雰囲気を醸し出していた。


 風音だけが響く中、主人は斧を物置から持ち出した。それを私が手に持ったことを確認してから、彼は手を離した。重いそれは、小柄な私には不釣り合いな大きさだ。今から行う儀式には物音をあまり立てるわけにはいかない。それは誰にも見つかってはいけないからだ。だから、音を立てずに済むよう、斧を取り出すのは主人が行うと決められていた。


 今まで薪割りの手伝いぐらいでしか握ったことのない、鉄の塊。使い込まれた斧の柄には木目の凹凸があり、慣れていないはずなのに不思議と手に馴染んだ。それが今、別の用途で使われようとしている。そんなことを考えると、私は斧を抱え込むように両手で握り、重圧からの緊張を抑え込もうとした。


朽花くちばな殿、そちらの準備はできているかな?」


久世くぜ様。準備は既に整っています。あとは機会を待つだけです」


 庭に連れてこられた私の前には、一人の男が立っていた。彼は狩衣かりぎぬを纏い、腰に刀を差した呪術士。髪はやや乱れており、色は煤けた黒。肩にかかる程度の長さだが、意図的な無頓着さを感じる。目は吊り目で灰色に濁っており、感情の読み取れない無機質な視線を持っていた。そして、彼には一つ、大きな特徴がある。朽花は右目に花柄の義眼ぎがんをはめていた。それが彼を不気味な存在のように思わせた。その義眼をはめている理由が、怪我なのかはどうかは分からない。何か、普通の人とは違うと一目見て分かる。彼の話す言葉遣いは丁寧だが、どこかわざとっぽく聞こえる。その影響か、口調は冷たく感じた。


 どこか、荒くも弱い息づかいが聞こえる。短く、連続したものだ。その音がする方向がどこなのか、見られている可能性を考えた私は目で探した。屋敷でもなく、遠くの草陰にも何もない。そして、足元から音がしている事に気付く。


 どれだけの日数、餌を食わなかったらこうなるのであろうか。目は血走り、口からは涎が止めどなく溢れる。口元には赤黒い跡がついており、吐く息からは若干の腐臭がする。


 足元に犬がいた。首から下が土に埋められ、身動きできない状態で。


 その犬が釘付けになるのは、目の前に置かれた川魚。だが、犬の牙がこれに届くことはない。犬は魚を喰らおうと必死で首を伸ばすが、位置が絶妙に調整されているのか届かない。それでも諦められない犬は、何度も首を伸ばす。


「これ以外に領地を持たせる方法がないんだ。何度も確認するが本当に、成功すれば、疫病と年貢の問題は解決し、願いは叶うのだろうな?」


 主人は恐る恐る朽花へと問う。主人の目は怯えが混じっており、余裕がない。それに対して朽花はじっと犬の様子を見るだけで、返事をしなかった。それが主人の不安を煽った。


「頼む、答えろ! この犬神いぬがみの成果が現れないまま、打ち首にはなりたくないのだ!」


 堪えきれず、主人は朽花の胸ぐらを掴んだ。そこで朽花は視線をやっと動かす。まばたきをしない、無機質で感情のない冷たい瞳。一瞬立ったまま死んでいるのではと錯覚するような佇まいだった。


 犬神は、餓えさせた犬の首を刎ねることで完成する呪術。犬神の儀式は、法で名指しで禁止されていた。私は理由を知らないが、発覚すれば死罪が確定するほどのものだという。主人が焦っているのはそのためだろう。そんな危険性のある術を使う以上、それに見合った利益がなければいけない。犬神を伝えてきた朽花に何度も確認を取るのは当然だ。そんな術を、これから私は行うことになる。


 しかし、腑に落ちないことがある。朽花が何故、主人に犬神を伝えたのかが分からないでいた。ただの善意だとは考えづらい。ただの食客しょっきゃくが伝える内容としては、いささかこちらに都合がよすぎると思った。


 この儀式を遂行するのが私である理由は、軽く聞いていた。どうやら犬神の儀式は、永遠に血筋が呪われるらしい。主人は自分の血筋を守るため、奴婢ぬひである私をあてがった。私であれば、呪われても些細な影響だと判断されたようだ。それ自体は構わなかった。


 興奮する主人に対して朽花は、人差し指を口に当て、静かにするように促す。


「他に手段がないのでしょう? それなら、大人しくしてくれますか」


 朽花の言葉から、主人は冷や汗をかき、震えながらも手を離した。


 主人は、朽花について、得体の知れない人物だと分かっていながら、藁にもすがる思いで朽花に協力を仰いでいた。主人が治める領地は疫病が蔓延しており、満足に年貢を集めることもできない。主人は、たまたま訪れてくれた朽花が伝えてきた、犬神に頼る以外に打開する手段を持ち合わせていなかった。


