アヤカシ特区、可見依町のワケアリ還送師

笹井風琉

第一部 引きこもり男子の人生をかけた就職

第1話 序章――ある男児の記録

 のちに少年は知る。

 神がくれた愛に、呪いが宿っていたことを。


 § § §


 朱塗りの柱は折れ、小屋根が落ちて板張りの回廊かいろうを押し潰した。少年と水神すいじんが立つこの庭だけを残して、ほかの全てが失われていく。

 六歳の少年には、この屋敷の外のことなどほとんどわからない。ただ人間が川のたどる道筋を変え、岸辺を彼らの思う正しさに整え、それがこの美しい男神おがみの世界を損ねたことだけはおぼろげに知っていた。


「にんげんは、わるいもの?」


 着物姿の少年が問いかけると、隣に立つ水神はぼろぼろとうろこげ落ちていく顔をわずかにゆがめた。けれどすぐにその歪みを消し、長い爪と水掻みずかきのある手で自身の胸を貫くと、内側からとくとくと脈打つたまを取り出す。


「腐り果てる前に、なれにくれてやろう」


 少年の胸に、珠を持つ水神の手がずぶりと沈んだ。

 痛みはない。身の内側をまさぐられるくすぐったさに肩をすくめると、水神の手は胸を抜けて少年の頭をなでてから、膝下まで伸びた長い髪を指先でいてくれる。


 少年の胸には穴どころか傷ひとつなく、ただ内側に、とっ、とっと動く温かなものが残る。そして大切なものを受け取ったあかしのように、胸の中央、水神の握りこぶし大ほどの広さに鱗が浮いた。水神とそろいの鱗を、少年は興味深く何度も指でつつく。


 それから水神は「そうだそうだ」と長い白髪を背中にやって、庭の真ん中にある小さな池のへりにしゃがんだ。水神の黒ずんでいく手が触れると、水面に虹色の波紋が広がる。


 ややあって水神はうなずき、池の中に手を突っ込んだ。そうして布製の手提てさげ鞄と、日除ひよけ布のついた薄紫の帽子を取り出す。池に沈めていたのにどちらも濡れていない。この池はそういう不思議なところで、水神は日頃使わないものをあれこれと中にしまい込んでいた。


 帽子と少年を見比べた水神は難しい顔をする。


「もう、汝には小さいか」


 少年は受け取った帽子を頭にかぶろうとして、うまくいかずに首をかしげた。


「よいよい。このまま持って行け。これがあれば汝の名が皆にわかろう」


 水神は帽子を取り戻して鞄に入れると、その鞄を少年の手に握らせてくる。


「どこか、おでかけ、する?」

「ああ。汝は此処ここを離れるのだ」

「かみさまと、おでかけ?」


 抑揚こそ乏しいものの、少年はその場でぴょんと小さく跳ねる。そんな少年を前に水神は目を大きく見開いた。そうすると、水神の持つごく薄い水色の瞳と縦に長細いあい瞳孔どうこうがよく見える。少年の知る狭い世界の中で、その瞳はいちばん美しいものだった。


われとともにあれば、嬉しいか」

「うん。うれしい。たくさん、これぐらい、うれしい」


 少年が喜びの大きさを伝えようと腕を大きく開いたら、水神は目を細め、両手でほおを包んできた。


「……驚いた。我はどうやら汝を……愛しておったらしい」

「あ、い?」

「はは、汝にはわかるまい」


 声をたてて笑った水神は少年を優しく抱きしめたあと、ほーぅと長く息を吹いた。

 水神の息は泡になり、泡は大きく大きく膨らんで、やがて少年を包んだ。それから泡はゆっくりと浮き上がって、水神の元を離れていく。


「行け、吾子あこや。汝が多くの人に愛されることを、我の終わりに願おう」


 微笑む水神の足が、少年を慈しんだ手が、先端からへどろのように溶けていく。


「かみさま?」


 少年は小さな手でとんと泡を叩いた。泡はかたく、揺らぎもせずに少年の手をね返す。


「かみさま」


 とんとんと、何度も叩いた。黒い水に溶けて小さくなっていく水神がこちらに向かって、まだ形の残る上腕を伸ばす。


「かみさまっ!」


 叫ぶことなど今まで知らなかった少年が大きく声を張り上げると、顔だけになった水神は幼い声に酔いしれるように目を閉じた。


「愛されて、幸せになれ。必ず……必ずだ」


 その言葉を残して水神は消え、あとには黒い泥のようなものだけが残る。やがてその泥溜まりまでも叩き潰し、大屋根が崩れ落ちた。



 泡は時間をかけて明るい地の底から暗い水底へと境界を抜け、少年を水面みなもに連れていく。

 泡の中でうずくまりいつの間にか夢現ゆめうつつの狭間に揺らいでいた少年は、コンクリートでかためられた冷たい川岸に送られた。岸にたどり着くと泡は弾け、少年の小さな身体はとさりとその場に落ちる。


 ぼんやりとしたまま見上げれば、暗い夜空にいくつかの星があった。遠くで大きな物音が絶えず響いていた。

 最後に手渡された鞄を握りしめて少年は立ち上がる。あたりを見回して、それから、空より暗い川へと目を凝らす。


 そして、幼い心で理解した。


 もう、この川の底よりさらに深い、温かで優しい場所には戻れないこと。戻ったところで、朱塗りの柱と白壁の屋敷は残っていないこと。少年がアヤカシらと駆け回った庭はみんな、屋根の下敷きになってしまったこと。


 そして、あの美しい神はどこにもいないのだろうことを。


「かみさま……かみさま、かみさま……かみ、さまぁ……ぁ、あ」


 少年のあげた叫びに気づいたのか、何人もの大人が駆けつけてきた。誰ひとり、水神のような鱗も縦に伸びた瞳孔も、光を透かして七色なないろに輝く水掻きも持っていなかった。


 川へ戻ろうとした少年は大人たちに抱え込まれ、小さな手足をばたつかせて叫び続けた。


 声がれても、肺が痛んでも。

 かみさま、と。

 その言葉しか知らぬ者のように。


 § § §


 十六年前の冬の日のことである。

 とある川の上流で、無理心中事件が起きた。会社員の男を女が川に突き落とし、自身も投身自殺した。


 男には結婚を間近に控えた婚約者が別におり、女には男との間にもうけた二歳の男児がいた。現場付近には女の遺書と乗り捨てた車があり、がけの手前で男児の靴が片方だけ見つかった。対岸で事件を目撃した通報者によれば、泣きながら母親を追いかけた男児もまた川へ落ちたということだった。その後、男児だけが発見されないまま捜索は打ち切られる。


 ところが事件から四年後の冬、その男児が同じ川の下流で保護された。護岸工事中の作業員らが発見したとき、男児は丈の合わない和服を着ていて、髪は膝まで伸び、事件当時通っていた保育園の帽子が入った絵本バッグを握りしめていた。


 奇跡だ、いや、神隠しだと連日メディアが騒ぎたてた。


 だが発見から七日後、男児の生存は誤報であり、発見時には死亡していたとあらためて報じられた。そして人々は男児のことを、風にさらわれるように忘れていった。


 男児の死亡が報じられてから十二年を経た今も、オカルト系ウェブサイトの記録を遡れば、当時この報道にどれだけ好事家たちが沸いたのかがよくわかる。


 けれどそれらの記録のいずれにも、少年の名は残っていない。

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