双葉~書き出し祭り参加作品集~
戸松秋茄子
22回:帝国の梟はアルヴヘイムの夢を見るか?(会場8位/総合50位)
悪夢を見ない日はない。
『新時代万歳! 人類万歳!』
夢の中では、いつも誰かが叫んでいる。誰かが泣いている。血飛沫が舞い、そして全てが炎に包まれる。
『ダメだ! 伏せろ!』
私の罪、私の傷跡、私の戦争――
「旦那様?」
甘く切なげなソプラノが私を現実に引き戻した。
エリだ。
整った顔を心配に歪ませている。翡翠色の瞳に、銀色の髪。白い肌、長い耳。私の奴隷、私のエルフ。
「大丈夫だ」体を起こした。カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細める。「また魘されていたか?」
エリは頷いた。彼女も起きたばかりらしい。まだ服を着ていない。逆光の中、ベッドの上で美しい裸体を露にしている。
「大丈夫だ」私は繰り返しながら、エリの背中に腕を回した。肌と肌を重ね、強く抱きしめる。体の芯が熱くなる。それと同時に、頭の中でまた誰かの声が聞こえた。殺戮の炎が燃え上がった。
『焼き払え! 一匹も逃がすな!』
洗面所で吐いた。顔を洗った。髭を剃ろうとしたが、手が震えてうまくできない。
『本国から離れすぎたのではないかな、ワイス君。言葉を間違っているぞ。これは虐殺ではない。掃除だ』
テッド・ワイス。黒髪痩身、ヤク中の三五歳。
『エルフとヤりすぎるのも考えものだな、え? こうやって情が移る馬鹿が出てくるのだからな』
テッド・ワイス。帝都の秩序を守る刑事。
『こいつらは人間ではない。その証拠に、エルフ相手にいくら子種をばらまこうが、それが結実することはない。我々とは
テッド・ワイス。戦場で数多のエルフを殺めた英雄。
『いいかね、ワイス君。こいつらは神が我々人間のために作り給うた奴隷なのだよ。抱くならうまく抱け。情を移すな。それは我々人類と神への冒涜だぞ』
髭を剃り、スーツに着替えた。リビングでは、エリが朝食の準備を進めている。鍋から立ち上る湯気、小気味よく揺れるポニーテール、エプロンドレスの背中。
彼女の料理を食べるのはいつ以来だろう。昨日までずっと捜査本部に詰めていた。町医者殺しの犯人を追っていたのだ。ちょっとした追走劇の末捕まえた新聞屋の倅に吐かせたのが昨夜未明。アパートメントに戻ったのがさらにその後。あれから五時間も経っていないだろう。しかし、朝食をゆっくり味わっている余裕はない。レバーのパテとパン、スープを急いで掻きこむ。
「戸締りを頼む」玄関でエリから鞄を受け取りながら言う。「今日はパレードだ。普段は起きないことが起こるかもしれない」
「はい」エリは少し迷うようにして、「あの、旦那様」
「いい加減、その旦那様というのをやめてくれると助かるんだが」私は苦笑した。「なんだ?」
「いえ、その……」目をそらし、俯く。「なんでもありません」
エリは押し黙った。瞳が揺れている。彼女の頬に手を添え、上を向かせた。
「遠慮せず言ってくれ」
「胸騒ぎがするんです」エリは目を合わせずに、「旦那様の身に何かよくないことが起こる気がして」
「エルフの勘というやつか?」
「わかりません」エリは首を振った。「私は長老様たちとは違いますから。その……」
「君が言いたいのは、アルヴヘイムのことか?」
「ご存じなんですか?」エリは目を丸めた。
「ああ。戦争中に聞いたことがある。エルフに伝わる信仰なんだろう? 全てのエルフがいずれ帰る場所。エルフが積み重ねてきた叡智の全てがそこにあるという魂の故郷、アルヴヘイム」
「ええ。長老様たちは瞑想によって生きながらにしてアルヴヘイムに到達することができたと言われています。いえ、エルフなら修練を積めば誰でもそこに至ることができる、と。でも、実際に私の周りでそんなことができたエルフは知りません」それから髪を耳にかけ直し、「すみません。変な話をして」
「いや、いいんだ。ありがとう」笑みを作った。「気を付けることにするよ」
エリはまだどこか後ろ髪を引かれるような顔をしていたが、私が出立の意を告げると、両手を揃え、深々と頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
『血迷ったか、ワイス! その銃を下ろせ!』
更衣室でスーツを脱ぎ、制服に着替える。
『テッド、安心してくれ。みんなお前の味方だ。あのくそったれな大尉のことなんて誰も気にかけやしないさ。燃やしちまおう。自分で点けた火に焼かれるなら、大尉殿も本望だろうさ』
梟の紋章があしらわれたジャケットにコート、制帽を身に着ければ、誇りある