 何故朽花が主人へ犬神の儀式を伝えたのか。それは何も聞いていないから分からない。ただ、朽花の雰囲気から何かを企んでいるのではとも考えてしまう。


 朽花はこちらに視線を移し、斧を指さした。


「構えておけ。振り上げるのは合図してからでいい。立ち位置は……そう、そこだ」


 朽花に指示され、私は斧を持ち直し立ち位置を調整した。斧は両手で柄を握り込むが、重みに耐えられず刃の部分が地面に付く。だが、力を込めれば何とか持ち上げられそうだ。身体が大きければ、私が男なら……。そう考えることは何度もあった。


 斧の持ち方を変えたことで、腕が伸びて見えていなかったところが露わになる。傷だらけで、細枝のように骨張り、我ながら弱々しく見える。


 ずっと目線に入れないようにしてきた、埋められた犬を観察する。この子は、ただ生きたいだけ。今は人の勝手で捕らえられ、共食いさせられ、今は身体を埋められている。こんな理不尽に遭っていい命なのだろうか。こんな儀式で、殺されていい命なのだろうか。


 私は、間引きで捨てられ死ぬはずだった存在。主人はそんな私を拾った恩人だ。間引かれるはずだった私と、今殺されようとしているこの犬。本来であれば、この犬と自分は同じなのではないか。そう考えると、手が震えてしまう。手のひらがじっとりと濡れ、斧の柄が滑りそうになる。一度殺害への嫌悪感を覚えた影響で、殺したくない方向に心が傾く。


「朽花殿。これで、いつになれば首を切り落とせばいい?」


「……切り落とす判断は私がします。お前、合図は覚えているな?」


 主人と朽花の短い会話。切羽詰まっている主人は密告を恐れているのか、落ち着かない様子で話す。対して朽花は一切感情の動きがなく淡々とした言葉遣い。私は朽花の言葉に、感情を押し殺しながらゆっくり頷いた。


 主人は儀式が長引く度に焦りを増していた。きょろきょろと首を振り、僅かな風音にも反応するほど怯えていた。それに対して朽花は土偶の如く表情一つ変えることもなく、犬をただじっと見つめる。


 永遠にも思える時間。斧を支える手が、限界になってきた。緊張から息が荒くなり、額からは玉のような汗が流れ落ちる。緊張でこわばって、一切動くことができない。鼓動がもはや張り裂けそうで、痛みすら感じる。対して目の前の犬の動きはどんどん激しくなる。犬の首もとの土が押され、首が更に少しだけ伸び始める。それを確認した朽花は手を叩き、私へ合図を送った。


 私は意識を切り替えて、集中するために息を吸い込み、止める。そして手が震えないように強く握りしめながら、思い切り斧を振り上げた。手のひらが滑るんじゃないかと一瞬考えたが、そんなことを気にする余裕はない。ただ、犬の首を見つめる。まばたきができない。これが正しいことだとは思っていない。再度朽花から合図を送られたら、それを逃してはならない。失敗すれば、主人へ迷惑がかかるから。命を奪うという事実から来る罪悪感を、私は主人に報いるためという使命感のみで塗りつぶした。


「ごめんなさい」


 何度心の中で唱えたか分からない謝罪が漏れる。口の中が乾燥し、ちゃんと言えていたかは分からない。でも、言葉を持たないお前を、私たちの身勝手に巻き込んだことについては、どうか、謝らせて欲しい。そして、再度、手が叩かれる音がした。


 一瞬だけ腕がこわばったが、あらん限りの力で斧を振り下ろす。やるしかなかった。私には、それ以外の道は残されていなかった。


 静寂を突き破る、何かが潰れたような音。次の瞬間に、錆びた鉄の匂いが鼻を突く。斧から手に伝わる、肉が裂かれ、骨を断ち割る感触。落とされた頭部は飛び、川魚のもとに落ちる。頭のない身体からは血しぶきが飛び散り、それは手と頬を濡らす。暖かい血の温度と、液体がかかる感触から、私は現実へと引き戻された。


 足元に血だまりが広がる。それを見てどんどん息が荒くなる。無意識に手が震える。冷や汗が噴き出す。吐き気を必死に押さえ、奥歯を噛み締めた。そして、手の力が入らなくなり、斧を落とした。目の焦点を合わせられない。目に映るものを受け止め切れていない。自分が犬を殺した。その事実を認識するまで、どれくらいの時間がかかったであろうか。使命感が薄れ、罪悪感が顔を覗かせる。そして、膝をつき、顔に手を当て、声にならないうめき声を出す。気付けば涙が頬を伝った。『ごめんなさい』という言葉が頭の中で反響する。夜風で揺れた葉が肌をくすぐるが、その感触が気持ち悪く怖気が走った。


