おやすみ映画館

清瀬 六朗

第1話 オールナイト上映会

 菱垣ひしがき志覚しかく

 知ってるよ。

 「世界のSHIKAKU」だろう?

 映画監督の。

 いまの人なら、まあ、そう言うだろうと思うんだ。

 でも、それは最近の話。

 昔は、長いあいだ、ごく一部のマニアだけが知っている映画監督だった。

 少なくとも、作品を観ていたのは一部のマニアだけだった。

 いまから四十年ほど前に青春映画『となり許嫁いいなずけ』で華々しくデビューした。この映画はヒット作だった。だから、名前だけ知っている、という人は、それなりにいただろう。

 でも、そのヒットの後は、渋くて、画面も暗くて、衒学げんがく的な作風の作品しか撮らなくなり、忘れられていった。

 二年に一本ほど新作は公開していたのだが、まったくアタらなかった。

 というより、最初からアタるのを放棄しているような映画ばっかりだった。

 それでも、私を含め、その衒学趣味に酔い、作品を支持する、少数だが熱狂的なファンがいた。

 そのころ、繁華街のハズレにある映画館で、毎年、年に二回ほど、その菱垣志覚監督の作品のオールナイト上映会というのをやっていた。

 無名の監督に転落したとはいっても、小劇場と言うにはちょっと広い規模のその映画館で、半分くらい席が埋まるくらいの客は来たのだ。

 そのオールナイト上映会で、最後から一本前にかならず上映されていたのが、『やどなしいぬ』という映画だった。

 上映時刻は、だいたい二時から四時くらい。

 国際謀略アクションものということになっていたが、若い男と年上の女が東ヨーロッパの街をただ歩き回り、メシを食い、泊まるところを捜し、という場面の繰り返しを、唐突に出て来る衒学的な会話の場面でつないだだけ、という作品だった。

 私のような衒学趣味好きのファンでさえ、この作品のどこをどう楽しんでいいか、わからない。

 そんな映画だ。

 で、その次の最後の回が、デビュー作だった『隣の許嫁』か、その時期の最新の作品か、ということになっていた。つまり、観客がいちばん観たい作品だ。

 ところで、私は、だいたい、菱垣志覚オールナイトでは、劇場の右側、前後で言うとまん中あたりの席に座ることにしていた。

 理由は簡単で、そこがいちばんトイレに行きやすいから。

 あるとき、そこの席に座っていると、歳上のおじさんが、この『やどなしいぬ』が始まる直前にやって来て、私の席の横、三席ぐらいおいたところに座った。

 そのころの映画館は、いまみたいに入れ替え制が普通じゃなくて、チケットさえ買えばいつでも入場できたし、もちろん席は自由だった。しかも、チケットは最終の作品の直前まで売っていた。だから、二番めか、短い作品が先にあるときは三番めの作品ぐらいで入場してくるひとはそれなりにいたのだが、ここまで遅い時間に入ってくる、というのはあまりなかったと思う。

 頬の全部が赤い極端な赤ら顔で、顔が丸く、小太りの人だった。垂れ目で、まぶたの二重が深く刻まれている、という印象の男だった。頭に、赤い、奇妙な幾何学模様の入ったバンダナをつけているのが目立つ。

 高踏こうとう的で衒学的な菱垣作品にはあまり似合わない。

 来て、『やどなしいぬ』が始まるとすぐに寝てしまい、ときにいびきをかき、『やどなしいぬ』が終わると起きて、劇場を出て行ってしまう。

 最後に上映する作品がいちばんおもしろい、または、新しいのに、どうして観ないで出て行くのだろうと思った。

 その次の回も、そのおじさんは、私が同じところに座っていると、同じように『やどなしいぬ』が始まる前に来て、最後の作品が始まる前に出て行ってしまった。

 そのまた次の回もそうだった。

 何をやっているのだろうと思った。

 納得できる答は一つだけだ。

 このおじさん、『やどなしいぬ』の回に、寝に来ているのだ。

 考えてみれば、オールナイト上映会のチケットは少し高めだが、ビジネスホテルに泊まるよりはずっと安い。当時の映画館の椅子は居心地がいいとは限らなかったが、その映画館は柔らかくて座りやすい椅子だった。したがって、横になることはできないけど、寝心地はよかっただろう。

 普通にオールナイト上映会に来ている観客でも、どれか一作品で寝るとしたら、この『やどなしいぬ』で寝ることにしている人が多かった。というより、たいして成功した作品ではない『やどなしいぬ』が、終わりから二作品め、いちばんみんなが寝そうな時間帯に必ず配置されている、というのは、観客がここで寝るためなのだろう。つまり、劇場のほうも、「寝るならこの作品」とわかってプログラムを組んでいたのだ。

 それでも、寝るためだけにオールナイト上映会に来る人、それも毎回来る人は、私はこのおじさんしか見たことがない。

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