影を抱く私と光を灯すあなた
恋みぞれ雨
第1話 新しい門出
私――
夢の中で何十回、何百回と繰り返し見てしまう、あの日の光景。大好きだった親友からの拒絶と吹聴、教室中から浴びせられた異質な視線、心を抉るような言葉。逃げ場のない過去の記憶が、今でも頭の奥で響き、心を締めつけ続ける。
気持ち悪い
何度も何度も繰り返し浴びせられたその言葉は、過去の記憶を焼き直すようで、私は堪らず両手で顔を覆った。
「大丈夫……もう大丈夫」
小さく、震える声で自分に言い聞かせる。まるで暗闇の中で独り、呪文のように唱えることでしか、自分を保てないかのように。
息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。何度も、何度も繰り返す。けれど、胸の奥に張り付いた苦しさは、微動だにしなかった。
心臓の鼓動が速い。手のひらにじんわりと汗がにじむ。このまま、ずっと布団にくるまっていられたら。何も考えずに済むのなら――
そんな甘い考えが頭をよぎる。
だけど、そんなことをしていたら、きっとまた同じことの繰り返しだ。変わらないまま、過去の影に縛られたまま、生きることになる。
「とにかく起きなきゃ……」
震えそうになる声をのみ込み、ゆっくりと身体を起こす。布団がふわりとずれて、冷たい空気が肌を撫でた。少しだけ目を閉じ、拳を握る。
大丈夫、大丈夫。そう何度も繰り返した。
視線を壁へ向けると、そこには新品の高校の制服がかかっていた。まだ一度も袖を通していない、真新しい制服。
少し躊躇しながらも、制服を手に取る。指先でそっと生地をなぞると、少し硬い手触りが指に伝わった。ゆっくりと袖を通し、前を留める。鏡の前に立ってみると、そこには高校の制服に身を包んだ自分が映っていた。三年ぶりの制服姿。少なくとも、あの日の自分とは違うように思えた。
「……大丈夫」
今度は、さっきよりほんの少しだけ、しっかりとした声でそう呟いた。
◇
髪を整え、制服の乱れを確認してから、カバンに必要なものを詰める。筆箱、ノート、財布……忘れ物はないだろうか。何度も確認するけれど、気持ちが落ち着くことはなかった。
深呼吸を一つしてから、意を決してリビングへと降りていく。階段を下りる足が、ほんの少しだけ重たかった。けれど、止まってはいけない。そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりとリビングの扉を開けた。
「おはよう、夏美」
ふわりと優しい声が耳に届く。母がテーブルについて、私の方を見ていた。その顔には、いつもと変わらない柔らかな笑顔が浮かんでいた。
「おはよう、お母さん」
気丈に振る舞おうとしたけれど、どこかぎこちない声になってしまう。そんな私を気遣うように、母は笑顔を崩さずに言った。
「制服、似合ってるわよ」
「……ありがとう」
視線を少し落としながら答える。制服を褒められたことが嬉しくないわけじゃない。ただ、どこかくすぐったいような、落ち着かない気持ちになる。この制服を着て、私は本当に大丈夫なのだろうか――そんな不安が、心の奥で渦を巻いていた。
母の向かいの席に座ると、ほどなくして朝食が運ばれてくる。トーストに、目玉焼きに、それから……見慣れない飲み物がそっと置かれた。鼻をくすぐる、ほんのりとした落ち着く香り。
「……これ、ハーブティー?」
カップを見つめながら問いかけると、母は微笑みながら頷いた。
「そうよ。ちなみにラベンダーティーね」
「ラベンダー……」
花の香りが立ち上る温かい液体を、そっと見つめる。
「落ち込んだ気分が、少しでも楽になるかなって思って用意しておいたの」
母の言葉に、指先が小さく震えた。どうして、こうも分かってしまうのだろう。
「……わかるの?」
静かに問いかけると、母は優しい目をしたまま、まるで当たり前のことのように言った。
「そりゃわかるわよ。ずっと夏美のことを見てきたんだから」
まるで心の奥の奥まで見透かされているようで、目を伏せる。
母は、きっと気づいていたのだろう。昨夜、あの日の夢を見たことも、それで今朝から私が落ち着かない気持ちでいることも。
◇
あの日、逃げるように帰宅した私は、母の前で涙ながらにすべてを打ち明けた。私が、同性愛者であること。親友に告白して、拒絶されたこと。そして、教室で何が起こったのかを。
母は驚いていた。けれど、決して私を否定しなかった。静かに話を聞いて、何も言わずにそっと抱きしめてくれた。
「大丈夫、大丈夫よ」
その温もりの中で、私は声が枯れるまで泣き続けた。
あの日から、私は学校に行けなくなった。それを母は、決して責めることはなかった。昨日も、「無理して学校に行く必要はないのよ?」と優しく声をかけてくれたばかりだ。
本当は、心配も迷惑もかけたくない。でも、私は――変わりたい。
私のために、高校を探してくれた人がいる。当時の担任の先生が、私が通えそうな高校を、必死になって見つけてくれた。あの日以来、一度も学校に行けなかった私のためだけに。同じクラスだった子たちが、私を傷つけた人たちが、一人もいない高校を探してくれた。
だから、私は頑張らなきゃいけない。母のためにも、先生のためにも、そして――私自身のためにも。
◇
ラベンダーティーをそっと口に含む。優しい香りが鼻を抜け、じんわりと身体の奥に染み込んでいくようだった。
「ふぅ……」
短く息を吐く。少しだけ肩の力が抜けた気がした。でも――不安がなくなったわけじゃない。
目の前には、これから向かう学校のことがぼんやりと浮かんでいた。
真新しい校舎。知らない人たち。新しい環境。そして――"もし"の数々。
もし、本当の私が誰かにバレたら。
もし、また同性に恋をしてしまったら。
もし、私のことを知っている人がいたら。
もし――
考え出すと、止まらなかった。
"もし"が頭の中を埋め尽くして、心の奥をじわじわと蝕んでいくと、知らないうちに指が震えていた。
「入学式だからって、行かないといけないわけじゃないのよ?」
ふと、優しい声が降り注ぐ。母が、静かにこちらを見つめていた。どうやら、一目見て私が何を考えているか、すぐに分かってしまったらしい。
「……大丈夫。行くよ」
少しでも不安を隠すように、無理やり笑顔を作る。それはきっと不自然なものだっただろう。けれど、母は何も言わず、ただ静かに私の言葉を待っていた。
「今日行けないなら、きっとこの先も行けないだろうし」
言葉にしてみると、余計に胸が締めつけられる気がした。それでも、そう言うしかなかった。
「そう、ね。頑張って、夏美」
母の穏やかな声が、心の奥に染み渡り、私は静かに頷いた。
「うん」
これが強がりだってことは、きっと母にはバレている。でも、それでもいい。
これは、私自身へ言い聞かせるための言葉でもあるから。今日という日をどうにか乗り切ることができれば、きっと明日もどうにかなる。そうすれば、明後日も、その先も。
大丈夫、きっと大丈夫。私は私を信じなきゃいけない。もう、一歩踏み出さなきゃいけない。
そう何度も自分に言い聞かせながら、私は約三年ぶりに学校へと向かった。
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