「犬神の儀式は、機を誤れば、その者は犬神に魂を食われる。お前はどうだ?」


 朽花はいつの間にか私の目の前に来ると、しゃがみ込んで私の髪を掴む。そして、目線を自分に向けさせた。私の視界に朽花の目が映る。生気がなく、何もかもを飲み込みそうなどす黒い瞳孔。私は生理的嫌悪感に掻き立てられ、咄嗟に目を逸らした。


「ど、どうだ?」


「問題はない。それに、首元を見れば分かる。犬神憑きは首元を一周するようなあざができる。これを見ろ」


 朽花は主人の問いに答える。取り繕うことを辞めたのか、朽花の口調は丁寧なものから淡々としたものに変わっていた。朽花は私の顎を掴み上げ、首元を主人に見せる。朽花の手は氷のように冷たく、僅かに死臭がしたような気さえする。主人は私の首に痣ができていることを確認したのか、安堵したような様子を見せた。


「これで、犬神によって、守られるのだな……」


 主人は脱力して膝から崩れ落ちる。安堵からか汗が噴き出しており、


 朽花はそれに興味がなさそうで、私から手を離してどこかに移動を始めた。


「これで情報が揃う。次の素体は……」


 朽花の独り言が聞こえたと思い、彼の影を探す。しかし、気付いたときには先ほどまであった朽花の冷たい気配も、彼の姿形も消えていた。


 朽花の目的が何だったのか、最後まで分かることはなかった。ただ、『次の素体は……』という言葉が、どうしてか頭の中で反響した。


 そうして、ふと犬の首を確認しようとして、私は背筋を凍らせた。切り飛ばした犬の首が、いつの間にかこちらを向き、じっと私を睨んでいた。私は視線を外せないでいた。その視線から、私は憎まれているかのような感覚になり、恐怖からか悪寒が止まらず、体中が震えだす。そして、行き過ぎた緊張からか、私は意識を失った。


 あの日から、闇の中から視線と犬の息づかいが、耳にこびりついて離れなくなった。手や頬についた血の臭いは消えることがなく、毎夜あの犬に狙われていると感じずにはいられなかった。きっとこれは、私の責任感が生み出した妄想だろう。もし本当に恨まれているのであれば、私なんて既に呪い殺されているはずだろう。そう考えていても、私にはただひたすら謝ることしかできなかった。


 人知れず庭に石を積んで墓にすることにした。あまり目立つものを作っても、主人に咎められてしまうだろう。だから非常に簡素なものにはなるが、これで供養になってくれるだろうか。こんなことをやっておきながら、結局自己満足にすぎないことは分かっていた。


 犬の息遣いが聞こえる度に、耳を塞ぎながら、何度も謝罪の言葉を呟く。あの儀式を止められなかった自分を呪い続けた。




 そうして、月日が経っても、領地の状態は何も変わることはなかった。


 依然として蔓延する疫病。集まらない上納する年貢。犬神は領土を守ることはなかった。感覚で分かる。犬神には、疫病を抑える力はないと。私は、朽花に騙されたと気付くには時間はかからなかった。


 だが、主人はそう認識しなかった。私が犬神の力を引き出せなかったせいで疫病が続いていると認識している。私が何かを言ったところで、私は所詮は奴婢ぬひ。そんな存在の言葉など、信用はして貰えなかった。犬神憑きになった影響で、どんな変化が起こるか分からなかったからか、一応は主人は私に暴力を振るうことはなかった。その代わり、暴言が日に日に増えていった。


 あの日、やったことは何だったのか。ただ、罪のない犬を殺しただけじゃないのか。呪われた意味はあったのか。犬の犠牲があった上で、私は誰も助けられないのか。そんなことを考えてしまう日々が続く。


 そして、犬神の儀式が終わっても、主人が年貢の重圧から解放されることはなかった。報告を受ける度に顔色を悪くし、眠れていないかのような状態が続いた。私はそれに対して、何もすることができなかった。奴婢ぬひの立場の上で、主人への口出しができなかった。朽花の行方も掴めることはなく、ただ時間が経ち、主人も、私も、精神が擦り切れていった。