『なあ、テッド。戦争が終わったら、一緒に帝都の警邏隊に志願しないか? きっとエルフを焼くよりはマシな仕事だと思うんだ』
私は
「あれ、警部補。今日はお休みでは?」
刑事部屋に顔を出すと、テーラー巡査の姿があった。眼鏡にそばかす、猫っ毛の若者だ。
「帰って少し寝ただけだ。課長命令でな。君は一人留守番か?」
「ええ、あいにくと。皇太子殿下の晴れ姿を拝む栄誉には浴せないようです」テーラーは肩をすくめた。「人手不足もここに極まれりですね。いま、留置所で集団脱走でも起きればどうします?」
「縁起でもないことを言うな」軽く窘める。「留置所と言えば、
「ゲロってすっきりしたみたいですよ。大人しくしてるそうです。ときに、警部補は一緒にお留守番してくれるんですか?」
「いや、課長に呼ばれている。どこにいるかわかるか?」
「けっきょく俺一人ですか」テーラーはため息をついた。「課長なら、十三番通りで指揮を取っているはずですよ」
礼を述べ、テーラーに背を向ける。最後に、能天気な声で送り出された。
「俺の分まで祝ってきてくださいよ!」
帝都はすっかり祝賀ムードだ。通りという通りに人が溢れ、建物という建物に帝国と王国の国旗が飾られていた。ウェイン皇太子とメアリー王女。新郎新婦の母国の旗が。
十三番通りに入ってほどなくして、黒山の向こうに課長たちの姿を見つけた。人込みをかき分け、声をかける。
「おやおや」ドナルド・ロウ課長は私に気づくなり、眼鏡を押し上げた。「命令だというのに、ろくに寝てないな? いや、愛しのエリが寝かせてくれなかったと見える」
「冗談はよしてください」敬礼を解いて言った。「何だって私をお呼びに?」
「何、深い意味はない」課長は二重顎を撫でながら、「いわば、ご褒美だよ。身を粉にして働く部下に、パレードの特等席を用意してやろうと思ってな。それとも、
「いえ、ご厚意に感謝します。……何か異変は?」
「エルフの掏摸を捕まえたよ」赤毛の伊達男、ブラッド・スミス警部補が答えた。私を警邏隊に誘った、軍時代からの知人だ。
「そのエルフは?」
私が問うと、課長は部下たちと顔を見合わせた後、堪えきれずといった様子で噴き出した。
「おいおい、笑わせるなよ」課長は私の肩を叩いた。「
エルフの命は塵より軽い。それは戦場でも帝都でも同じだ。自分にそう言い聞かせる。これが帝都の、人間の常識なのだと。
「心配するな」ブラッドは私の肩に手を置いた。「通りは汚してない。パレードに水を差すことにはならないさ」
「らしいな」どこにも暴力の痕跡は見当たらない。エルフの亡骸も。
「そう。何人たりともこのパレードに水を差す権利はない」課長は神妙に頷いた。「今日この日が人類の輝かしき歴史の一ページになるんだからな」
「肩の力を抜けよ、テッド」ブラッドがウインクした。「またとない日だ。今日くらいはお前も楽しめ」
「ああ」私は言った。「そうできるものなら」
ウェイン皇太子とメアリー王女の婚約は、隣国同士の関係改善を意図したものだ。有史以来、小競り合いを繰り返してきた両国の王族が婚姻で結ばれるのだ。これぞ新時代のはじまり、国家の垣根を超えた人類協調の歴史のはじまりと新聞はこぞって書き立てる。
「見ろ! 両殿下だ!」
新郎新婦は臣民ににこやかに手を振っていた。白馬が曳く馬車に座し、軍服とドレスを身に纏い、馬車の前後に多くの近衛を伴って。
「皇太子殿下万歳! 王女殿下万歳!」
臣民たちは声を限りに祝福する。彼らの門出を。輝かしい未来を。
「帝国万歳! 王国万歳!」
歓声が喧しい。頭がくらくらする。周囲の風景が二重写しになる。
「新時代のはじまりだ!」
課長がすぐ隣で叫ぶ。その台詞をどこかで聞いたことがある気がした。たとえばそう、夢の中で――
「新時代万歳! 人類万歳!」
叫びと悲鳴、血と爆炎――私はいったい何を見ている? 何を聞いている? 単なる白昼夢か、フラッシュバックか、はたまたヤク中の見る幻覚か。
「ダメだ! 伏せろ!」
誰がが叫んだ。愛すべき臣民たちの顔がこちらを振り向く。課長にブラッド、名も知らぬ近衛たち。
私だ。
私が叫んだのだ。
どうして――そう思うと同時だった。
閃光。
そして、雷のような轟音とともに、皇太子夫婦を乗せた馬車が爆炎に包まれた。
次の更新予定
2025年1月12日 00:00
双葉~書き出し祭り参加作品集~ 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick
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