第20話 整理の必要性
また面談に来ますと言い残した美智琉とともに、芙季子も病室を出た。
一連の騒動は集結したものの、将来的には課題が残っている。
しかし、芙季子が関わることはもうないだろう。
「由依さんからの手紙は、亜澄さんの救いになったんですね」
「そうだな。由依さんは、いつか笑顔で会いたいねと、手紙を締めくくった。誰の言葉よりも、一番心に響いただろうな」
「親友であり、姉妹であり。複雑な関係性になりましたけど、二人の未来が明るいものになることを願います」
病院を出ると日常の喧騒が目と耳に入って来る。
タクシーを降りて走ってくる男性。
カートを押しながらゆったりと歩く老婆に付き添う老爺。
繋いでいた手が離れて慌てて子供を追う母親。車の走行音、クラクション、笑い声、騒ぐ声、怒る声。
どこかで何かが起きても世界は回り続ける。個人に起きた悲しみ、怒り、喜び、戸惑い、全部なかったように、時間は進む。
世間は厳しく、一度踏み外せば立て直すのが難しくなる。だが、捨てる神あれば拾う神もいる。差し伸べられた手を掴んで、這い上がって欲しい。そして亜澄には夢を掴んで欲しい。
「いい仕事したな、って思ってる顔だな」
「人の顔を見て、心を読まないでください」
美智琉の言う通りだった。
芙季子も絶望の淵にいた。
亜澄と同じ選択をしていても、おかしくなかった。実行しなかったのは、たまたまだ。
もう二度とあんな悲しい思いはしたくないけれど、今回の事件を取材したいと思ったのは、悲しい思いをしたからこそだ。
あのまま妊娠が継続できていれば、今回の事件に関わることはなかった。
息子の死に何か意味があったと考えるなら、亜澄と由依を助けるためだったのかな、と思えた。
亜澄の喜ぶ顔を見て一歩踏み出してみようと、勇気をもらった。
「今日、旦那と話をします」
家に帰るまでに気持ちが怖気づいてしまわないように、美智琉に宣言する。
「なんだ、まだ話していなかったのか」
美智琉が呆れたように言うのもどうりで、崇史との喧嘩から2週間も経っていた。
「なかなか言い出せなくて、先送りにしていました」
いつもの悪い癖が出ているのは自覚していたが、芙季子の中で許せない気持ちが溢れていた。
そんな感情がある状態で話し合うのは無理だと思っていた。
「切り替えっていうか、整理っていうか、感情が渋滞していて。いつまでもこのままにしておくつもりはなかったですけど、もう少ししてからって思っていたら、日にちが経ってしまいました」
「四十九日に対することだけか? 息子を亡くしたことに対する整理か」
「両方です。まだ悲しみが強いです」
「無理に整理をつけなくてもいいと思うんだ。私はな……」
言い淀む美智琉にその先を促して良いものか。迷いながらも、訊いてしまった。
「先輩も整理したくない何かがあるんですか」
美智琉の言葉には、実感がこもっているように芙季子には感じられた。
「あるよ。父のことがね、忘れられないんだ」
歩きながら、美智琉は話してくれた。4年前に亡くなった、美智琉が敬愛する父親の最期を。
「夜、今日も事務所に泊まるから、朝に着替えを届けて欲しいと、父から連絡を受けて、翌朝私が事務所に向かった。父は机に突っ伏していて、眠っているように見えた。だがどれだけ声を掛けても父は動かなかった。息をしていないことに気がついて、救急車を呼んだ。搬送はされたが、死亡確認をしただけだった。仕事柄、どこで恨みを買っているかわからないから、警察に連絡をして、捜査はしてもらったが、解剖結果が出て、死因は脳出血だと。外傷はなかった。警察の捜査でも不審点は見つからず、事件性はないと判断された」
深く哀しい話のはずなのに、美智琉に動揺は見られない。
「葬儀を終えて、手続きのために事務所に行こうとしたんだが、足が止まって動けなくなった。最期の姿を思い出してつらくて、涙が溢れて。それが半年ほどして、すっと行けるようになったんだ」
「何があったんですか」
「私は父との思い出を忘れようとしていた。アルバムは押し入れに仕舞い込んで、父の部屋にも近寄らず、記憶に蓋をして、父の話はしないようにしていた。ある日、母がアルバムを見返していた。私はやめてくれと訴えたんだが、母は父との馴れ初めやデートの話を始めた。私が生まれた時の事も。父にまつわる話をしていると、涙は出るが、心が癒されていったんだ。大切な人の話をする事が、私にとっては、とても大切だったんだと気がついた。それ以来、母や知り合いと父の話をするようにした。今でもまだ哀しいし、涙も出るけど、無理に整理したり、忘れようと努めたりしなくていいと思ったんだ。だって私は、父が大好きだからな」
最後は自信満々言い切って、美智琉はにっと笑顔を向けた。
大切な人を失ったことを知りながら、芙季子は美智琉の元に駆けつけることをしなかった。父親への強い思いを知っていたのに。
たった一回の喧嘩をいつまでも引きずり、連絡を躊躇った。
強い美智琉なら、すぐに立ち直るだろう大丈夫だろうと、思い込んでいた。
美智琉の心をわかっていなかった。
範子が引き合わせてくれなかったら、美智琉と再会することはなかっただろう。
人生で一番つらい時期に美智琉と再会し、助けられた。
美智琉に肯定してもらえたことが、芙季子の気持ちを楽にしてくれた。
小さな事にこだわっていては、大きな事を取り逃がす。そのことを気づかせてくれた。
「泣くって疲れるよな」
「はい。消耗しますね」
「父の事をほんの少し思い出すだけで、涙が出るし、洟も出る。熱っぽくなってぼーっとする。仕事は止まるし、眠れなくなる。哀しむことに疲れてしまった。なら蓋をしてしまおうと思った。結果は、さっき言った通りだ。父と過ごした日々は、とても大切で掛け替えのないものだった。だからこそ哀しみが深かった。でも泣きたい時は泣けばいい。感情に蓋をしない方がいいと悟った。もちろん、その感情を人にぶつけてはいけないけどな。ぶつけるんじゃなく、思いを共有して共調できれば癒しになる」
「私は、ぶつけちゃいました。余裕がなくて」
崇史との喧嘩を思い出す。かーっと頭に血が上って、自分の言いたいことをぶつけた。
「毎日顔を合わせているんだろう。ずっと怒っているのもつらくないか」
美智琉の言うとおりだった。
崇史の傷ついた顔が頭から離れない。自分の言葉が、あんな顔をさせてしまった。
「今度は感情的にならずに、話せるといいな」
「冷静に話してみます」
自分の思っていることを話すだけではなく、崇史の気持ちもじっくり聞きたいと思っている。
そもそも最初から思っていた。崇史と息子の話がしたいと。
してはいけないと勝手に思い込んでしまった。
ひざを突き合わせて、腹を割って、話がしたい。
「双方が納得のいく話し合いになるといいな。私が必要ならいつでも連絡いいぞ」
美智琉がスーツのポケットからスマホを取り出し、耳に当てた。
「やめてください、縁起でもない。別れる気はないですから」
思わず体を引いて距離を取ろうとすると、美智琉がけらけらと笑い出した。
「いや、弁護士としてではなくて、友人としてなんだがな」
「あ……紛らわしい言い方をしないでください」
真に受けてしまったことが恥ずかしくなって、唇を尖らせた。
「私は少年犯罪専門だからな。離婚問題を手掛けたことはない」
「もう」
拗ねて見せながらも、美智琉にかわかわれたことは、嫌ではなかった。
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