 あの日は、耳を塞ぎたくなるほどの豪雨だった。たまに発生する雷は、轟音で恐怖心を掻き立てる。不気味な昼下がりであった。


 私はいつも通り、屋敷の掃除をはじめとした雑用をしていた。領地を蔓延する疫病については未だに解決できていない。年貢の取り立ても、期日が近づいていた。


 そんな私の前に、唐突に主人が現れた。嗅ぎ慣れない匂いを漂わせ、抜き身の刀を片手で持ちながら。


 この匂いが酒だとすぐに気付いた。客人が来た際に振る舞うことがあり、主人の元へ直接運んだことがあったからだ。


 主人は、酒には非常に弱かった。貴重品なだけあって、有事の際にしか飲まないのだが、客人が酔う前には主人は深く酔うことが多かった。


 今回も、酒を飲んでいる状態だろうと予想はできた。だが、雰囲気が普段と違いすぎる。殺気がピリピリと感じ、本能が逃げ出すように促してきた。


「思えば、お前を拾って、だいたい10年程か」


 主人は口を開く。苛立ちを孕んだ、耳に刺さるような口調だった。私は奴婢ぬひとしての立場から逃げるに逃げられず、次の言葉を待つ。


「使い捨てのどうにでもなる命として拾ったつもりだった。なのに、領地で疫病が蔓延していながら、何故お前はのうのうと生きているのか。農民の身代わりに死ねず、犬神も扱えない。お前はこれまでで、何ができた?」


 主人の目は刺すように鋭く、顔は怒りと酔うから紅潮していた。足がすくみそうになりながらも、少し後ずさりした。


 それに反応してか、主人もこちらに近付いてくる。子供と大人の歩幅などしれている。主人との距離はあっという間に縮まり、主人の刀の間合いに入っていた。


 正面に立った主人の威圧感に気圧されて、体中が震え出す。自分が小さな存在だと思い知らされる。


「飯を食うだけの穀潰しめ……。貴様など拾うべきではなかった!」


 主人は怒声と共に刀を大きく振りかぶり、私の頭部を目がけて振り下ろした。私は思わず後ろに飛び、間一髪でそれを躱す。そこからは、屋敷中を逃げ回った。


 下人げにん(いわゆる使用人)を意に介せず怒号を発しながら私を追う主人。あの時、犬を殺した時の記憶が蘇る。あの状態には、なりたくない。私の頭は恐怖でいっぱいになった。




 必死になりすぎて何かに躓いた私は、逃げ出している勢いのまま庭に放り出された。頭から突っ込んだ影響で泥まみれになり、鼻の奥が土の匂いで満たされる。泥が口の中に入り、少し口内を切ったのかかすかな鉄臭さが血の味として広がっていった。


 立ち上がろうとするが、ぬかるみで足が滑り、とてもではないがすぐに立てそうにはない。倒れたまま後ろを振り向くと、主人は一歩一歩確実にこちらに迫ってくる。私は立ち上がるだけの余裕がなく、手と足で這うようにじりじりと後ずさった。


 主人も庭に足を踏み入れる。もう、このままでは意味もなく殺されるだけだ。


 そう考えた瞬間、手に硬いものが当たる。私が隠れて作った、石を積んだだけの墓。あの犬の首がまた脳裏によぎった。私は恐怖心から、その石を掴んで主人に向けて投げつけた。


 ただ、抵抗のつもりだった。当たるとは、考えていなかった。


 投げた石は主人の頭部に命中する。その拍子に体勢を崩した主人は、豪雨の影響で発生したぬかるみで、足を滑らせた。後頭部から、受け身を取ることもなく、地面へと倒れた。


 鈍い音が響く。私は肩で息をしながら、主人の様子を見た。一瞬だったのか、永遠に感じたのかはもう分からない。待てども待てども主人が起き上がることはなかった。それどころか、後頭部から、水が赤く染まり、広がっていくのが見えた。


 これは、現実なのだろうか。


 私は、今まで何をしてきたのだろうか。


 元は間引きで死ぬはずだった命。その命を拾った主人に、何があっても仕えるべきだと思っていた。


 だが、はじめて自分で生き物を殺した時、死が恐ろしいものだと感じた。ただ、死にたくなかった。


 だが、それは、命の恩人を殺してでも得たかったものじゃない。石を投げたのも、逃げる時間が欲しかっただけだ。




 下人が屋敷の中で騒ぐ。だが、主人が屋敷の中で破壊したものが多過ぎたのか、ここに来るまでにまだ時間がかかりそうだ。まだ主人の死は誰にも気付かれていない。行くならもう今しかない。


 私は雨の中を駆け出した。どこに行くかももう分からない。ただただ、あの場所から離れたかった。


 雨なのか涙か分からない水が、滝のように頬を伝う。


 遠吠えのような叫び声が、曇りきった空に響いた。


 私の長く続く呪われた運命は、ここから始まってしまった。


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